354.出番が無くて何より ◆
『あれ、一人?』
背を預けていた壁から離れ、チェスターは少し驚いた顔で聞いた。
シャロンが誰も連れずに廊下を歩いてきたからだ。「えぇ」と返した彼女は普段のような微笑みを浮かべておらず、真剣な眼差しには厳しさすら滲んでいる。
観劇の最中にウィルフレッドが襲われるという事件が起きた今日、事情聴取や安全確保のため、王子一行は学園に戻らずリラの騎士団詰所に来ていた。
この廊下の先に用があるとすれば、訪れるのはアベルがいる応接室しかない。
チェスターはわかりやすく苦笑いを浮かべた。
『あ~……今、機嫌悪いけど。』
『そうでしょうね。彼、血は落としたの?』
『うん、さすがに着替えてもらった。……あのさ、怒られたらすぐ出てきてね?』
『確約できないわ。』
きっぱりとそう言って、シャロンは顔を引きつらせたチェスターの前を通り過ぎる。
貴賓席の廊下で襲撃者と鉢合わせた時、チェスターは対応しきれずに一人シャロンとカレンの前へ通してしまった。
次の一手で間に合いはしただろうが、結果的には女子の手を借りたのだ。それを気にして強く止められないだろう事をシャロンはわかっていた。
音のないため息に背を向け、数メートル先の扉をノックして名乗る。
数秒待ったが返事はない。
淑女としてあるまじき行為だが、シャロンは構わず扉を開けて中へ入った。
途端、ピリついた空気が肌を刺す。扉を閉め切らずにおいて振り返れば、ソファに座った第二王子殿下は大層不機嫌な様子で脚を組んでいた。
普通の令嬢は真っ青になって逃げ出すだろうが、シャロンはいつもと変わらぬ優美な所作で歩を進める。ローテーブルの横まで来て足を止めると、眉を顰めたアベルは彼女を見もせずに吐き捨てた。
『許可した覚えはない。』
『えぇ、勝手に入りました。』
『早く出て行け。見てわかるだろうが気が立ってる』
『殿下』
ぴくりと、アベルが不快に眉根を寄せる。
ようやく視線を向けた先で、シャロンは深く頭を下げていた。
『此度カレンが転落したのは私の責任です。焦って行動してしまう可能性は考えられたのに、目を離しました。大変申し訳ありませんでした』
『…顔を上げろ。謝る相手が違う』
『ウィルフレッド殿下とサディアス様には既に。本来私があの子を強く叱らねばならな――』
シャロンが言葉を続けながら顔を上げると、アベルは僅かに目を瞠って素早く立ち上がる。驚いて唇を閉じた彼女に詰め寄り、胸元で軽く握られていた手を掴んでどけた。
『その血はどうした』
『えっ……』
『どこを切られた。自分で治したのか?なぜ騎士に言わなかった』
アベルは咎めるような声で言いながらシャロンの手を角度を変えて眺め、傷がないと見るや反対の手を取る。薄紫の瞳が驚愕と困惑で丸くなっている事には気付かず無傷を確かめ終え、何も言わない彼女をジロッと睨んだ。
『お前が怪我をしたとは聞いてない。』
『え、えぇ……チェスターとレオが守ってくれたから。』
『は?じゃあその血は何だ。』
アベルの視線が下がり、シャロンはまだ握られたままの手が気になりつつも、視線を追って自分の胸元を見る。
制服のリボンより低い位置、白いシャツに親指ほどの大きさの赤い染みがあった。もちろんシャロンの血ではない。考えて、はっとする。
『貴方、返り血を垂らしてカレンに詰め寄ったでしょう。それが移ったんだと思うわ。』
『………。』
『待って』
離れようとしたアベルの手を取り、シャロンは両手でそっと包み込んだ。
とうに洗い流したとはいえ、べったりと血に濡れていた手をそうされてアベルは顔を顰める。振り払いまではしなかったが、怪訝にシャロンを見やった。彼女は真っ直ぐに自分を見上げている。
『カレンを本気で叱ってくれてありがとう。…ごめんなさい、嫌な役をさせて。』
『…苛立っただけだ。礼を言われる事じゃない』
『――…。』
握った手の存在を確かめるようにきゅうと包み、シャロンは少しだけ顔を俯けた。
王家の補佐をするべきアーチャー公爵令嬢として謝罪し、友人を守れなかったシャロンとして感謝を述べて、アベルの言葉は本心だとも察している。
兄を狙われた怒りも冷めず、人を斬った直後のアベルの前で、カレンはあまりに軽率だったのだ。それがたとえ純粋にアベルを心配する気持ちからであっても、ただの注意で済まされるべきではない。
しかし胸倉を掴んだのは確かにやり過ぎで、普段の彼ならしない行動だった。
――せめてレオにカレンを見ていてもらえば、私がもっときちんと理由も含めて伝えていれば…アベルにあんな事をさせることも、カレンを泣かせてしまうこともなかった……。
沈痛な面持ちで目を伏せるシャロンを前に、アベルは瞬いてちらりと視線を泳がせる。
礼を言われるのは予想外だった。ウィルフレッドと同様に「あれはやり過ぎだ」と非難される覚悟をしていたし、シャロンが彼女自身を責めて謝ってくるとは思いもしなかった。
言葉を選びながら口を開く。
『……君が、劇場側に行くなと言いつけてた事は知ってる。』
シャロンは驚いた顔でアベルを見上げた。
現場にいた騎士がそこまで報告していると思わなかったのだろう。
『それを破ったのは本人の責任で、…少々荒くなったのは僕の責任だ。君が落ち着かせるだろうから問題ないとも考えてた。丸投げして悪かった』
『…平気よ。貴方の指示がなくてもそうしていたもの』
ウィルフレッドが到着してカレンから離れた時、アベルはチェスターに抱えられて風の魔法で降りてくるシャロンに気付いていた。
怯えきったカレンが立てない事もわかっていたし、そのまま座り込んでいられると騎士の邪魔だとも思った。
何とかしておけという冷たい一瞥に、シャロンは蒼白な顔ながらすぐ頷き返したのだ。
武器を持った男に相対し、友人が死にかけ、血の匂いがして、赤い舞台上からは微かに呻き声が聞こえて、それでも。
立ち止まりそうな足をできるだけいつも通りに動かし、恐怖を押し隠して淑女の微笑みを浮かべ、手や声が震える事のないようにして。
普段通りに落ち着いた公爵令嬢として、カレンを優しく抱きしめた。
今になって少しだけ震えてしまうシャロンに気付き、アベルは細い指をそっと握り返す。
薄紫の瞳に涙の膜が張り、部屋の灯りが反射して光って見えた。シャロンは花がほころぶようにふわりと微笑み、柔らかな声で言う。
『――貴方達が無事で、本当によかった。』
アベルは少しだけ困ったように眉を下げ、薄く微笑み返した。
『当然だ。誰だと思ってる』
◇ ◇ ◇
襲撃は起きなかった。
無事に観劇を終えたロズリーヌはラウルの手を借り、そそくさとオペラハウスの階段を降りていく。
またウィルフレッド達と鉢合わせてしまったら、下手をすると学園まで一緒に戻るという話になりかねない。途中の休憩時間にあれだけ推し達を摂取させられたロズリーヌには危険過ぎる展開だ。
「ハァ、ハァ……素晴らしき世界に感謝……ウッ!」
「吐きます?」
「吐きませんわよっ!この嬉し涙が見えないのですか!」
何枚目かのハンカチを目元にあてながらロズリーヌが言う。
第三幕のラストで主役二人が立ち並ぶ姿にも感極まってしまったが、何よりシャロン達からの供給に対する涙をもう我慢しなくていいのだ。「ふぐぅうぅぅ」と声を漏らしながら泣いてしまう。
――まさかサディアス様のルートをこの目で見られるなんてーッ!!ありがとうございます、ありがとうございます、カレンちゃん。誠にありがとう、本当にありがとう。現実だけあってゲーム画面で見るより長く喋っていた気がしますわね!わたくしときたら直前の衝撃で動揺してお経のように感謝を述べてましたし、お邪魔するような事があってはなりませんから、内容はろくに聞き取れておりませんけれど……でも、うふふ、うひ……ちょっぴり困ったサディたんの、あの「女子は自分と話してもつまらないだろう」と思っているお顔……あああ紺色の整ったツヤツヤな御髪を撫で回して差し上げたいですわーッ!!迷惑そうな顔でドン引かれるまでがセット。
オペラハウス内のバーで、カレン・フルードは双子の王子でもチェスターでもシャロンでもなく、サディアスに話しかけた。間違いなく《選択》をしたのだ。
そして直前に起きた出来事といえば、何の事はない。
シャロンがカウンター席の高い椅子から降りる際、アベルの手を借りた。それだけである。
――ん何ですのあれはーッ!!あまりにも自然に差し出されたアベル殿下の手を、なんの躊躇いも驚きもなく借りたシャロン様!まさか慣れてるんですの!?えっ!?それは男性の手を借りる事に!?それともアベル殿下の手を借りる事に!?わかりませんがわたくし的に美味しいので後者という事に致しますわ!「ありがとう」と微笑まれたシャロン様のお可愛らしいこと、むしろこちらこそ貴重な一幕を見せて頂いてありがとう。アベル殿下がそれに対して頷くだけだったのもこう、当然だと思ってるっぽさがあって……あら?もしかしてわたくしが知らないだけで、今世のお二人は既に夫婦だったのでは?まぁめでたい。お祝いを贈らなければ…
「ラウル、ぐずっ…結婚祝いは、何がいいかしら…じゅびっ。」
「おそらく気が早いという事しかわかりませんね。鼻かみます?」
「かみま……ずびーっ!……ふう。」
号泣する少女を人々はオペラに感激したのだと思い、さほど気にする様子はない。甘やかな美貌の男子生徒を連れているのも、彼女が貴族令嬢ならそう珍しくない事だ。
少々太ましい身体にプラチナブロンドの髪、薄青色の瞳を持つ彼女が隣国ヘデラの王女だと知っている学園の生徒達は、無遠慮に眺めたり目が合えば軽く会釈して離れたり、関わりたくないとばかりに無視したりと様々だ。
一国の王女にしては気位の高さがなく、相応しい振る舞いができておらず、では親しみやすいかと言えば奇行や奇声に変顔と、自他ともに認める個性派王女である。
橙色の混じった空を見上げ、ロズリーヌは鼻をすすった。
オペラハウスの前には広く馬車の待機所が設けられ、乗合馬車も貸し馬車も、観劇を終えた客が次々と乗り込んでいく。健康的に歩いて帰るつもりのロズリーヌ達はその横を通り過ぎた。
隅にある小さな古びた馬車などは誰を乗せるでもなく、背もたれに寄り掛かった御者は帽子を顔にかぶせて眠りこけている。
道端の小石のようなその男をロズリーヌが注視する事はなかった。
「…むぐ……かぴ~………、ぐぅ……」
男はすやすや眠り続け、やがて周囲が騒がしくなる。
王子殿下達だ!と騒ぐ声に目を開き、大欠伸をして帽子を取った。黒い瞳をオペラハウスの入り口へと向ければ、道を空けられた中を王立学園の生徒が幾人か豪華な馬車へと歩いていく。
彼らの中には白髪で小柄な赤目の少女や、薄紫の髪をした令嬢がいた。双子の王子と友人達だろう。
男の目には、先頭を歩く少年二人の姿はよく見えていなかった。
片方は上半身を覆う程大きな影に纏わりつかれ、もう一人はその向こうにいて死角だからだ。
男が目をこらすと影の中にぼこぼことした肉塊が見え、まばらに爪や牙が配置されていた。音もなく滴り落ちる黒い雫はすぐに消えていく。
寒気に襲われ、男は軽く身震いした。
ポケットから取り出したサングラスをかけると影は消え、少し癖のある黒髪の少年が見える。隣を歩くのは金髪の少年だ。
周囲が完全に一行へ気を取られている事を確認し、男はひっそりと姿を消した。




