359.雫は落ちて ◆
フェリシアはラファティ侯爵家の娘として生まれた。
父兄と同じ薄氷のごとき水色の髪と瞳、幼い頃から顔立ちも美しく整い、我儘やお転婆さを見せる事もなく淑女教育も順調だった。
誘拐されたのは僅か七歳の時。
魔力鑑定も済ませ、未来に希望を抱いて日々を過ごしていた頃だ。
王都から領地へ向かう途中に馬車が襲われ、護衛は重傷を負いフェリシアは連れ去られた。本当なら一緒にいる予定だった父は急な仕事が入って不在だった。
魔法もまだ使えない幼い少女一人、窓のない部屋へ放り込まれる。
お出かけ用のワンピースの裾を握り締め、フェリシアは隅で小さくなって泣いていた。縛られはしなかったけれど、蝋燭の明かりは最低限で薄暗く、時間の経過もわからない。
いつの間にか眠っていた彼女は、扉が乱暴に開かれた音でビクリと目を覚ました。
『離せ!貴様、私を誰だと思っているんだ!!』
『チッ、本当にうるせぇな…』
フェリシアと同様に捕まったのだろう、二人の少年が床へ突き倒される。
ローブを着こんだ少年と、紺色の髪をした少年。後者はすぐに起き上がり、間に合わず閉じられた扉を激しく蹴り始めた。
『おいッ!くそ…開けろ!父上が許すと思うな、犯罪者どもが!!開けろ、開けろ!ふざけるな!!』
怒鳴り続ける彼の声が、扉を蹴る音が怖くて、フェリシアはますます身を縮める。
床に倒れたままの少年――フードについた黒いベールで顔のわからない誰かが、のろのろと起き上がった。それは愚鈍というより、まるで怪我人のような動きで。
『この、私に……よくも…!!』
怒鳴っていた少年が振り返った。
フェリシアはそこでようやく、彼が公爵令息のサディアス・ニクソンだと気付く。いつも柔和な笑みを浮かべていた彼の、ギラついた水色の瞳がもう一人の少年を捉えた。
『お前のせいだ、わかってるのかこの愚図!!』
サディアスの靴先が腹に沈み、身体をくの字に曲げた少年は床に転がった。
目を見開いて固まるフェリシアの存在にまだ気付かないのか、サディアスは彼を踏みつけ始める。
『何のためにいるんだ、私の盾だろうが!お前が一人で捕まればよかったのにふざけるな、ふざけるな!!父上に失望されたらどうしてくれる、ゴミクズが責任取れるのか!?たとえ死んで詫びたって、お前に何の価値もないんだぞ!!』
『っ……!……、ぅ………。』
呻くような吐息を漏らすばかりの少年を、何度も、何度も。
少しプライドが高そうで、けれどいつだって言葉は優しく丁寧だったサディアス。
そんな彼の本性に頭が追いかず、呼吸が浅くなるフェリシアの手は震えていた。助けなんて来ないのに、心が「誰か」と悲鳴を上げる。無意識に身じろいでしまう。
衣擦れの音に気付いて、サディアスがぎろりと彼女を見た。
『ひっ…』
『何だ、お前……あぁ、ラファティ侯爵の娘か。誰の許可を得て私を眺めているんだ、貴様』
『ご、ごめんなさい。ごめんなさい、すみませ…』
フェリシアはわけもわからず謝った。
ゆらりと少年から離れ、冷たい目をしたサディアスが近付いてくる。
頭の奥で警鐘が鳴り響いていた。
苛立ちを表すように固く握られた拳が見える。怯えを隠せないまま見上げて目が合うと、サディアスの目元は不快そうにピクリと引き攣った。
蹲ったフェリシアは咄嗟に頭を抱えて目を瞑る。
――殴られる!
ガッと音がした。
しかし何も痛みがなくて、涙をこぼしながら目を開ける。
『っげほ……』
ローブを着た少年の背中があった。
フェリシアを庇い、膝立ちでサディアスに向き合っている。
そのまま動かないでと言うようにこちらへかざされた手はひどく荒れ、血が滲んでボロボロになっていた。
『私に逆らうのか!!』
『ッぅ…!』
『きゃあっ!』
少年がサディアスに蹴倒され、フェリシアが壁と少年の間に挟まれる。
悲鳴をあげた彼女を潰さないよう、少年は身を反転させて壁と床に手をついた。サディアスが殴っているのか、蹴っているのか、嫌な音がする度に少年の身体が揺れて苦悶の声が漏れる。
『お前は私の盾だろうが!他家の娘に怪我をさせるなとッ、説教でもしているつもりか、お前が!お前などが!!ニクソン公爵家の後継たる私に!!ふざけるな、どけ!さっさとどけ!!この愚図がッ…!!』
共に誘拐された状況でなぜ、サディアスはここまで怒るのか。
フェリシアは何もわからずただ、自分を庇ってくれる少年のローブを握り締めて泣いていた。このままでは彼が、サディアスに殺されてしまうのではとすら思った。
『うるせぇな!お坊ちゃんってのは黙ってられねぇのかよ。』
扉が開く音がして、サディアスが弾かれたようにそちらへ駆けていく。喚き散らす彼の怒声は鈍い音と共に止み、どさりと倒れる音がした。
フェリシアの涙ぐんだ視界の中、床についていた少年の手から力が抜ける。
『あ……』
死んでしまう。
そう思った瞬間、唇から小さく声が漏れていた。
少年は最後まで何も言わず、静かに床へ倒れてしまう。フェリシアは慌てて彼を揺すったが、何も反応がなかった。
『や、やだ、起きて、起きてください…』
『ああ、そいつまた殴られてたのか。』
男が面倒臭そうに言って歩いてくる。
フェリシアは少年が連れて行かれないよう懸命にその手を握りしめたが、か弱い力はあっさり振りほどかれ、ぐったりした彼は男に引きずられていった。
ささくれだった皮膚が柔らかい手のひらを刺す、チクリとした痛みだけが感触として残る。
『お願い、待って……』
伸ばした手は何も止められず、フェリシアはまた一人きりになった。
何時間経ったのか、それとも日まで経ったのか。
次に扉が開いて転がされたのは別の少年で、足を曲げた状態で後ろ手に縛り猿轡まで噛ませる徹底ぶりだった。黒髪に鋭い目をした彼は、それでも足掻きながら男を睨んでいる。
『お嬢ちゃん、こいつの縄ほどいたらあんたを切り刻むからな。痛い目に遭いたくなけりゃ放っとけ。』
『ッ……!』
抜き身のナイフを顔のすぐ近くで見せつけられ、フェリシアは震えながら何度も頷いた。
男が立ち去って扉が閉まり、少年も諦めたのかようやく足掻くのを止める。
ごろんと転がった彼は黒い瞳でフェリシアを睨みつけた。
『おい』
『ご、ごめんなさい。わたくし、ほどいてあげるわけには』
『おえあいい。おあえぁあいおううあ』
喋りにくそうだ。
誰何を問われているのか、あるいは手を貸さない事を責められているのかもしれない。
『うぅっ、グス…ごめんなさい、わからないわ……』
『………。』
ぽろぽろと涙を零してしゃくりあげるフェリシアに、少年は会話を諦めたらしい。はあとため息をついて目を閉じた。
やがて静かな寝息が聞こえ始め、フェリシアはぎょっとする。
まさか自分から眠ったのか。誘拐された身で中々の胆力だ。
ガチャンと鍵の音がして、二人は目を覚ます。
『いったぁ!』
部屋に放り込まれたのは女の子だった。
擦りむいたらしい膝を押さえて呻く彼女はウェーブがかった薄茶の髪で、丸眼鏡の奥には朱色の瞳、頬にはそばかすがある。少年に目を留めた彼女はぎょっとして叫んだ。
『え!めっちゃしばられてる!?』
『そいつの縄に触るなよぉ。次、見た時にほどいてたら…お前達みんなボコすからなぁ…ック』
少女を連れてきた男は、随分と酔っているらしかった。
手にした酒瓶をグイと傾けるも、酒は口の端からボタボタ零れる。妙な目つきをした瞳がフェリシアを捉えて数秒、ニヤリと笑った男は部屋を出ずに扉を閉めた。
得体の知れない恐怖を感じ、フェリシアはゾッとして身を竦める。
『おい!おあえッ…』
『うるせえ!!』
何か言おうとした少年が蹴飛ばされ、浮いた身体が床を跳ねて転がる。
男は下卑た笑みを浮かべてフェリシアに近付いてきた。
立つ事ができず必死に後ずさって逃れようとするが、簡単に捕まってしまう。足を押さえつけられスカートをまくり上げられて、フェリシアは半狂乱で暴れた。
『いや、嫌ぁ!触らないでッ、』
『大人しくしてろ!逆らったら殺してやる、死にたいのか!?』
『やっ……う、うぅ…』
『へへ、ガキだが可愛い顔してるじゃ――』
『んやめなさいよぉーッ!!』
『いだだだだッ!!』
男の腕が離れ、フェリシアは必死に後ずさりしながら衣服を直した。女の子が後ろから男の髪を毟るように掴み、全体重をかけて引っ張っている。
『いやがってるでしょうがッ!へんたい!ばか!あほ!!』
『やめろこの、クソガキが!!』
『ぎゃあっ!!』
引き剥がされた女の子が男に殴られ、小さな身体は床に叩きつけられた。
ガタガタ震えているフェリシアには目もくれず、男は舌打ちして「酔いが醒めちまった」とぼやきながら出ていった。部屋に静寂が戻る。
『はっ…はっ……あ、あぁ……!』
身体の震えも呼吸も落ち着かなかったが、フェリシアは女の子へ近付いた。
眼鏡にヒビが入り頬は痛々しく歪み、口の中を切ったのか、唇の端から血が出ている。小さく呻いた女の子は目を開けると、フェリシアに笑いかけた。
『だいじょーぶ、だった……?』
『あ、貴女……わたくしの、ために……』
『わーなかないでよ…アイタタ……あっあたしよりさ、あれ…ほら』
女の子はよろよろと立ち上がり、まだ足が覚束ないフェリシアを引っ張って、縛られたままの少年へ駆け寄る。
気絶はしなかったようで、彼の黒い瞳が二人を見上げた。
『だいじょーぶ?』
『……ああ。』
『ちょ、ちょっと…』
女の子が少年の縄に手をかけ、フェリシアは悲鳴じみた声を漏らす。解いたらどんな酷い目に遭うかわからないのだ。
しかし彼女が解いたのは猿轡だけだった。
げほ、と咳き込んだ少年の口から、中に詰められていた布がぼとりと落ちる。
『おくちくらいいーでしょ。ね!』
『ぇほっ、げほ……助かった。お前はつよいな』
『にひひ』
女の子は歯を見せて笑い、フェリシアの頬が濡れていると気付いて自分の袖でぐいぐい拭いた。
『ねぇ、あたしノーラ!あんたたちは?』
『わ、わたく…痛っ、わたくしは、フェリシアです……』
『…シミオンだ。』
『んっ!つかまったどーしよろしくね!』
三人はぽつぽつとこれまでの事を話し、フェリシアとシミオンが貴族と知ったノーラが仰天したり、ははーっと土下座する彼女をフェリシアが慌てて止めたりした。
そうしてだんだんと眠気に包まれてきた頃、妙な騒がしさに気が付く。
扉の向こう、遠いところから悲鳴や怒号が聞こえるのだ。
『きしがたすけにきたのかも!ね、フェリシアさま!』
『そ、そうね……』
『……二人共、俺の縄を解いてくれ。もし助けじゃなかったら――』
シミオンの言葉を遮るように、扉の向こう側に重い物がぶつかる音がした。
はしゃいでいたノーラがピタリと口を噤み、フェリシアは震えながら扉を凝視する。ガチリと鍵が鳴って、扉は開かれた。
血だらけの剣を手にした少年が立っている。
衣服は赤く染まり、人を殺してきたと言わんばかりのその格好に、フェリシアの思考は完全に停止した。
彼女が人生最大の失態に気付くのは、ほんの少しだけ後のこと。
『第二王子のアベルだ。じきに騎士が来る。もうしばらくはここで待て』
ぽかんと口を開けたノーラと、転がったままのシミオンが頷いた。
黒髪の女を連れたアベルが立ち去ると、シミオンはようやくノーラの手で縄から解放される。
そして即「こっちをみないよーに」と言いつけられ、グスグス泣きじゃくるフェリシアを励ますノーラの声と、衣擦れの音に背を向けていた。
騎士によって三人は部屋から出され、廊下で名を告げる頃にアベルが戻ってくる。
その後ろをついてきた少年を見て、フェリシアは反射的に「ひっ」と声を上げた。
紺色の髪に水色の瞳。
見間違えるはずもない、サディアス・ニクソンも助けられたのだ。しかしアベルが連れている子供は彼だけで、ローブを着た少年は見当たらない。何が起きたかを想像して、フェリシアは血の気が引いた。
『あ!おーじでんか、ありがとうございました!おかげでたすかったわ!』
『…うん。騎士の質問にはちゃんと答えるように。』
『はぁい』
ニコニコと話すノーラの袖をぎゅっと握る。
アベルが足を止めた事で、サディアスもまた立ち止まってこちらを見ていた。
水色の瞳がフェリシアに気付き、彼は少しだけ目を細める。あれだけ怒り狂っていたのが嘘のように、その表情は凪いでいた。
しかしあの暴力と怒鳴り声は強く記憶に残っている。
青ざめたフェリシアが無意識に後ずさると、彼はすぐに目をそらした。話し終えたアベルが歩き出し、サディアスも後に続く。
また目が合うのは怖くて、フェリシアは彼らの足元を見るように視線を下げていた。
三人の前をサディアスが通り過ぎる。
ボロボロに荒れた手が目に入った。
――え……?
フェリシアは思わず顔を上げる。
こちらに背を向けた彼が振り返る事はなかった。
『あの時はすみませんでした。ラファティ侯爵令嬢』
事件から何ヶ月か経って、眼鏡をかけたサディアスが言う。
傷跡もかさぶたも荒れもない、美しい指をティーカップにかけて。
『気が動転していて……正気ではなかった。怖い思いをさせました。』
『…わたくしは大丈夫です。…あの…一緒にいた方は……』
『彼は、事件の時に亡くなりました。』
『……そう、ですか。』
視線をテーブルに落としたまま、フェリシアは呟くように返した。彼は、アベルが踏み込んだ時には既に命を落としていたらしい。
音を立てずにカップをソーサーへ戻して一拍、サディアスはフェリシアに問いかけた。
『私が恐ろしいですか』
ここで顔を上げなければ肯定となる。
確かめるのは少しだけ怖かったけれど、フェリシアはゆっくりと視線を上げた。
返答がどちらでも構わないのだろう、水色の瞳は冷静にこちらを見ている。
自分より青みが深く、それでいて澄んでいた。
あの日に見た怒りに燃える眼差しと、かつて見た高慢な目を思い返して。
滲む雫を抑えるように瞬いて、首を横に振った。
『いいえ。……あんな事があっては、誰しも取り乱しますわ。』
怖くはなかった。何も。
『――貴方が生きていてくださったなら、それで良いのです。サディアス様』
浮かんだ言葉を胸に秘め、フェリシアは心から微笑んだ。




