373.僕には荷が重い
日曜の午後、王立学園のコロシアムには剣戟の音が響いていた。
《剣術》上級クラスの生徒が六人、刃を潰した訓練用の剣で三組同時に一対一の試合をしている。担当教師のレイクスは全てが目に入る位置で見守っていた。
今週唐突に発表されたこの特別授業に参加しているのは、一人を除けば自ら参加を希望した生徒のみだ。予定のある者や休日にまでやりたくないという生徒は来ていない。
「…日曜だというのに、結構な人数が来ているものですね。」
観客席に上がり、他の生徒から離れつつも見やすい場所を探しながらダンが言った。
シャロンは自分の登場にざわつく周囲へ軽く会釈をし、すぐに前へ視線を戻して小声で返す。
「そうね。私達もだけれど、やはり初級と中級を受ける人にとっては貴重な機会だもの。」
「普段なかなか見学できませんからね……場所は、この辺りでよろしいですか。」
「えぇ。ありがとう」
シャロンが先に座ってオペラグラスを取り出し、一列後ろのダンは日傘を広げる。
数十人の観客は私服も制服も貴族平民も入り混じっており、そうして日焼けを避ける令嬢も多くいた。特別授業の噂を聞いた彼女達の一番の目当ては王子達だったかもしれないが、生憎と彼らは来ない。
女子生徒の視線は主にレイクスと、試合中の生徒の一人へ向いていた。
「――どうした。」
仰向けに地面へ転がった相手を見下ろし、シミオン・ホーキンズが真顔で聞く。
短く整えた髪も冷静な瞳も色は黒く、既に百七十センチを越える身体は無駄なく鍛えられていた。凛々しく男前な顔立ちで、伯爵家の長男であり文武共に成績優秀な二年生だ。
「今のは受け身が取れたはずだ。何でしなかった」
「いてて……」
「演技しなくていい。意味がないだろう」
「本当に痛いんだけどなぁ~…」
堪えるように苦笑して、バージル・ピューはのそりと身を起こした。
百五十五センチにも届かない小柄な体躯。背中まで伸びた浅葱色の癖毛を後ろの低い位置で結い、やや眠たそうな半開きの目には緑色の瞳がある。片膝立ちになった彼は既に土で汚れ、見るからに負けた側といった風体だ。
シミオンが試合の始まりと同じように剣を構えると、バージルは一瞬渋面をしてから立ち上がった。
特別授業に出るつもりなどなかったのに、レイクスから「お前は参加だ!補習と思ってくれ、理由はわかるな」と笑顔で言われてしまったのだ。
早く終わらないかなと心の中で呟き、困り顔の笑みを浮かべて緩く構える。適度に力の抜けたその姿勢は、シミオン相手に弱く見せたいなら失敗だった。
「相手して頂いてすみませんねぇ、ホーキンズ様。僕じゃつまらないでしょう。」
「………。」
眉一つ動かさずにシミオンが強く踏み込む。
その勢いにバージルが目を見開き、剣の柄を握る手がピクリと反応する。シミオンの刃をかろうじて剣で受け流し、後ろを取られないよう振り向きながら地面を蹴った。それで距離を取るつもりが先に読まれている。
既に距離を詰めたシミオンの剣を受けると火花が散った。
「くっ!う……」
バージルは反射的に足を後ろへ出して踏み止まるが、そうせず押し流された方がよかったかもしれない、と頭の片隅で考える。
――いっそ無抵抗に。押し切った時この人は体勢を崩すかな。それとも…ああ、違う。
ちゃんと握らずにおいたから、バージルの指は二本ほど柄から浮いてしまっていた。
ほんの一秒もなく、シミオンが返す刃で叩き落として終わるのだろう。彼は先程から剣での応酬を好み、バージル自身に攻撃をあてる事はなかったから。
どちらからどれ程の角度で来るのか、あの力強さと速さならどうすべきか。
シミオンの攻撃を予想したバージルは手首を痛めぬよう力を抜き、また一つ敗北を得ようとした。
――面倒な事は考えなくていい。僕は、強くなりたいわけじゃないんだから。大怪我しない程度なら、それで…
カン。
シミオンの剣は直前まで確かに勢いのある強い振りだったのに、刃同士がぶつかる頃には小突くような軽さで。
それでも、元から取り落とすつもりだったバージルの手からは剣が落ちた。
「――なん、……」
何で。
零しそうになった言葉を急いで飲み込み、バージルは唇を閉じる。どうして剣の握りが甘い事に気付いたかなどは愚問だ、見ればわかるのだから。
バージルが口にしかけたのは別の問いだった。
――…違う。僕はそんな事考えてない。
黒い瞳から逃れるように目を伏せ、緩慢な動作で剣を拾う。
シミオンに何も言われない事がかえって不安を煽り、背中にじっとりと嫌な汗をかいた。擦り足で数歩下がったバージルがようやく視線を上げると、シミオンは変わらぬ真顔で一度瞬く。
「どうした。お前の方がつまらなそうだな。」
「…元々、来るつもりなかったので。」
「やる気がないと。」
「もちろんです、僕がホーキンズ様に敵うわけないし。確か去年は大会で学年一位だったとか。すごいなぁ~…尊敬しちゃ」
顔面を水平に叩き切るような一撃。
咄嗟に膝を折ってかわしたバージルをシミオンが足払いにかけ、仰向けに倒れた彼の首筋に潰れた刃をあてる。観客席からキャアキャアと歓声が上がった。
「世辞に乗りそうに見えたか?」
「……いいえ。」
苦手なタイプだな、とバージルは考える。
のらりくらりとしてきた彼にとって、自分から目を逸らさない人ほど、本心を見据えようとしてくる相手ほど面倒なものはなかった。
放っておいてほしい、どうでもいい相手でありたい、興味など引きたくない。
この試合相手が第一王子ウィルフレッドなら、困惑しつつもバージルの意思を尊重し、ある程度軽めの手合わせにしてくれる。互いに学びがあるようにと手抜きまではいかない所が真面目だ。
第二王子アベルでは難しい。早く力強い上に予測不能な動きもしてくるため、挑発と本気を読み違えると医務室行きは免れなかった。それが嫌なら全力でやれという事だろうが、バージルにその気はない。
シミオンが離れ、立ち上がったバージルはちらりと他の組を見やった。
二年生の女子と剣を交えているのはダリア・スペンサー。
彼女ならつまらなそうに口元を歪めて打ち込んでくる。わざとか無意識か隙のある動きを見せる事もあるが、バージルは狙わないのでいつも負けだ。
もう一人、今日は仕事で参加できないデューク・アルドリッジは加減をしない。バージルが本気だろうがそうでなかろうが、彼はただ自分が全力を出すのみだった。
視線を前へ戻せば、シミオンは変わらずバージルを見据えている。
「お前は言動がちぐはぐだな。」
「えぇー?そんな事ないでしょう、僕は」
「俺を観察し、隙を窺ってる癖に打ってこない。」
「……してないですよ。隙なんてわからな――」
バージルが苦笑したところでシミオンが地面を蹴り、会話は中断された。
棒立ちすることを選んだバージルの前髪を剣先が掠る。彼が動かないと見たシミオンが剣を引いたのだ。でなければ直撃して怪我を負っていた。
しかし一瞬の後――腹部にシミオンの靴裏がめり込み、バージルの身体が簡単に飛ぶ。
一度地面を跳ね返ってからなんとか受け身を取り、地面に膝をついたバージルは背を丸めてえずきだした。堪えきれずに溢れたもので地面が汚れていく。
「寸止めすると約束した覚えはないぞ。」
「ゲホッゲホッ!…う゛、っぐ…おぇっ……ゴホッ!」
「そこ、大丈夫か?なかなか良い一発が入ったな。」
他の二組は問題ないと見て、レイクスがバージル達のもとへ歩いてきた。
瑠璃色の短髪に明るいグリーンの瞳、端正な顔立ちを今はやや心配そうに顰めている。
「立てるか?良し!」
自身に汚れがつくかもと恐れる事なく、レイクスは当然のように手を貸した。立ち上がったバージルはケホ、と咳をしてからハンカチで口元を拭う。
「せ、んせいに呼ばれなければ、これっ、も…なかったんですけど…」
「はっはっは!文句を言う口があれば大丈夫だな!良し良し、試合中に棒立ちは駄目だぞ!相手にも失礼だからな。」
バージルの肩をぽんぽんと軽く叩き、レイクスは颯爽と踵を返した。
元の位置へ戻っていく教師の背中を恨めしげに見やり、バージルは地面に落としてしまった剣を拾う。改めて向かい合ったシミオンは何一つ動じていない様子だ。表情も真顔のまま変わりがない。
「少しはやるつもりになったか?」
「…もう一度吐きたくはないですかね~。」
「ああ、正直吐くとは思わなかった。考えてみれば昼食後だったな。」
「ははは……。」
シミオンに謝るつもりはないらしいが、バージルも構えなかった自分が悪い事はわかっている。そこには触れず苦笑した。
「あの~…僕が頑張って相手しなくてもホーキンズ様は強いし、僕が弱くたって何も困りませんよねぇ。」
「将来、互いに敵か味方かわからないだろう。」
「え?」
いきなり何の話だと、バージルがあからさまに眉を顰める。
シミオンは淡々とした声で続けた。
「もし俺が仇敵になったら、お前は今日試しておかなかった事を後悔する。」
「次期伯爵様の敵ですか……はは、僕には荷が重いなぁ。」
将来。
その将来でふらふらと自由に過ごすから、強くなりたいなんて殊勝な気持ちがないのに。王侯貴族の敵になどなるわけがない。ましてシミオンと直接剣を交えるなど。
「ありえないですよ。」
からりと笑って、バージルはゆるく剣を構えた。
――…強かったなぁ。
授業も終わり、誰も居なくなったコロシアムでごろりと寝転ぶ。
空は夕焼けに染まっていて、備品の剣は赤髪の二年生が「どうせ訓練場行くから」と持って行ってくれた。ちょっとこのまま自主錬がしたいので、とは言えなかった。バージルは強くなりたいわけではないのだから。
あれからはシミオンの攻撃をかわす事と受け流す事に専念したが、昨年優勝した実力者が相手だ。対人の鍛錬が足りないバージルに捌ききれるわけがなく、身体のあちこちに打撲や擦り傷を負っていた。
たとえ本気で戦っても勝てる気がしない。
二年生相手に善戦したらしいダリアからはだいぶ嫌味を貰ってしまった。
――授業で第二王子殿下やデューク君とやってなかったら、もっとついていけなかっただろうなぁ。
緑色の瞳はぼんやりと橙の空を見つめている。
ゆったり流れゆく雲が眠気を誘った。普段は夜中に一人黙々と身体を動かしているため、いつだって昼は眠くて仕方がない。
――う~ん…今夜はいいか。全然動ける気がしないし、このまま少しうたた寝して…
閉じかけた目を開く。
コロシアムの地面を踏みしめる足音が聞こえてきた。
起き上がるのが億劫で寝たまま頭を向けると、予想外の人物につい瞳を丸くする。
跳ねのある血紅色の長髪、いかにも強気そうな目つきに灰色の瞳。
女子生徒には珍しく制服のシャツを腕まくりし、首には黒いチョーカー、前髪には黒のヘアピンを差している。
レベッカ・ギャレット。
誰がいても、それこそ王女殿下が来ようとさして動じないつもりだったバージルは、瞬いてゆっくりと身を起こした。




