357.蹴ったれ
放課後の女子寮一階、談話室。
ふと寒気がして、私はハンカチを口元にあてた。
「くしゅっ…」
「大丈夫?」
「えぇ」
心配そうなカレンに笑顔を向ける。
夏場に風邪気味だなんて少し恥ずかしい。まさか寝る寸前に転寝をしてしまうとは…自分が思う以上に疲れていたのかも。
「なんだ、風邪か?はちみつ舐めとけ、はちみつ。」
「言葉遣い!…リンゴなんかも喉に良いと聞きますね。どうかお大事になさってください。」
同じテーブルでノートを広げているレベッカとデイジー様がそう声をかけてくれた。
レベッカはちょこちょこと跳ねた赤髪を珍しく一つに結っている。暑いのだろう。普段通り首にはチョーカーを、前髪はヘアピンで留めていて、シャツを肘まで腕まくりしていた。
デイジー様はいつも通り、濃いブラウンの髪をきちりと編み込んだポニーテールにしている。
「ありがとう、二人共。試してみるわね」
私はサロンでのお茶会兼勉強会を終えてきたのだけれど、戻ってきたら三人もここで勉強中だった。
声をかけたら少し教えてほしいという事だったから、空いていた椅子にお邪魔している。
「はちみつかぁ…」
カレンがぽつりと呟いた。
彼女は私達の視線に気付くとハッとして手を軽く振る。
「な、なんでもない。また今度クッキー作ろうと思ってて…」
「あーカレンは自分でやれるもんな。この前のうまかったよ。」
ドライフルーツ入りのクッキーはレベッカ達も貰っていたみたい。
さらりと褒めるレベッカにちょっと照れながら、カレンが小さく頷く。ぽっと染まった頬が可愛らしい。
「その…再来週あたりにでも……」
「へぇ!楽しみにしとくわ」
「何で貰う気満々でいるのよ。」
「だってあたしら作れねーじゃん。カレンは凄いよ」
「あ、ありがとう。けど、そんなに難しくないよ?混ぜて焼くだけだから……よかったら一緒に作ってみる?」
「まぁ!とても素敵だわ。私はぜひ」
「シャロン様…!?」
貴族の娘はまず自分で料理などしないから、デイジー様が衝撃を受けた顔をしている。
お菓子作りはゲームでもあったイベントだ。
あえて避ける必要もないし、カレンと一緒なんて絶対に楽しいわ。前世では一人暮らしも経験したし人並みに料理もしたけれど、今世では経験がない。少しわくわくする。
結局、ゲームの時と違ってデイジー様とレベッカも参加する事になった。
せっかくなので材料は私が手配する。カレンとデイジー様は恐縮していたけど、この面子ではたとえ一部でも皆に払わせるわけにはいかないわ。
本当はもっと…カレンを仕立て屋に連れていってオーダーメイドのドレスや私服を贈ったり、アクセサリーに鞄や靴みたいな小物も全部たくさんあげたいくらいなのだけど……!
さすがにそういうのは我慢している。
「そいや、シャロン…様。今日結構いいの貰ってたろ。大丈夫だったのか?」
デイジー様にじろりと見られて敬称を付け足し、レベッカが自分の頬を指して言った。
《体術》の授業での話ね。驚くカレンを安心させるように、私は微笑んで頷いた。
「あれは上手く隙を突かれてしまったわね。防御が間に合わなかった……この通り腫れもないし、大丈夫よ。」
「か、顔を殴られちゃったの!?」
「んや、蹴りだったよな?」
「えぇ。」
「シャロンの顔をっ……!?」
カレンが赤い瞳をまんまるにして驚いている。
デイジー様は少し青ざめた顔で「私も気が気ではなかったわ」とこめかみに手をあてた。
腕で防ぐのは間に合わなくて――ただ、身体強化による防御はしている。
何せ頬ではね。内出血したら化粧で隠すにも限界があるし、あの時……笑みを浮かべた彼女が全力で蹴り抜くつもりだと察した瞬間、咄嗟に魔力を使っていた。
まずい事になると思ったから。
「手を抜かずに相手をしてくださるのは、嬉しいのだけれど…」
「あれ顔いったのわざとだろ。」
「え!」
レベッカの言葉にカレンが反応した。
そう、試合の最中に偶然なら仕方ない。これまでにも授業の中で私が攻撃をしっかり食らってしまった事はある。
けれど彼女は敢えて頬を狙い必要以上に強く蹴り抜き、おまけにそれを隠そうともしなかった。……困った人。
「……第一王子殿下がお怒りになるのを、初めて見たわ。」
ちらりと周囲との距離を確認して、デイジー様が他の人に聞こえない声で言う。当時を思い出してか、彼女は寒そうに二の腕を擦った。
あの時は何組か同時に試合をしていたのだけれど、ウィルは出番ではなくて観戦側だった。わざとやったと気付けない彼ではない。
私は先生に具合を確認されていて、二人の会話までは聞こえなかったものの……かなり緊迫した雰囲気になってしまったのは覚えている。
カレンが口元を手で覆っている事に気付いて、私は慌てる心を隠して微笑んだ。
「もちろん、声を荒げたりなどされていないのよ。」
「空気が超冷えて生徒全員黙ったよな。他の試合も全部止まったし」
「私は一歩も動けなかったわ…」
レベッカ、デイジー様、その辺りはちょっと内緒にしてほしかったわ。
けれど幸いにもカレンはウィルを怖がるより、試合の相手に対する怒りが強いみたい。眉根がきゅっと寄せられている。
「その人、先生に怒られなかったの?」
「注意は受けてたけど反省してないな。あたしがあんた性格悪ぃなって言ったら、それほどでもって返してきやがったし。眼鏡カチ割ってやろうかと思ったぜ」
「そう簡単にいかないわよ。」
「わかってるよ。《剣術》上級クラス様だしな」
「じょ、上級って事は男の子が?」
非難めいた声を上げるカレンに、首を横に振る。
四月のクラス分け試験でたった一人だけ、上級に受かった女子がいるのだ。他の授業と違ってかなり少人数だから、同じく上級のウィルとは元から交流があるはず。
だから彼はトレイナー先生が注意するだろうとわかっていてなお、自分でも先に声をかけたのでしょう。
男子の力で蹴られたわけではないと知って、カレンは少しだけ安心したように息を吐いた。赤い瞳で改めて私の頬をじっと見つめる。
「シャロンは治癒が上手だし、私より全然強いから余計なお世話かもしれないけど……あんまり無茶しないでね?」
「ふふ、同じ失敗のないよう気を付けるわ。ありがとう」
「次の《体術》でやり返そうぜ。あいつの顔蹴ったれ。たぶん眼鏡飛んでくぜ」
「レベッカ。貴女誰に何を勧めているのよ…」
デイジー様が呆れたように言う。
剣を持ったら私では彼女に敵わないでしょうけれど、体術ならなんとか食いついていけていた。どちらかと言えば彼女は、それを楽しんでいる様子で……今日も、私を嫌ったり疎んでの事には思えないのよね。
レベッカの言い方を借りるなら、「ちょっと蹴ってやれ」くらいでやられた気がしなくもない。本来、それで実行するにはお互いの立場もよろしくないのだけど。彼女はちょっかいをかけて楽しむ節がある。
デイジー様がふと考え込むように腕組みをした。
「上級クラスって、面子が独特よね。……大抵は《体術》か《格闘術》も好成績で……あぁでも、《護身術》で済ませてる彼はあまり目立った話を聞かないわね。」
「えっ、《護身術》に《剣術》上級の人がいるの?」
思い当たらないのでしょう、カレンがきょとんとして聞き返した。
レベッカは不機嫌そうに眉を顰めてそっぽを向く。…やっぱり何か思うところがあるのかしら?デイジー様はちょっぴり片眉を上げてカレンを見やった。
「貴女、クラス分け試験見に来ていたでしょう?目立ってたから知っているわよ。」
「うっ…うん。いたんだけど、結果は知ってる子しか覚えてなかったというか……」
「バージル・ピューというお名前で、浅葱色の髪を一つに結わえた方よ。背は…少し小柄かしら。眠たげなお顔をされている事が多いように思うわ。」
私の言葉でカレンはようやくピンときたようだ。
きっと《護身術》では全然目立たない生徒なのだろう。私も直接話した事はないけれど、見かける雰囲気やクラス分け試験での態度を見るとそう思う。
ただ、ゲームの剣闘大会ではアベルに次ぐ準優勝だった。
彼は少なくとも、上級クラスの生徒二人に勝ってみせたということ。
そして《未来編》では魔法の得意なレベッカと組んで傭兵になっている。騎士団とは違う自由な立場から人々を助けて回るために。
カレンがアベルを選んだ時、二人は敵として登場する。
『親父は今も、馬鹿の一つ覚えみてーにあんたを信じてんだろうな……』
レベッカはアベルを止めようとし、バージルはその意志を尊重して共に戦った。
皇帝の近衛騎士であるカレンは、かつての友を迎え撃つしかなくて。
でも、どう足掻いたって二人はアベルに勝てない。
バージルが倒れ、剣先がレベッカの喉元に突き付けられる。
『殺せよ。そっちが正しいんだろ』
カレンはアベルを「止める」か「見守る」か、選択を迫られた。
どちらを選んでも彼がレベッカ達を殺す事はなく、カレンはせめてと手持ちの薬を少し分けて置いていく。アベル達が去った後、何とか起き上がったバージルは黙ってレベッカの涙を拭いた。
そして、アベルは自分の選択を後悔する事になる。
二人は傭兵として請け負った仕事で失敗し、殺されてしまったのだ。
はっきりと名は出されていないものの、ゲームの中で二人組の傭兵と言えばレベッカとバージルしかいない。カレンと入れ違いでその報告に来た騎士は「すぐには死なせてもらえなかったようです。惨い事を…」と言葉を濁していた。
アベルの表情に動揺はなかったけれど、騎士が去った後で彼は呟いた。
『……あの時、殺してやれば…』
誰の耳にも届かないその一言をカレンが聞いていれば、また違ったのかもしれない。
見逃した相手が苦悶の末に殺された事実は、彼の心に強く残ってしまった。
「えっと……上級クラスって五人いるんだよね?」
「私達の学年ではね。」
デイジー様の返事に頷きながら、カレンは指折り数え始めた。
二人の王子殿下、唯一の女子、そしてバージル。四つ指を折ったところでぱちりと瞬く。
「もう一人、男の子がいるのかな。」
「いるぞ、毎日第二王子に挑んでる馬鹿が。」
「毎日!?」
「あいつ土日は働いてっから、学園がある日だけだけど。」
それでも週に五日だ。
他学年含めてアベルに試合を挑む人は絶えないけれど、中でも相当な常連と言える。デイジー様は不可解そうにレベッカを見た。
「働いてるって……貴女、彼と話したの?いえ、話がわかったの?」
「ん?」
「一度声をかけてみた事があるけど、私はまったく会話にならなかったわ。」
「あ~アイツ喋り方変わってっからな。」
「…そうなの?」
つい口を挟む。
私はまだ姿を見かけるばかりで彼の声を聞いた事がない。ゲームにも出てこないし。
デイジー様はきっぱりと言った。
「もはや外国語です。」
「そんなに…」
「じゃあ、レベッカはどうやってその人と喋ったの?」
「何となくと、あと普通に「何言ってっかわかんねぇよ」っつった。」
レベッカらしい答えだ。
デイジー様はなかなか初対面でそうは言えないだろう。ため息混じりに首を横に振っている。
「言ったところでどうなるのよ。筆談でもするの?」
「や、あいつ一応普通に喋れんだよ。」
「……えっ?」
唖然としたその声を聞きながら、私はまた「くしゅん」とハンカチで口元を押さえた。
今日はちゃんと身体を温めて眠りましょう。




