350.少しは照れるだろ
第一幕が終わり、照明が戻って明るくなる。
シャロンは隣に座るカレンへ目を移した。
オペラグラスを握り締めた手をカウンターテーブルに置いたまま、赤い瞳をまん丸にして固まっている。ぱちぱちと瞬いた彼女はゆっくりと瞳をシャロンに向けた。
「そんなに……急な事もあるの……?」
「婚約の申し込み?ふふ、珍しい事だとは思うわ。」
「この劇って実際にあったお話なんだよね?デイジーさんが言ってた。」
「そうね。セリフの通りに仰ったかはわからないけれど、二人は出会ったその日に婚約したと伝えられているの。」
「へぇえ……!」
会ってすぐに結婚の約束をするとは、カレンにしてみればあり得ない話だ。貴族間では親同士が決めていれば、本人達は初の顔合わせで婚約が成る事もあるらしいけれど。
座りっぱなしが性に合わない男二人はさっさと席を立ち、シャロン達の後方で話していた。壁に寄り掛かったダンがにやりと笑みを浮かべる。
「レオ、お前が寝ないとは偉いじゃねぇか。」
「途中めちゃくちゃ眠かったけどな…。クマ出てきたとこでハッキリ目ぇ覚めた。迫力あったよな。」
「でけぇ吼え声だったな。」
「ていうかさ、ダン……聞き取れたか?」
「あぁ?」
苦い顔のレオがやや声を潜め、ダンは片眉を跳ね上げた。
怪しい物音や話し声は特に聞こえていないし、シャロンやカレンが小声で何か言ったわけでもない。レオは大きくため息をついた。
「俺、歌ってる人がなんて言ってるか全ッ然わからねぇ。」
「ぶはっ、マジかよ。」
「ほんとに。一言喋るだけで長いから待ってらんないっつーか、途中まで何て言ってたか忘れちまう」
困り顔で首を捻り、レオは第一ボタンを外したシャツの襟に指を掛けて軽く扇ぐ。
貴賓席に入った途端にネクタイも緩めてあるけれど、本当はネクタイを外して上着も脱いでシャツの腕まくりをしたかった。
「えぇ!じゃあレオ、王子様が何したかわかってないの?」
椅子に座ったまま背もたれに手をかけて振り返り、カレンが信じられないという顔で聞く。隣のシャロンも予想外だったのか苦笑していた。
レオは王子様――ウィルフレッドみたいな髪の、女達に引っ付かれていた青年――を思い出してみる。最後、女騎士の手に口付けを落としていたはずだ。
「それは見た、チェスターがたまにやってるやつだろ?」
「っ――そ、そうだけどそうじゃなくて…」
入学式の日まさに自分がされた事を思い出し、カレンは顔を赤くして目をそらした。このタイミングで彼が再び隣の部屋から顔を出したらどうしようと、つい壁に視線をやったりする。幸いにも、チェスターがそこからひょいと出てくる事はなかった。
シャロンが微笑ましそうに笑って助け船を出してくれる。
「レオ、アーヴァイン殿下はカリスタ様に婚約を申し込んだのよ。」
「こんやく!?」
「声でけぇよ」
「あ、悪ぃ!」
「ほんとにわかってなかったの…!?」
「おう。」
しっかりと頷くレオをカレンは唖然として見つめた。今の場面で一番大切な事ではないのか。
カレンだって元々、レオが恋愛関係のシーンを興味深く観るとは思っていなかったが、セリフとなる歌声の内容を聞き取れないのは致命的過ぎる。聞く気があるのかと問いたい。
――な、無いんだろうな、あんまり…。戦うところが観たいとしか言ってなかったもんね……レオらしいって言えば、らしいけど。
「結婚の約束って事だよな?会ってすぐなんてすげぇな……ほんとにクマ倒したんなら、確かにめっちゃ強い人だったんだろうけど。」
「何だよ、レオ。お前強い女が好みか?」
「え、俺?いや俺はそういうの考えた事な…」
「お嬢に手ェ握られて顔真っ赤にしてたもんなぁ?」
「はっ!?」
何を言い出すのかと、レオがギョッと目を見開く。
琥珀色の瞳が薄く微笑んだままのシャロンを反射的に見て、隣でカレンが驚いた顔をしていて、つまり二人ともばっちり今の言葉を聞いていたわけだ。かっと顔に熱が集まるのを感じながら、レオは大声を出さないよう気を付けつつ口を開いた。
「それはッ……や、そりゃ少しは照れるだろ!?お前とか殿下達と違って、エスコート?だかで慣れてるわけでもねぇし――…違うからな?シャロン。俺別に、そういう…変な目で見るつもりないし。」
「それくらいわかっているから大丈夫よ。ふふ、一緒に鍛錬してきた仲でしょう?」
「だよな!うん、わかってくれると思ってたぜ。」
明らかにホッとした様子で胸を撫でおろし、レオは快活に笑う。
もし僅かでもシャロンに変な気を起こす可能性があれば、そもそもレナルド・ベインズは彼をアーチャー公爵邸に連れてこなかっただろう。
「んだよ、つまんねぇ…」
シャロンから諫めるような視線を送られ、ダンはわかったわかったと無言で頷いてみせた。カレンが拗ねた顔をしているのも、今は突っ込むのをやめておこう。
じきに第二幕が始まる。
優美な楽曲が流れていた。
王城の夜会だろう、舞台は絢爛に飾り付けられ複数の男女がペアになって踊っている。カリスタとアーヴァインの姿もあるが、一際目を引くのは中央で踊る見目麗しい二人だ。
お喋りに花を咲かせる婦人達の歌声によれば、銀髪の美丈夫は王太子シオドリック、共に踊るのはもちろん王太子妃である。
壁際に立つ警備の騎士達は無言だが、視線は客達を注意深く観察していた。
女達のお喋りはまだ続いている。
現国王と王妃との間にできた子は三人、末の第四王子アーヴァインただ一人が側妃の子。「第一王子は完璧で」「第二王子は次期宰相」「第三王子は騎士隊長」「第四王子は――…」
曲が終わると同時に扇子で口元を隠し、婦人達にあたる照明が薄暗くなった。
ダンスを終えたアーヴァインはカリスタをエスコートして階段を上がり、バルコニーへと出る。他の王子達はそれぞれ薄暗いダンスホールに残って客と談笑したり、舞台袖へはけていった。
明るく照らし出されたバルコニーで二人、アーヴァインは微笑んでカリスタの手を握る。
静かだった。
鬱蒼と茂る先の見えない夜の森を彷徨うごとく、音楽は冷たい響きを伴っている。
心地よい低音で、けれどどこか厳しさを含む声でアーヴァインが歌った。「近い内にかの国と戦になるだろう。だからこそ私達の婚姻は華々しく行う。我らがツイーディア王国は揺るがないのだと、民を安心させるためにも。」
婚約者の横でドレスを纏っていようと、カリスタは国に忠義を尽くす騎士だ。戦が始まれば現地に駆り出される事もあるだろう。
「剣を手にする貴女を美しいと思ったのは確かだが、決してその強さを王家へ縛りたかったわけではない。貴女を危険な場所になどやりたくはない。」アーヴァインの歌声には苦悩が滲んでいる。
カリスタは敢えて騎士の礼で頭を下げ、顔を上げた。
「アーヴァイン様。貴方がいるこの国を守る役目なら、喜んで受けましょう。どうか笑って送り出してください。そうしたら私は必ず、笑って貴方のもとへ帰りましょう。」
ドレス姿で跪いた女騎士は、第四王子の手の甲にそっと口付ける。
アーヴァインは熱のこもった目で彼女を見つめ、手を引いて立ち上がらせた。二人が見つめ合い、ゆくりと顔が近付き――…カリスタがハッとしてダンスホールを振り返る。音楽が不穏で性急な物に変調する。
照明が切り替わり、客達と歓談していた王太子夫妻が照らされた。
階段を駆け降りてきたアーヴァイン達に気付き、第一王子シオドリックが手振りで道を空けさせる。「アーヴァイン、どうしたそう急いで――」「兄上ッ!!」
服の下に仕込んでいたのだろう、アーヴァインは短剣を抜いて駆け寄ると、シオドリックに襲い掛かろうとしていた男のナイフを受け止めた。妻を庇いながら振り返ったシオドリックもそれに気付き、剣を抜いて加勢する。客達が悲鳴を上げて逃げまどう。
客や使用人に扮した不埒者は複数いた。
カリスタも動きにくいドレスをものともせず立ち回って、瞬く間に三人を倒す。警備の騎士達もそれぞれ応戦し、全員が縛り上げられるとようやく音楽が落ち着いた調子に戻った。
シオドリックを刺そうとした男のナイフが掲げられると、そこには不気味に光る液体が塗布されている。「見ろ、毒だ!」「ああ恐ろしい!」「第四王子殿下と妃が王太子殿下を守った!」ざわめきの中、カリスタはアーヴァインのもとへ駆け寄った。
互いの健闘を称えるように微笑んで見つめ合う二人の肩をシオドリックが笑って叩き、注目を集めるように大きく腕を広げる。
「アーヴァインとカリスタ嬢が私を守ってくれた、皆拍手を!」
拍手と開放感溢れる楽曲が鳴り響いた。
ゆっくり、ゆっくりと舞台は闇に包まれていく。音は小さくなり、姿は見えなくなっていく。
コツ、コツ。
舞台袖から現れた、美しいが気難しそうな顔の男に照明があたった。
立派な衣服を纏う短い金髪の彼は、最初にダンスホールで踊っていた内の一人だ。
闇を引きずるような曲の中で低く厳格な歌声が響き、その後の話を語る。
戦争が始まった中でアーヴァインとカリスタの婚儀は盛大に行われ、王太子シオドリックは敵国との間で設けられた交渉の場へ騎士と共に赴いたと。
暗闇の中、高い位置に豪華な建物の外壁が浮かび上がる。
窓ガラスの向こうにはシオドリックや騎士の姿があり、一瞬の後――…打楽器の激しい音と共に、建物の内部が炎に包まれた。熱を持った風が劇場の客席にまで届く。
火は燃え続け、割れたガラスの先にはもう誰の姿も見えなかった。
巨大な影を落とすように建物も見えなくなる。
「第一王子シオドリックは、自軍の犠牲も辞さない敵国の手で殺された。」拳を固く握りしめて俯き、眉間に深く皺を寄せて男は歌った。
小さく潜むようだった音楽が徐々に大きくなり、覚悟を決めたように顔を上げて前を見据える。
「これからは私が――…第二王子ナサニエルが、王太子だ。」
マントをばさりと翻して踵を返すと同時、舞台が明るくなった。
騎士服を着たカリスタの隣にはアーヴァインと、騎士隊長の服を着た金髪の美丈夫が立っている。三人はナサニエルが近付いてくると彼に向き直り、騎士の礼をとった。
出陣を命じるナサニエルの歌声で、騎士隊長が第三王子のパトリックだと語られる。
味方の士気を上げるため、パトリックとカリスタは戦の前線へ駆り出されるのだ。アーヴァインとの別れを惜しむ間もなく、カリスタは城を発つ事になった。互いを見つめ合った二人が言葉を交わす事はなく、ただ微笑んで頷き合うだけで離ればなれになる。
騎士や文官達が忙しなく動き回っていた。
ナサニエルは宰相補佐だった自分の後釜にアーヴァインを指名し、ざわめく部下達の前で「お前に目立った功績がないのはわざとだという事はわかっている」と言い放つ。
アーヴァインは兄王子達と継承争いになる事を避けるため、学園でも城でも人並みな事しかやらなかったのだ。凡才の王子だと思わせていた。
「謹んでお受け致します、兄上。」
深く頭を下げたアーヴァインは、いつもの従者を連れてすぐさまテキパキと指示を飛ばしていく。
薄暗い周囲からぽつぽつと騎士や使用人、陳情を訴える平民などが照らされ、次々と問題を告げていった。戦地に送る物資が足りない事、国民の抱える不安、敵国の動き、同盟国との会談…
急かすようなテンポの不穏な曲が流れる中、ナサニエルがふらりとよろめく。
唯一それに気付いたアーヴァインが駆け寄り従者と共に支えるが、ナサニエルは口元を手で押さえてゲホゴホと大きく咳き込んだ。
赤い血がびしゃりと散る。
アーヴァインは目を見開いて横にいる従者へ叫んだ。「医師を連れてきてくれ!急ぐんだ、早く!!」
舞台を照らしていた光がじわじわと、闇に浸食されるように消えていく。
「兄上、しっかりしてください、兄上!!」
気を失ったらしいナサニエルの身体はぐったりと弛緩していて、最後まで残ったバイオリンの音と共に光も失われた。




