38.ジェニー・オークスの絶望 ◆
前みたいに笑ってほしかった。
……そうできないのは、私のせいだって。わかっていた。
私には素敵なお父様とお母様がいて、優しいお兄様はチェスターというお名前なの。
お仕事や社交で忙しくても、お父様もお母様も私達をとても可愛がってくれた。
四つ年上のお兄様と私の髪はおんなじで、赤茶色。瞳は私がお父様と同じ灰色で、お兄様はお母様譲りの茶色で。
『わたし、目つきが悪いわ。お兄様』
『どこが?とっても可愛いじゃないか』
お兄様は垂れ目で、見るからに穏やかで素敵なのに、私ときたらちょっとつり目で、気を付けないとすぐ不機嫌に見られてしまう。
六歳の私はお兄様とお揃いの目がよかったと騒いで、お父様やお母様を困らせたりもした。
せめて髪はおんなじにするために伸ばして、時々整えてもらったり、長すぎたらお兄様にも相談して切り揃えた。
『これはなんと美しいお嬢さん。俺と一緒に散歩でもいかがですか?』
『行くわ!お兄様と一緒ならどこへだって。』
『はは、ありがとう。おやつもありますよ~?』
『すてき!』
お兄様の笑顔は、空に輝く太陽のように眩しくて暖かい。
太陽の女神様はたくさんの人々を癒したというけれど、お兄様を見ていると、女神様のお話だって笑顔のことなんじゃないかって思えてしまう。
『わたし、お兄様の笑顔が大好きだわ。とっても暖かい気持ちになるの。』
『俺もジェニーの笑顔が大好きだよ。可愛い妹のためならなんだってできる気がする。』
『ふふ、本当になんだって?』
『なんでもさ。』
『じゃあ女神様に会ってお話してみたいわ!』
『そうきたかぁ…』
私の我儘を笑って聞いてくれるお兄様。
イタズラしたら悪い事はだめだって叱ってくれるお兄様。
私が泣くと困り果てた顔で焦るお兄様。
優しいから女の子に囲まれやすくって、私が追い払ってあげなきゃだめなお兄様。
ずっと一緒にいられると思っていた。
『チェスター!お前がアベル第二王子殿下の従者に選ばれたぞ!!』
お父様が大喜びで家に帰ってきた日、使用人の皆も笑顔でパーティーの準備を始めた。
王子様の従者に選ばれるなんてすごい事だと、私もお母様もきゃあきゃあ言いながらはしゃいでいた。落ち着いてるのは当のお兄様くらいで、もしかして先に知っていたの?と聞いてみれば、単に実感がないだけと言っていた。
『父上、そういえば属性はどうだったんです?』
『ああ…無しだ。』
『へぇ?珍しいですね。』
お兄様は意外そうに首を傾げた。
第二王子殿下はまだ小さいのに剣がお強くって、みんな魔力の高さにもすごく期待をしていたらしい。
結果は魔力無しに終わって。
でも、無いからどうだと言うような人はうちにはいなかった。
当たり前だと思う。私だって、お兄様が魔法が得意でも不得意でも、なんにも気にならないもの。
『従者って事は、俺は十六の歳まで学園はお預けだなぁ。』
『じゃあ、もっとお兄様といられるのね!』
学園は寮に入ってしまうと聞いていたから、私は純粋に嬉しかった。
それだけ延びるなら、私はお兄様より一年遅れだけど、一緒に学園に通う事だってできる。お兄様が王子様の従者に選ばれてよかった。私はとっても運がいいわ。
『そうだね、ただ従者の仕事はあるんだろうから、城に泊まる事も出てくると思うよ。』
『…そうなの?』
『第二王子殿下次第かな~。噂は色々あるけど、実際どんな人かまだわかんないからね。』
私はがっかりしてしまった。
学園に行ってしまうまではお兄様とずっと一緒にいられると思っていたのに。
でも、従者にならずに学園へ行ってしまった場合と比べたら、全然たくさん会えるよとお兄様に言われてちょっと持ち直した。
『第二王子殿下が、あんまりお兄様を連れまわさない人でありますように。』
私は自分の部屋で朝晩祈った。
朝は太陽の女神様に、夜は月の女神様に、お願いした。
お兄様が、私を…置いていかないように。
『ケホッ!コホ……』
最初に咳が出たのも、その頃だった。
『わたしは大丈夫ですわ…』
その言葉を繰り返した。
だって、そう言わないとお兄様が、お兄様の笑顔が、曇ってしまう。
心配そうに、つらそうに、悲しそうに、あぁ、どうかそんな顔をしないで。
『この薬でも駄目となると…私の知識ではもう……』
何人ものお医者様がそう言った。
私は走れなくなって、馬車で揺られるのもつらいからお庭までが限界で、楽しみにしていた教会での魔力鑑定もお預けになった。
ある日には突然第二王子殿下がいらっしゃって、とても驚いた。
その一度しか会わなかったけれど、殿下は思ったより優しい人で、お兄様は彼と色々話した後、深く頭を下げていた。
四年経っても、私の病気は治らない。
長く話をすると咳が出るので、お友達は皆「うつったら困る」と言って会えなくなってしまった。
歩けなくなって、立てなくなった。
お父様もお母様もお兄様も、私の部屋に来ると無理して笑う。
咳がひどくなるにつれて私は喉を痛め、ただ呼吸しているだけでゼイゼイいうようになった。
お兄様は数日に一度しか帰らないような時もあったけれど、帰ったら一番に私の部屋に来てくれた。お花を持ってきたり、アクセサリーをくれたり、本を借りてきてくれたり。
『あり、と……おにぃ、さま……』
『無理に喋らなくていいよ、ジェニー。』
苦しそうに笑うお兄様を見ているだけで、私は涙を浮かべてしまう。それを見てまたお兄様が悲しい顔をする。
私のせい、私のせい。
もし、今よりひどくなったらどうなってしまうのだろう。
一人きりで部屋にいると不安で仕方ない。
お父様、お母様、お兄様…早く帰ってきて……
『ジェニー、落ち着いて聞いてくれ』
『……?』
『父上と母上が……事故で、亡くなった。』
それはあまりにも突然だった。
お父様とお母様が乗った馬車は、崖から転落してしまったのだという。
お兄様はもう、第二王子殿下と一緒に学園へ行かなくてはならない。
誕生日はまだだから、爵位を継げるようになるより入学が先になってしまう。一時的に公爵代理を父方の叔父様にお願いする事になったと、お兄様は言った。
そうして、十二歳になった私の地獄が始まった。
叔父様は…いえ、叔父はいつの間にか、長くうちに仕えてくれた使用人を全員切り捨てていた。
私はすぐには気付けなかった。
だって、部屋を出るどころかベッドから降りられないのだから。
『誰もいないから私が世話をしよう。』
気色の悪い笑顔でそう言われた時にようやく、私は何があったかを聞いた。
学園にいるお兄様の耳に届かないようにと、彼らは解雇ではなく……命を奪われていた。一瞬、理解できなくて。
『さあ食べなさい、私によく感謝するんだ。』
叔父が手づかみした食事を口元へ運ばれた。
飲み物もその手のひらにすくったものを飲めと言われた。
断ると頭を掴まれて口に押し付けられた。
ベッドから降りられない私が、信頼できる使用人もなしにどうやって――ただの「人」として普通の事が、できるだろうか。
それだけは嫌だと手足に擦り傷を作ってでも這い出せば、鞭で打たれて足枷をベッドに括りつけられた。
…屈辱で、頭がおかしくなりそうだった。
それでもこれ以上があるとは思っていなかった。
私は子供だったから、男というおぞましい生物について理解していなかった。
『教えてあげようか、君を病気にしたのも、ご両親を殺したのも私だ。』
急にそんな事を言い出して、私は耳を疑った。
私の病気を?当時ここに寄りもしなかった叔父が?そんなはずはない。それより、お父様とお母様を殺した?本気で言っているの?
『私には絶対に敵わない。わかるね?ビョーキ!君が動けないのは私がやったんだよ。すごいだろう?魔法だよ魔法。絶対に治してあげないからね。ハハハ…私に逆らっても意味がない。わかったか?』
『…ゎだ、じ、…は、』
元から、悪化し続けるこの病気が治るとは思っていない。もう原因なんてどうでもいい。
くだらない嘘だろうと、本当にそうだろうと、こんな人間に従順になるくらいなら
『それとも、学園にいるお兄様も殺されたいかな?』
私の目が怯えたのを見て、叔父はニヤリと笑った。
『そうだ。大人しくするんだよ?』
使用人がいなくなって一週間。叔父は…
『私はね、元々君のお母さんが好きだったんだ…』
お兄様
『絶対に目を開けるな、開けたら抉るからね…クソ、何で目の色はそっちなんだ』
お兄様たすけて
『泣きわめくな!ゼーゼーうるさいんだよ!』
おにい、さま
『大好きなお兄様に見せつけてやろうか!?お前のこの姿を!!』
――…
『気色悪いだろうな!吐くかもなぁ!?嫌われるだろうなもう二度とお前を見てくれやしないだろうな!!ッハハ、ハハハハハハハハハハ』
……あぁ
『ざまあみろ!ざまあみろ兄貴!お前の物は全部、全部私が!私が奪ってやったんだ!!』
はやく しんでしまいたい。
ジャキッ、ジャキッ。
お兄様とお揃いにするために、伸ばしていた髪が、切られてしまった。…ひどい切り方。整えられやしない。
『そいつすっかり無反応だな。死んだか?』
たまに来ていた男が、そんな事を言った。
叔父の仲間らしいけれど、いつもフードをかぶっているから顔はわからない。
……こうなって、反応する気力が残る人なんているのだろうか。
貴方、なんなら同じ目に遭えばいいのだわ。同じ病気になって、同じだけ奪われて、同じだけ苦しんで、何か…反応する意味があるの?
『いいから、それ持っていけ。最後の通告だ』
『わーったよ。じゃ、後でな』
男が去ってから、叔父が私を覗き込んだ。
私の選択は目を開くか閉じるかくらいしかない。視線を合わせるのは不快過ぎたので、ただ天井を見ていた。
私は時間が過ぎるのを待つだけの、人形のような存在だった。
意識と身体を切り離して考えていないと、狂って元には戻れない気がしていた。
けれど、
『お前のためにチェスターが人を殺すぞ』
『――ぇ……?』
その言葉は、あまりにも
『お前を殺されたくなければ、第一王子を殺してこいって言ってあるんだ』
『…ぃ、あ゛』
――俺もジェニーの笑顔が大好きだよ。可愛い妹のためならなんだってできる気がする。
『楽しみだねぇジェニーちゃん?人殺しになったお兄様に会えるぞ!』
『嫌ぁぁぁあ゛ああ゛ああ゛あ゛あ゛!!!!!』
私は叫んだ。
喉が千切れて血が出ても、うるさいと殴られても、足枷がついたままなのに暴れて、蹴られて、首を絞められて、なのにいつもと同じ事をしようとする叔父を叩いて、折られて、
お兄様、お兄様
貴方は、貴方だけは何も知らずに学園で
私と違って、綺麗なままで生きてくれていると信じてた。
お願い、こんな地獄は知らなくていいから、見なくていいから、どうか
ここに来ないで。
こんな人の言う事を聞かないで。
明るく笑う貴方のままでいて。
どうか、どうか私を
私を捨てて。




