365.理由なければ懸念なし
「ん………?」
銀髪の美丈夫、エリオット・アーチャー公爵は眉間に皺を寄せて目を開いた。
ぼやけた視界に瞬くと、銀色の瞳に城の会議室が映る。しかし彼は椅子に座らず、開け放たれた入口の前に突っ立っていたようだ。
――立ったまま寝ていたのか、俺は…
最近忙しかったからなと考えつつ視線を下にやると、長い紺色の髪が広がっていた。
法務大臣ジョシュア・ニクソン公爵がこちら向きにうつ伏せで倒れている。エリオットは訝しげな顔で二度瞬きし、ハッとして傍らに屈みこんだ。
「ジョシュア!?どうしたんだ一体!」
「叫ぶなエリオット。お前がたった今頭突きでオトしたんだ。」
「何だと?」
片膝をついたまま振り返れば、円卓に乗った大量の本や書類の隙間からツイーディア国王、ギルバート・イーノック・レヴァインがくつくつと笑っている。
少し癖のある長い金髪は左だけ耳にかけて後ろへ流し、芸術そのものであるような美貌に輝く金色の瞳をしている。
ただ今は疲れた表情に加えて目の下にはうっすらと隈ができていたが、それはエリオットも同じだった。
別の方向からダンディな声が響く。
「扉を開けるタイミングが、内外でピタリと合っちまったんだろうな。良い音だったぜ☆」
軍務大臣パーシヴァル・オークス公爵。
明るい茶髪を短く切って後ろへ流し、真顔で唇の上には髭を蓄えた、見るからに厳格な男だ。しかし切れ長の吊り目を片方閉じ、こめかみに人差し指と中指を揃えてからピッと上へ流す仕草は茶目っ気たっぷりだった。
「くっ…ふふふ、ははははは!ジョシュアがお前の石頭に勝てるわけないだろう?」
「ギル、笑うな!おいしっかりしろ!」
エリオットが動かないジョシュアを担ぎ、扉をガンと蹴って閉める。屋敷の老執事が見ていたら眉を顰めて叱られただろうが、今ここにいるのは昔から馴染みの男衆だけだ。
パーシヴァルが軽快な動きで指を鳴らす。
「そのまま少し寝かせてやろう☆何なら俺の子守歌もつけるぞ」
「目覚めた時に相当キレるからやめてくれ、真剣に。」
「ジョシュアのパーシヴァル嫌いは相当なものだからな……」
笑いが落ち着いたらしいギルバートがコーヒーを一口飲んで呟いた。
彼が先程のように声を上げて笑うのも珍しく、脳が疲れているのかもしれない。パーシヴァルはあれが通常運転だが。
仮眠用ソファに転がされたジョシュアは眉間に皺を刻んで魘されている。
「俺はあいつの《理想の軍務大臣》からかけ離れてる。だろ?」
「だからと言って――…」
ギルバートが無言で片手を軽く振り、エリオットは口を閉じた。
知っていてはいけない。
パーシヴァルはひくりとも口角を上げずに笑う。
手にしたペンの先から滴が垂れる前に、カツンとインク壺の縁を鳴らした。
「ふ…誰に小突かれても構いやしないぜ、家族と領民に手を出さなければな。」
二月にオークス公爵は襲撃を受け、王子達の入学直後にはニクソン公爵も襲われている。
後者の事件では公爵本人が唯一襲撃者を間近で目にし、後に遺体で発見された男をそれと証言した。馬車は破損、護衛数名が軽傷、公爵も左腕に切り傷を負ったが、医師の処置によりすぐに回復したとされている。
「なあ、陛下は欠けるならどっちがマシなんだ?」
「どちらも困る。俺は嫌な気分になるし、国の為にもならん。」
「そう言うと思った☆……睨んでもウインクしか返してやれないぞ、エリオット。」
「しなくていい。そういう不謹慎さが嫌がられるんだぞ。」
「ここだけの話さ。」
インクが適量になったペンを書類に走らせながら、パーシヴァルは肩をすくめる。
そして「じゃあ少し変えよう」などと言って新たな問いを投げかけた。
「早めに代替わりしてほしい公爵は?俺は宰相閣下。ほいエリオット」
「強いて言うならドレーク公か、未だに学生扱いされている気がして苦手だ。ギル」
「二人とも頃合いだがやはり義父殿が先だな。ジョシュア」
「パーシヴァル・オークス一択と言いたいところですが、まだ息子の技量を測りかねます。前提が代替わりならマリガン公爵ですね。」
「息子も良い歳なのにマリパパほんと長いよな☆」
「そう呼んでるのお前だけだからな。」
エリオットが咎めるように言うのを聞きながら、ジョシュアはようやっと身を起こした。
左だけ耳にかけた長い紺色の髪、涼やかな水色の瞳。この四人の中では唯一未だ三十代後半という若さだが、柳眉の間にはしっかりと皺が寄っている。
立ち上がって衣服を整えながら、ジョシュアは不機嫌そうにギルバート達を見やった。
「私が目覚めた事に気付いたなら、話題を変えてくださっても良かったでしょう。起きて良いものかわからず時間を無駄にしました。」
「まぁそう拗ねるな。」
「拗ねていません。」
薄く笑うギルバートにつんけんとした声を返し、ジョシュアは自分の席に着く。
魔獣対策とそれに伴う外交問題、魔石と魔獣の解析に予算配分、ほか夜教含む疑惑の組織や貴族達について騎士団から報告を受け、証拠が充分でもその処罰に慎重さが求められるものは協議が必要であり、各自普段の業務もこなさねばならない。
部下からの膨大な調査報告に目を通し、この四人で決められる事は決め、今夜来れなかった宰相の承認も必要な物は方針と意見だけ固めて保留とする。
作業開始から数時間経過したが、ツイーディア王国のトップたる彼らの仕事はまだまだ残っていた。
判を押した書類をぺらりとめくり、ギルバートが口を開く。
「ジークハルト皇子の件、俺は学園長と我が息子達に任せて良いと考えているが……」
エリオットがテーブルに肘をついて頭を抱えた。
かの暴虐皇子を学園に呼ぶと言い出したのは彼の愛娘、シャロン・アーチャーである。ジョシュアが軽く握った拳を眉間にあて、パーシヴァルはうきうきしているが顔には一切出ていない。
「さて困ったな。ロベリアの末王子まで行きたがるとは」
「ギル、何とかならないのか…建前をつらつら述べていたが、ヴァルター殿下は…」
「シャロン嬢と見合いしたいんだろうな☆」
「まだ早いだろうがッ!!」
エリオットが机をダンと叩き、インク壺をひょいと持ち上げていた三人が静かに戻す。エリオットの前にあるインク壺は蓋が閉まっていたため、惨事には至らなかった。
ジョシュアが「早くはないでしょう」と呟く。
「貴方の娘に事情を説明し、見合い場所をリラの学園外にして学内に行きたがれば案内させ、徹底して帝国の皇子と会わせないように組むべきです。」
「そもそもヴァルター殿下が来なければ済むのではないか?」
「そこで帝国の皇子と言わないあたり、娘を取られたくない父親が丸出しだぞ。真面目に仕事しろ公爵閣下。」
ギルバートが呆れ声で言い、エリオットが「ぐぅう」と呻き声を上げた。
「案内はルークにさせればいいだろう……」
「おいおい、そしたらジークハルト殿下はレイクスが案内か?賭けても良いが超目立つぜ。」
「ルークが大人しく案内するかも疑問だな。途中で放棄するだろう」
「そもそも警備は向こうの手配と別で、こちらからも内密に騎士を派遣すべきかと。リラは良くも悪くも独立していますから。それとアーチャー公爵。」
項垂れていたところを呼ばれて顔を上げると、ジョシュアが手にした書類で入口を示す。
先ほど二人が正面衝突した場所だ。
「貴方はどこかへ出るところだったのでは?」
「ん?…あぁ、しまった。」
頭突きの衝撃で記憶が飛んでいたらしい。
エリオットは元々、王妃セリーナの様子を見に行こうと思っていたのだ。彼女も別室で書類を捌いている。
立ち上がると同時にノックの音がした。
廊下側から名乗ったのは王妃の近衛騎士で、エリオットが廊下へ出ると彼女は一礼して小声で告げる。
「閣下、王妃殿下がそろそろ…」
「まずそうか。」
「平気と仰いますが相当顔色が悪いです。うわ言のように時折陛下の名を呟かれますが、自覚はないようで…しかし休んで下さらず…」
「わかった、少し待て」
エリオットも小声で返し、何事もないような顔をして部屋の中に戻る。
妻がどうかしたのかとやや心配そうなギルバートに「頑張ってくれているらしい」と言い、ついでとばかり手を差し出した。
「クラバットを寄越せ。」
「…何だいきなり」
「今宵はもう面談もない、あっても苦しいだろう。酒を取りに行くついでに預けてきてやる」
「そうか。頼む」
ギルバートはさして疑問も抱かずクラバットを解いた。
平然と受け取ったエリオットは廊下へ出ると、待機していた王妃の近衛にそのままクラバットを手渡す。
「どうバランスを崩しても支えられるようにしてから与えろ。」
「ありがとうございます。何時間でお目覚め頂きましょう」
「悪いが三時間が限度だろう、俺やギルが直接行きはしないから身支度は無理をするな。それまでにこちらもできるだけ進めておく。」
「承知致しました。」
このやり取りは本来ギルバートに隠す理由はないのだが、何せ彼は自分が妻に嫌われていると思い込んでいる。落ち込みモードに入られては仕事の邪魔だ。
熱くなった頭を冷ますように軽く振り、エリオットは自分の執務室へと歩きだした。
「なあ、陛下はいいのか?シャロン嬢をヴァルター殿下と会わせちまっても。」
「うん?」
「息子の嫁に欲しいんじゃないかって話だ。」
包み隠さぬ物言いにジョシュアが無言で睨んだが、パーシヴァルはどこ吹く風だ。
ギルバートは意外な質問を聞いたとばかり、長い睫毛をゆるりと瞬かせた。
「俺の息子達よりあちらが良い理由があるのか?」
数秒の沈黙が流れ、ジョシュアはなるほどとばかり静かに頷く。
目を細めたパーシヴァルが真一文字に引き結んだ唇で笑った。
「そりゃあ、無いさ。ギルバート」
「むしろエリオットを説得する良い機会だ。あいつも娘に外へ嫁いで欲しくはないだろう。」
「ロベリアとの繋ぎなら、それこそルーク・マリガンがいます。第二王女殿下は随分とご執心なのでしょう。陛下が命じれば、彼も頷くのでは?」
「……そこは微妙な線だな……。」
ギルバートが眉根を寄せたところで廊下から急いた足音が聞こえ、会議室の扉が再びノックされる。
「夜分遅くに失礼致します!オークス公爵閣下はこちらにいらっしゃいますか?」
「いるぞ。入れ」
パーシヴァルが低く厳格な声色で返した。
扉を開けた騎士は国王やニクソン公爵もいると見て咄嗟に口ごもる。
「あッ…えぇ、その…騎士団でですね…」
「構わん、話せ。」
「……端的に申しますと、クロムウェル騎士団長より至急おいでくださいと」
「なんだ、もうディアドラに参ったのか。」
騎士が「言っちゃうんですか」という顔で一拍、目を瞑った。
恐らくクロムウェルはギルバート国王にも、敵視しているニクソン公爵にも知られたくなかったはずだ。そういう気遣いをしないのがオークス元騎士団長の悪い所である。
ひょっとしたら、クロムウェルを揶揄ってわざとやっているかもしれないが。
魔獣対策の一環で騎士団を鍛え直すにあたり、退役した騎士の一部を講師として招いたのだ。
上層部推薦者の一覧に夫人の名を見たクロムウェルはひどい苦渋の顔をしたが、そこは結果を重視する彼のこと、快く承認印を押した。
当時の夫人を知らない者達は美女の参加に沸き立ったり、コネで入ったのではとひそひそ噂したりしたが、顔色の悪い騎士団長と機嫌良さそうな副団長を見て全員が黙り込む。
そして迎えた当日である今日、騎士団本部は……賑やかだった。
ギルバートがエリオットの席を見やり、「あいつ悪いタイミングで行ったな」と呟く。エリオットは酒を取りに行くとは言ったが、どこへとは言わなかった。
なるべく早く頼みますと頭を下げて騎士は去り、ギルバートと渋面のジョシュアを見回してパーシヴァルはぱちんと片目を瞑る。
「んじゃ、俺もちょっと出てくるぜ。それともジョシュア、お前も同級生のよしみで――」
「危険物には極力近付かない主義です。」
「パーシヴァル、半刻以内に戻れるか?」
「王命とあらば。じゃ、また後でな☆」




