372.失う未来しかない
「うっま……」
「ふふ」
険しい表情で目を閉じたダンにシャロンが思わず笑みを漏らす。
今は日曜午前、王妃教育の授業の合間だ。
アンティーク調の家具で整えたサロンは長方形のテーブルセットが中央に一つ置かれ、壁には絵画、戸棚に花瓶が飾られただけの小さな部屋である。
休憩時間とあって教師はおらず、ダンもシャロンの向かいに堂々と腰かけていた。紅茶のお供に食べているのはもちろん、シャロンがカレン達と一緒に作った塩バタークッキーだ。形は型通り綺麗で、食べ始めると止まらない味をしている。
「お嬢様ってのはこういうのできないモンじゃねぇのか?」
「どうかしら、ロズリーヌ殿下もお上手だったから。私はほら、薬学実技の成績が良いでしょう?」
「あ~…。」
「我ながらこの調合も上手くできたわ。…なんてね。」
シャロンは自分でもクッキーを一つ摘まんでみせ、くすりと笑ってから口に入れた。サクリとかじれば程よい甘さとバターの香りが広がっていく。
ダンはほんの数枚をあっという間に食べ終えて未練ありそうな顔をしていたが、午前にそう沢山食べさせるわけにもいかない。シャロンが鞄からラッピングした物を一つ取り出して渡す。
「どうぞ、また後で食べてね。」
「まじか…お嬢は今食っただけか?」
「いいえ、昨日フェリシア様と一緒に。」
驚きつつも喜んでくれた親友を思い出し、シャロンはくすりと微笑んだ。
元はできたてをカレン達とゆっくり楽しむ予定もあったのだが、少々ボヤ騒ぎがあったせいで後始末に随分と時間がかかった。すっかり冷めたクッキーを回収してちょっとだけ――正確には、レベッカ以外の四人が作った物を一枚ずつ――食べて、すぐ解散となったのだ。
「あいつらにもやるんだろ。足りんのかよ」
「大丈夫よ、思っていたより数が作れたから。ウィル達と、叔父様と…ホワイト先生の分も。」
「……また拗ねられても知らねーぞ。」
ぼそっと呟いたダンに小首を傾げ、シャロンはクッキー達が入った鞄を閉じた。
「……もう一度良いだろうか。今、なんと?」
ウィルフレッド達と合流した食堂個室、昼食も終えてしばし歓談といった頃合い。
受け取った包みから目を上げてウィルフレッドが聞いた。シャロンがはにかんで答える。
「お店の物ではなくて、私が作ったのよ。」
「えーっ、シャロンちゃんが手ずから?すごいじゃん!俺達まで貰っちゃっていーの?」
「もちろんよ。皆の口に合えば良いのだけれど……ウィル、大丈夫?」
「あ、あぁ…」
すっかり固まっていたウィルフレッドはハッとしてぎこちなく頷いた。宝を扱うように両手で大事にクッキーの包みを持ち、未だ信じがたい気持ちで見下ろす。
公爵令嬢たるシャロンが自ら、あの白く細い指先で作り出したクッキー。
わざわざ時間を割いて慣れない作業をし、努力の結果であるそれを当然のように自分達に分けてくれた。幼い頃からウィルフレッドを支えてくれた大切な友達の、手作りの、クッキー。
思わずため息が漏れる。
「…すまない、少し驚いたんだ。これはどうしたら長期保存がきくんだろう?」
「長期は難しいわね。明日か…冷蔵箱に入れたとしても、せめて明後日までには食べきった方が良いわ。」
「食べ…きる……?」
「腐るぞ。」
呆然とするウィルフレッドにダンがきっぱりと言った。
ここは食堂でも最上級の個室なので室内は涼やかに保たれているが、まだまだ暑い八月の終わりである。包みをそうっとテーブルに置き、ウィルフレッドは切ない声で呟いた。
「俺は…これを失うしか未来はないのか……。」
「深刻過ぎでしょ。」
アベルが呆れたように言う。
無意識にか小さく頷いたサディアスも、理解しがたいという目でウィルフレッドを見ていた。公爵令嬢が作ったという希少性はあるかもしれないが、たかが手作りクッキーを長期保存して何の意味があると言うのか。
しゅんとした様子のウィルフレッドを見て、シャロンがくすりと笑った。
「そんなにバタークッキーが好きだったかしら?街でも売っていたから、今度…」
「違うんだ、シャロン。」
ウィルフレッドは真剣な表情でシャロンへと向き直り、壊れ物を扱うように優しく手を取る。両手で大切に包むようにしてから目を合わせた。
「君が手間をかけて作ってくれた事が嬉しくて。もちろん大切に頂くけれど、全て無くなってしまうのは勿体ないという思いがある。」
「ウィル……」
「この包装は残せても、味や香りは残す事ができないだろう?……もどかしいんだ。」
切なげに目を伏せる第一王子殿下を眺めながら、堂々と椅子に座っているダンは隣のチェスターへと軽く頭を傾ける。そして口元に手をかざしてぼそぼそ囁いた。
「……今更だけどよ。お嬢に対して重いよな。」
「それをものともしてないあたり、シャロンちゃんも大物だよねぇ。」
包装のリボンを解きながらチェスターが返す。
シャロンは握られた手に焦りも照れもせず、嬉しそうに「大袈裟ね」と微笑んだ。
「よければまた作るわ。しょっちゅうとはいかないけれど。」
「いいのか!」
「えぇ。…ふふ、そんなに喜んでもらえるなんて。」
「喜ぶに決まっている。包装を解く事すら惜しいよ…後でゆっくり頂く事にしよう。」
クッキーが割れないよう丁寧に鞄へしまい、ウィルフレッドは輝く笑顔でほくほくとしている。食後の今より、ティータイムにとっておきのお楽しみを残したのだ。午後はアベルと共に騎士団で会議に入る必要があるため、疲れた脳に素晴らしい癒しとなるだろう。
「俺は今食べちゃお。わ…良い香り。形もめっちゃ綺麗だね!」
「さすがシャロンだ」
ウィルフレッドが勿論わかっていたという顔で頷いた。ダンは「何でおめーが誇らしげなんだよ」と言うか迷ったが、サディアスに口調を注意されるのも面倒でコーヒーと共に飲み込む。
クッキーをさくさくと咀嚼し、チェスターは茶色の瞳を丸くして大きく頷いた。
「うん、美味しい!」
「良かった!」
シャロンがほっと顔をほころばせ、胸元で両手の指先をぱちりと合わせた。そんな様子を微笑ましく思い、チェスターも自然と笑みを深める。
持ち込んだ飲食物に何かを盛られる可能性が無いという点において、チェスターにとって彼女ほど信頼できる令嬢はいなかった。ウィルフレッド達も同様だろう。
「この味いっぱい食べたくなるねー。お店に並んでても全然おかしくないよ。」
「まぁ。ありがとう、チェスター」
「冗談じゃないからね?本当、それくらい美味しい。」
チェスターの感想に「そうだろうそうだろう」と満足して頷きつつ、ウィルフレッドは横目で弟の様子を確認した。
アベルはまるでただのクッキーを貰ったが如く包みをテーブル上に放置し、そわそわするでも喜ぶでもなく、黙々と書類に目を通している。午後の会議に関わるものだが、何も今読み返さずとも良いだろう。
ウィルフレッドは誠に遺憾とばかり目を閉じて息を吐いた。
隣の席では渋面のサディアスがクッキーを一つ摘まみ、さく、と小さくかじって食べ始める。思い浮かんだのはヘデラの第一王女、ロズリーヌの顔だった。
『もしどなたかに手作りのお菓子など頂いた際には、美味しいですわとニコッてして伝えて差し上げると良いですわよ!』
作り笑いをしなくていい、などという許可の後に王女殿下はそう言った。
言われたのは先週の事なので、もしかするとロズリーヌはシャロンから予定を聞いていたのかもしれない。視線を感じたサディアスが顔を上げると、穏やかにこちらを見つめる瞳と目が合った。
「どうかしら?」
「……おいしいです。」
焼き加減は適度で食感にバラつきもない。完成度は高いと言えるし、美味い不味いは前者に決まっている。
考え込みながら眉を顰めて言ったサディアスに、シャロンは見守るような微笑みを返した。
「ありがとう、サディアス。そう言って貰えてよかったわ。」
「なになに、好きな味だったの?」
「少なくとも不快感はありません。」
絡んできたチェスターを迷惑そうに見やって答える。菓子の出来と好き嫌いは別の話だ。目を丸くしたチェスターが呆れ顔で「言い方!」とツッコミを入れた。
「そんなんじゃ、カレンちゃんに好きな食べ物教えるのに、ほんっとーに四年かかるかもね?」
「…なぜ覚えているんですか。放っておいてください。」
「サディアスは食事のメニューもバランスで決めているからな。ああもちろん、素晴らしい事だが。」
食後の紅茶をすいと喉へ流してウィルフレッドが言う。
それを悪いと感じた事は勿論なかった。そんなものは個人の自由だ。
しかし。
――…母親からあんな事をされていては、食を楽しむ心が育たなくて当然だな。
僅かに目を細め、ウィルフレッドは心の中でため息を吐く。
シャロンやチェスターは知らないのだから、サディアスも知ってほしくはないだろうから、ここでは触れないけれど。
『…食事中だった、母が…………残りを床に落とし、私に食べろと命じただけです。』
ウィルフレッドが予想もしなかった事を、アベルも見たという衝撃的な事実を、サディアスは大した事ではないと言った。
そう命じただけだと。
母は自分を嫌っているから少し厄介だと。
「人に聞いてみるのも一つの手よ。」
「…そういうものですか。」
「手癖なんかもそうでしょう?自分では気付けない事がわかるかもしれないわ」
「癖か、確かにねー。」
三人のやり取りを聞きながら、ウィルフレッドは表面上の微笑みを保っている。
誰何を問われて魔力暴走を起こし、アベルを手にかける恐ろしい《先読み》があり、何か秘密を抱えたサディアス。
『その名が何を示すものであろうと、この六年近く俺の従者でいてくれたのは君だ。』
家柄や実力を踏まえても不適格だと、従者を外してもおかしくはなかった。ウィルフレッドがそれを望まなかったから、アベル達と共に暴走を隠蔽したから、まだ残れているけれど。
『これからも俺達を支えてくれないだろうか。』
命じた時の苦しげな顔は今でもはっきりと覚えていた。
どんな未来が《先読み》されようと、ウィルフレッドはアベルを喪うつもりなどない。
たとえ加害者側として読まれようと、サディアスを失うつもりもなかった。
そのためなら…
「――ウィル」
「うん?」
そっと心に触れるような優しい声に視線を上げると、昔から変わらない温かい眼差しがそこにある。いつの間にか肩に入っていた力を抜くと、彼女は小さく頷いてくれた。
「私は一足先に失礼するわ。叔父様にも渡しに行きたいの。」
「そうか、わかった。……シャロン」
「なぁに?」
立ち上がったシャロンが振り返る。
ウィルフレッドは自分の胸に片手をあて、美しく微笑んだ。
「近いうち、君に渡したい物がある。楽しみに待っていて」




