35.オークス公爵邸へ ◆
『来てくれると思っていたわ。』
真夜中。
俺を呼びつけた女は、長い薄紫の髪を風になびかせて笑っていた。
『ふふ』
『…何が可笑しい』
『だって、名無しの走り書きで貴方を呼びつけられる女性なんて、二人だけでしょう?』
花がほころぶような笑顔も、俺を恐れる様子がまったくないことも、昔から変わらない。
今この一瞬だけあの頃に戻れたかのような錯覚を覚え、自分の甘さに眉を顰めた。
『お前の筆跡くらい覚えている。』
『そうね。…来てくれてありがとう。アベル』
その笑顔を見つめ、久しく聞いていなかった声で名を呼ばれると、なぜか疲労感がどっと押し寄せる。
疲れたと零して座り込んでしまいたくなる。少しばかり寄りかからせてほしいと、わけのわからない感覚を覚える。
目の前の女は、俺より遥かに弱い存在であるはずなのに。
彼女には敵わない――兄がよく言っていた事を思い出した。
『……この国にいれば、俺が守ってやれる。』
迷いの中でそう呟くと、シャロンは困り顔で微笑んだ。
隣国に嫁ぐという話は聞いている。見送りに行けない俺へ、別れを言うために呼んだのだろう事もわかっていた。
『せっかくのお父様の気遣いを、無下にはできないわ。』
『本当に気遣いか?』
『えぇ?どうしたの、急に。』
お前は、まだウィルを想っているのではないのか。
公爵が「気遣い」で婚姻を決めるか?
あちらは和平を結んで長いが…
『…俺に、何か隠しているか。』
『なんにも。……大丈夫よ、アベル』
俺の怯えを見抜いているかのように、安心してほしいとばかり、彼女は目を細めて笑う。
『貴方は《守る人》だから。』
もう――どれだけ殺したか、わからないのにか?
かつてお前が言ってくれたその言葉を、俺はとうに違えてしまっているはずだ。
『いつかきっと、安らぎは訪れる。……あの子をよろしくね。泣かせちゃ駄目よ?』
少しおどけたように言って、薄紫の瞳は俺を優しく見つめていた。
そして
【シャロン・アーチャー含む複数名の遺体発見、襲撃と見られる。なお――】
第一報として送られたそれは、
『なんて書いてあったの……?』
『……シャロンが隣国への道中、何者かに襲われて死亡した。』
『嘘!…そんな、いや、嫌――…』
彼女には、刺激が強すぎた。
ふらついた身体が意識を飛ばしたと察して、倒れる前に受けとめる。騎士になった彼女も仲間の死を経験しているが、それが学園からの親友とあってはショックも大きかったのだろう。
まして、戦場へ向かったわけではないのだから。
廊下が騒がしいと思えば、血塗れの騎士が仲間に止められながら部屋に入ってきた。
『シャロンが死んだ』
バンダナを巻き付けた髪も、団服も、抜き放ったままの剣も。
返り血を洗い流す事もせず、ただここへ帰ってきたのだろう姿だった。
『間に、合わなかった。』
ぐしゃりと髪を掻き混ぜると、乾いた血がぱらぱらと床に落ちた。
『俺が…俺がもっと、早く…ッ悪い、アベル様…!』
『何があった。』
剣が落ちて音を立てる。
かつて俺達と共に学園で過ごした男は、膝をついて背を丸めた。
『ち、ッくしょ……』
『聞かせろ』
ただ死んだだけではないのだろう、という事は察していた。幸いにも彼女は気絶していて、聞き苦しい話も今なら聞ける。
『シャロン、は…』
呆然と床を見つめたまま、語られる。
恐らくはこいつが見て《察した範囲だけ》であろう、惨状を。
命も尊厳も何もかもを奪われて、兄が愛した女は死んだ。
『陛下。アーチャー公爵より書状が』
部屋にすっかり沈黙が降りてから、 それは届いた。
封蝋を開け、確かに公爵本人の字だと確認する。
爵位を返上し、国民としての権利を放棄して国を出ること。
今後アーチャー家およびその使用人がとる行動の一切は、ツイーディア帝国と関わりがないこと。
そして、詫びと――
『…何が、守る人だ』
俺は書状を握り潰した。
やはり隠していた、事の経緯を。
――俺はまた、気付けなかった。
◇ ◇ ◇
いよいよ、チェスターの妹さんに会える。
緊張でついそわそわしてしまう私は、馬車の窓から外を見たり、座り直したり、メリルが結ってくれたポニーテールを手で梳かしたり、斜め向かいに座るサディアスにどうでもいい事を話しかけたり…
「いい加減落ち着いてくれませんか。」
まだ十四歳だというのに深々と眉間に皺を刻み、サディアスが言った。
せっかくなら一緒に行きましょうと誘った私に、ご令嬢、それもアーチャー公爵家に馬車を出させるわけにはいかないと、サディアスが馬車を手配してくれていた。
ニクソン公爵家所有のものではなく、あえて業者を呼んだみたい。
「ごめんなさい。ずっとお会いしたかったから、つい。」
「チェスターの妹に会ってどうするんです。売り込みか何かで?」
「…私は商家の娘ではないわよ?」
売り込みと言われても、売るべき商品がない。首を傾げると、サディアスは短いため息をついた。
「では、なぜ会いたいのですか。」
「お友達になれたら素敵だし、私達と会う事で少しでも気分転換になったら嬉しいわ。」
それも私の素直な気持ちだった。
最終目標は彼女の病を治す事だけど、ゲームの回想シーンに出てきたあの愛らしい少女とお話してみたいし、家族や使用人の他には医者くらいしか会わない生活が長いのであれば、今日のお見舞いも良い方向の刺激になってくれればと思う。
私の答えを聞いたサディアスは、水色の瞳でじっとこちらを見つめてから口を開いた。
「……貴女は以前、私に聞きましたね。具合を悪くする魔法について。」
彼が覚えていたこと、今日のお見舞いと関連付けたことに驚いて、少し目を見開く。
初めてサディアスに会った日、私が彼に聞いた事だ。
『魔法を使って、人の具合を悪くさせる事は可能だと思う?』
『…聞いた事はありませんが、そういう《スキル》がないとは限りませんね。』
そこで私はスキルという存在を知った。
普通ならまずありえないだろう、《人の具合を悪くする魔法》の可能性。
「病はそれが原因だと思っているのですか?」
「……長く患っていらっしゃる事は、前から聞いていたもの。」
言葉を選びながら答えた。
大丈夫、私はあくまで可能性を考えているだけの、想像力豊かな子供だわ。前世の記憶を得た事など、サディアスが知るはずもない。
「お医者様でも治せないご病気なら、魔法だったりしないかしらと。聞いてみたら皆サディアスと同じ意見だったわ。あると聞いた事はないけれど、ないとは言い切れない…」
「単に新種の病である可能性も十二分にありますが。」
「えぇ。でもそちらはお医者様が診ていらっしゃるでしょうから、私はただ《魔法だったら》という視点を持って、一度お会いしてみたかったの。」
何が起きているかこの目で確かめてみたかった。
魔法を発動させている誰かの影はあるのか、症状はどこまで進んでいるのか。
ゲームから得た情報は少な過ぎるのだ。
何せ彼女は、生きているうちには主人公であるヒロインと会えていない。チェスターの回想から知りえたのは症状と、進行したらどうなっていくか。
それらを止めるための情報はろくに無い。
「だけど、私は全然魔法に詳しくないわ。だから…」
「納得しました。道理で強引に私を引き込んだわけですね、貴女なりの思惑があったと。」
黒縁眼鏡を指で押し上げて、サディアスがどこか冷ややかに笑う。
私の狙いについては黙っているつもりだったけれど、先に話す事になってよかったのかもしれない。
本当は妹さんに会った時に、サディアスには何か気付いた様子はあるか見てみたり、そうでなければ帰り道で意見を聞いてみようと思っていた。
「そうなの。貴方は頼もしい人だし、お話するのも楽しいから、一緒に来てくれたら嬉しいと思ったのよ。それに、魔法にも詳しいでしょう?私に気付けない事も貴方なら……サディアス?」
我儘を通してしまって少し申し訳ないな、と思いつつ話していたら、サディアスは困惑の顔でこちらを見ていた。
呼んでみると、彼は瞬きして視線を彷徨わせる。
「……病が魔法関連かどうかを探らせるために、私を連れてきたんですよね?」
「えぇ。」
私の一言目で、サディアスはそうですよねと言わんばかりに深く頷いた。
「一番は私が貴方ともっと一緒にいたかったからだけれど、魔法についても何か気付い」
「ちょっと待ってください。」
片方の手のひらをこちらに向けられて、私は言いかけの口を閉じる。
サディアスは俯いてもう片方の手で額を押さえていた。
「……貴女が、誤解を招く発言の多い方だと察しました。」
失礼では!?
突然の言いがかりに私は目を丸くしてしまう。
「そんな事はないと思うのだけど。」
「あります。……今の発言を…理解しがたいところではありますが、先程の言葉も加味して考えるに、つまり…私と話す機会が増えるのはよい事だと、貴女は考えているんですか?」
「もちろんそうよ。」
何を当たり前の事を。
俯いたままのサディアスがもはや心配になってきてしまう。馬車の揺れで酔ったのかしら?
声をかけようとしたら、顔を上げた彼は元通りに背筋を伸ばした。
「これまで、貴女を楽しませるような会話をした覚えはありませんが。」
「サディアスの話はいつだって興味深いわ。私が知らない事を沢山知っているもの。」
「知的好奇心ですね、なるほど。だとしても不快では?自分の性格が良くない事はわかっているつもりです。」
「貴方が?」
つい聞き返しながら、納得して自分の顎に軽く手を添えた。
たしかにツンツンした態度が多いし、ウィルのような心からの微笑みを向けられた覚えもない。仕事では時に冷酷な判断を下したりする事もある。けれど……。
「あんなに嫌そうな顔をしていたのに、今日も来てくれたでしょう?」
「……ウィルフレッド様のご命令ですので。というか、貴女やはり私が嫌がっている事は気付いていたのですね?」
「見るからに嫌そうだったもの。」
「はは。…私は随分となめられているようだ。」
「そんな事は……」
サディアスが作り物のように綺麗な微笑みを向けてくる。ちょっと怒ってるみたいね…。決してなめているわけではないけれど。
彼はゲームでも何か頼み事をされると、嫌がったり文句を言いつつも、なんだかんだ最終的には手伝ってくれる人だった。でもそれを知っているからとは言えない。
私は眉尻を下げてサディアスを見つめた。
視線や言葉が冷ややかな事はあるけれど、不快に思った事はない。それに貴方は
「可愛いところもあるし…」
「……はい?」
しまったと口を押えても遅かった。
こぼれてしまった言葉を、サディアスはぽかんとして聞き返し――その頬が赤く染まる。
「な、何を言って…」
まずい、ものすごく怒らせてしまったわ。
「違うの!その、可愛いというか、見ていて微笑ましいと」
「微笑ましい…!?」
「ごごごごめんなさい!」
私は慌てて目の前で手をぶんぶん振った。違うの、その、あのと意味のない言葉が口から出ていく。
そうよね、いきなり可愛いとか微笑ましいとか言ったら、馬鹿にしているのかと思われても仕方ないわよね…!
でも憧れのアベルが甘いものを食べるからって、自分もそうしている貴方の行動が可愛いのは確かだと思うの。
紅茶も本当はストレートでいいのに、アベルが砂糖を入れてると知ってからは入れたりとか……なんてどうして知ってるって言われると困るから言えないけれど!
どう収拾をつけたらいいのかわからない私には幸いな事に、馬車が止まった。窓の外を見れば大きな屋敷が目に入る。
オークス公爵邸に到着しましたと御者の声がして、サディアスは立ち上がった。
「…い、行きますよ。」
「そ……そうね。」
まだ少し赤い顔ながら、彼はなんとか怒りを鎮めようとしてくれているみたいだった。とても申し訳ない気持ちになりながら、私も後に続いて馬車を降りる。
緊張した面持ちの門番が私達に礼をした。
「言っておきますが、お役に立てるかはわかりませんよ。」
開いていく門へ歩きながら、サディアスがぼそりと呟く。
「魔法は、発動している時でないとわからないのですから。」




