358.王女は決して怪しくない
夕闇が濃くなっていく。
《魔法学》上級クラスの授業を終えた放課後のコロシアムで、サディアスは一人観客席に座っていた。
ウィルフレッドはチェスターやシャロン、ダンと共に中級クラスを受けた後、皆で自習室に行っているはずだ。もうしばらくしたらそこへ合流しなければならない。
「――…。」
短く整えられた紺の髪を風が撫でる。眼鏡の奥にある水色の瞳はどこともない空中を見つめていた。
視線の先、ボゥと炎が宙に浮かんで消える。風に流されながら、ボッと浮かんで、消える。
それを幾度か繰り返して、サディアスはため息を吐いた。
胸の高さに片手を上げてパチンと指を鳴らす。
ほぼ狙い通りの位置に、槍を模った火の魔法が発動した。
長い指先をすいとコロシアムの地面に向け、僅かに眉を顰める。
火槍は真っ直ぐにその先へ飛び出し、音を立てて地面にぶつかった。風が髪を揺らす。
『この半年以内に、宣言も動作も無しで火槍を発動できるようになっておけ。』
八月も半ばを過ぎたが、入学前に父親から下された命令はまだ完遂できていなかった。
宣言無しまでは可能、動作も無しで多少は火の魔法を発動できるものの、狙い通りとはいかず槍の形も取れていない。まだまだ鍛錬が必要だ。
――本当に、できるようになって良いのだろうか。
自分に迷いがある事を、それが邪魔になっている事をサディアスは理解していた。
何せ、二月に魔力暴走を起こす可能性が《先読み》されている。
できるようになってしまったら、できない時より被害は大きいのではないか?
集中しようとしても頭の片隅にはずっとその懸念があって、全力を出せていない自覚がある。
――…元より、暴走時に通常より速く大規模に魔法が発動するのは常。ウィルフレッド様も、アベル様も、それをわかっていて対策を講じられている。
何度目かもわからない言葉を心の中で繰り返し、サディアスは不安を飲み込んだ。
空間を固定するスキルを持つ少年。オークス公爵夫妻を襲った彼がもし王子達の前に現れれば、サディアスが突破するより他にない。
いつかの魔力暴走に怯えて成長を止めるのではなく、何が起きても良いよう強くなるべきだ。
加えて王都から新たに届いた情報では、各地に現れる魔獣にも変化があった。
どうしてか以前より毛並みが脂っぽく変質し、魔塔ではその脂をフライパンに引いて料理をした研究者が数名医務室送りになったそうだ。蝋燭を作った者は火をともしても無事だったらしいが、匂いがひどく実用化には向いていない。
毛の変質はあっても体内から見つかる魔石は今のところ変化がなく、取り扱い方法もある程度確立されてきたところだ。
料理のくだりでフェリシアが顔を少し引きつらせていたのを思い出し、サディアスは小さく苦笑する。
ノーラは「売れる使い方があればなぁ」などと言うあたり、さすがは商人の娘だ。
シミオンは「剣に脂がつきますね」と若干渋面で呟いていた。以前からそうだったが、目の前に現れたら自分で倒すつもりなのだろう。
――…パットとポールはまったく危機感がなかったな。リラに出なければいいが…
へらへらした保護者の顔も思い出しながら、サディアスは眉間に皺を寄せた。
図鑑でオオカミの絵を見せて説明したものの、「キバかっけー!」などと言っていたのでかなり不安が残る。別日に店を訪れたアベルが言うには、「ぜったいにちかづきません」と敬礼していたそうだが。
オペラハウスに関する《先読み》を越えた今、ウィルフレッドに考えるべき事が増えたのは幸いだった。
さすがに表面上は隠していたが、先週に起きた一件で珍しく気が立っていたのだ。
《体術》の授業中、彼の幼馴染であるシャロン・アーチャー公爵令嬢が試合相手に頬を蹴られた。
サディアスも観ていたが、明らかに胴体を狙う方が早かったはずだ。
敢えて顔を、それもニヤリと笑みを浮かべて全力で蹴り抜いた。シャロンは防御が間に合わずもろに食らったが、そこは彼女も流石と言うべきか、地面に倒れる時の受け身は取れていた。
試合とはいえ公爵令嬢の顔を、王国騎士団副隊長の娘がわざと蹴った。
空気は一気に冷え込み、シンと静まった観戦席に他の試合の生徒達まで手を止めたほどだ。
担当教師のトレイナーはすぐシャロンへ駆け寄った。幸いにも彼女はけろっとして立ち上がり、こちらに笑顔すら見せてくれた。
強がったのか見た目ほど威力が無かったのかは不明だが、シャロンが少しでもよろめいたり痛そうな顔をしていれば、ウィルフレッドの怒りはさらに大きかっただろう。
止めようとしたサディアスを見もせず手で軽く払い、ウィルフレッドは立ち上がって相手の令嬢の方へ向かった。
二人の会話が聞こえたのは後を追ったサディアスくらいなものだろう。
恐ろしい事に、ウィルフレッドは薄く微笑んでいた。
『俺が言いたい事はわかるか?』
『やぁ殿下、わかりますよ。何でちゃんと手加減しなかっ』
『君は試合と暴力の違いがわかる人だろう。なぜだ』
『……出来心?』
『そうか。彼女に免じて今回だけは見逃すが、二度とするな。もちろん他の生徒に対してもだ』
『…これは来週の《剣術》が怖いですねぇ』
『俺が報復をするとでも?それより返事をしろ、スペンサー。二度とするな』
『……はい、殿下。』
声を低めたウィルフレッドに家名を呼ばれ、令嬢は好戦的な笑みを浮かべつつも素直に従う。その後すぐにトレイナーから「席に戻りなさい」と指示が飛んで、ウィルフレッド達は観戦席へ戻った。
授業が終わってすぐ、シャロンに「大丈夫か?」「元々今日は風邪気味だろう」、「何なら放課後の勉強会は無理せず休んでくれ」、「念のため医務室でも診てもらおう」などとオロオロ話しかける姿は、いつもの彼で。
シャロンは「大丈夫よ、ありがとう」と普段通りの微笑みを見せ、貴族の生徒が集まるサロンでの勉強会も見事に完遂し、令嬢達に囲まれて女子寮へ帰っていった。
サディアスは立ち上がり、コロシアムの階段を降り始める。
相手は女子でありながら《剣術》上級を受講する実力の持ち主だ。担当教師のレイクスも先週の件を聞いていたようで、令嬢は今週そちらからも一言お叱りを受けたらしいとは聞いた。野次馬で見学に行った生徒が複数いるのだ。
――父上はレイクス先生の事も気にしていたが、今のところ動きはない。
かつてレイクスの兄は罪を犯し、公的には自害したとされていた。
本当に手を下したのはアベルであり、レイクスはそれを知っている。ただ書類で見る限り特別仲の良い兄弟というわけでもなし、アベルを恨む様子も表面上はまったく見られなかった。
サディアスの父が警戒していたのは、騎士団を去って以降のレイクスに会っていない事も原因だろう。相手を直接見れなければそれだけで何を考えているか、どんな様子かは全て伝聞、不確定になる。
『お前は気を許すな。警戒する人間は必要だ』
コロシアムに背を向けて歩きながら、父の言葉を思い返した。
元より、気を許すほど関わりがあるわけでもない。
情報を集めながら客観的に考えるだけだと、サディアスは静かに前を見据えた。
「ヒョヒッ!!」
少し歩いた所で、悲鳴とも奇怪な音ともつかぬ声がする。
そちらへ目を向けると、ヘデラの王女ロズリーヌ・ゾエ・バルニエが木立の後ろへ隠れるところだった。
残念ながら太ましい身体が木の幹からはみ出ているし、それ以前に従者のラウル・デカルトは隠れる気一切なしで横に突っ立っている。
サディアスと目が合うと、ラウルは桃色の瞳にどこか冷ややかな光を宿して微笑み、軽く頭を下げた。
「ハッ!つい咄嗟に隠れてしまいましたわ……お、オホホホ。ご機嫌ようサディアス様…」
カサカサと草を踏み分け、プラチナブロンドの巻き毛をポニーテールにしたロズリーヌが苦笑いで会釈する。
サディアスは努めて完璧な笑顔でそれに応えた。
「これは、殿下。こちらでお会いするとは偶然ですね。」
「そそそうですわね!えぇ!わたくし決して怪しくありませんわ!尾行とか待ち伏せなんてしていませんし、本当にたまたま歩いていたんです!ねぇラウル!?」
「無実なんですから、自分からそういう単語出さない方がよかったんじゃないですか?」
「た、確かに!!」
「…そうですか、たまたま。どちらへ行かれるご予定だったので?」
ため息を吐きたいのを堪え、サディアスは美しい微笑みのまま聞く。
この二人組が何を考えて行動しているのかは本当に謎だった。謎過ぎて、いっそ何も考えていない可能性まである。
「温室ですわ。食前にさっくり歩いてから寮へ戻るつもりですのよ。」
「健康的で素晴らしいですね。」
「ハヒッ…フヒヘヘ……あ、さ、サディアス様。笑顔は大変おいし…素敵ですが、ご無理はなさらなくて結構ですのよ。」
「無理などと…」
否定しようとしたサディアスを制止するように手のひらを出し、ロズリーヌは神妙な顔で頷いた。大丈夫です、わかっています。とでも言いたげに。
「ご安心くださいな、たとえ睨まれようと美し…コホン、楽し…も違いますわね。ラウル、なんと言えば怪しくないかしら?」
「本人の前で相談する事じゃないですけど、自然なお顔が一番、でどうですか?」
「完璧ッ!貴方まぁよくもわたくしの気持ちを!ねぇ!理解していて!」
「殿下、痛いです。」
興奮した様子でラウルの腕をバシバシ叩き、ロズリーヌは薄青い瞳を輝かせてサディアスに笑いかけた。頬にむにりとえくぼができる。
「そう、サディアス様は自然体が一番ですわ!わたくしの事は他国の王女などと思わず、一人の生徒として扱ってくださいな。外交問題になんて致しません事よ!えぇ絶対に、この命に賭けてでもッ!」
「なんかむしろ脅してるっぽくないですか?」
「わたくしがサディアス様をッ!?おどおどおどどどうしましょう、そんなつもりは!」
「……わかりました、殿下。」
サディアスはため息をついて眼鏡を指で押し上げた。
傍迷惑な生き物から珍妙な生き物へ進化した王女の事はこの数か月見ていたが、どうにも毒気を抜かれるというか、堅苦しく丁寧に接する方が馬鹿らしくなってくる。
作り笑顔がバレているなら意味もなかろうと、力を抜いて真顔でロズリーヌを見据えた。
「私は怒っていなくてもこのような顔になりますが、構いませんか?」
「構いませんわーっ!全然大歓迎ですッ!!それでこそサディた…サディアス様っ!」
「……それでこそ、ですか……」
一体いつから作り笑いが見抜かれていたのか、サディアスはやや困惑する気持ちを隠して呟く。一応、王女の前では外面を保っていたつもりだったのだ。
「あっでもね、もしどなたかに手作りのお菓子など頂いた際には、美味しいですわとニコッてして伝えて差し上げると良いですわよ!」
「……覚えておきます。」




