346.化け物の役目 ◆
『かぴ~………、むぐ………ふ~むむ………』
木に寄り掛かって寝ていた男は、近付いてくる足音に気付いて目を開けた。
といっても、彼の目は術――ツイーディア王国で言う「魔法」で隠されており、他人から見る事はできない。光と闇を併用した目くらましのため、アロイスからは相手を見る事ができる。
おそるおそる近付いてきたのは一人の女子生徒だ。
長いスカートとローブが夜風に揺れ、少し息切れしながらすっぽりかぶったフードの端を両手で押さえている。お陰で男には彼女の目元から鼻先までしか見えないが、少し意識を集中すれば小さな頭の近くに文字が浮かびあがった。
その文字列が出る人間は一人しか知らない。
ぱちりと瞬いて、男は内心呆れ笑いした。
――随分と不用心で、意外とお転婆だな。公爵令嬢が護衛も無しとは。
とりあえず寝たフリを続けながら見ていると、少女は数メートル先で立ち止まった。そのか弱さで不審な男を相手にしているのだから近過ぎるが、本人は慎重に距離を取ったつもりなのだろう。
両手をそっと口元にかざし、ひょこひょこと覗き込むように男を眺めている。フードを押さえる手が離れた事で、怯えながらもどこか心配そうな顔が見えた。困ったようにきょろきょろと誰もいない周囲を見回してから、男に視線を戻す。
『あの、大丈夫ですか?』
さて、どうしたものかと男は考える。
見回りが来ない時間を知った上で、貧血でこれ以上無理に動くのもしんどいなと呑気に寝ていたが、まさか生徒がこんな時間にここへ来るとは。徒歩で来たという事は、彼女は側防塔の扉からわざわざ歩いてきたのだろう。しばらく寝たお陰で、貧血に関しては少しマシになったようだ。
『もし、そこの方。』
『ん……やぁ、これはどうも。』
たった今起きましたよ、という風を装って笑いかけ、男はゆっくりと立ち上がる。
それでも少し後ずさりした少女は、一応何かあれば走って逃げようというつもりはあるらしい。目の動きからして男が武器を持っていない事を確認し、僅かに肩の力を抜いている。
実際には暗器を身に付けているし、必要とあらば刀もすぐに出せるのだが。
男がつけている猫面に明らかな困惑を見せながら、シャロン・アーチャー公爵令嬢は眉を下げて聞いた。
『このような場所で寝ては…風邪をひかれます。どなたか存じませんが、どうしてここへ?』
『失礼、ついうたた寝を。私はアロイス。ご覧の通り謎の男だよ。』
『謎の……』
ますます困った様子のシャロンを見て男がくすりと笑うと、薄紫色の瞳はちらりと男の簪を見た。
すぐに猫面の目の部分へ視線を戻し、じっと観察するように見つめてくる。
『お嬢さんはどうしてここへ?』
『…手紙が飛ばされたので、外壁まで取りに上がったのです。そうしたら貴方が倒れていたので、お怪我をされた方だといけないと思って……』
『素晴らしい優しさだ。けれど誰か呼んできた方が安全だったろう。第二王子殿下に知られたら怒られるんじゃないかい?』
『!』
シャロンは僅かに目を見開いた。
胸元で両手を握り、半歩後ろへ踏み出された足は咄嗟に逃げようとしたのを思いとどまったようにも見える。
『……二十九歳の男性で、黒髪。』
『ん?』
『名はアロイス、魔力持ちで瞳に特徴がある――…騎士団の詰所に、そんな尋ね人の掲示があるそうです。』
『あはは、よくご存知だ。連絡されたし、と書かれたやつだね?連絡はしてあるとも。』
『依頼主のヒメユリさんがどのような立場のお方か、聞き及んでおります。』
特務大臣である父親から聞いたのだろう。
アロイスが「貴女は第二王子と近しい令嬢だ」と言ったため、シャロンもまた「貴方はヒメユリと名乗るお方が探している相手ですね」と言ってきた。
ヒメユリは偽名で、その正体は他国の姫だ。
ツイーディア王国の北に位置し、深い霧に覆われた山を越えた先にある神秘の国、君影国。
嘘か真か「死者に通じる」と言われ、武器は剣でなく刀を使うという。
『もう一度伺います。どうしてここにいらっしゃるのですか。』
シャロンが果たしてどこまで知っているのか、アロイスにはわからない。
ヒメユリを名乗った妹が誰を頼って掲示を出したのか、アロイスを兄と言ったのか、シャロンにも伝わっているのか。
君影国の長を務めた男の長男、アロイシウス・フェルディナント・バストルは緩く口角を上げた。
『夜の散歩だよ。私はここしばらくリラに住んでいてね、学園の高さだと島を見渡せるのが良い。』
『……失礼ですが、そのお姿で見咎められる事はないのですか。』
『今のところ無いな。何せ謎の男だからね、仮に見られてもそう簡単には捕まらないよ。あぁ、ヒメユリには居場所まで伝えてないんだ。私に会った事は黙っていてくれるかい?』
『連絡したというお言葉が真実であれば。確認すればすぐにわかる事です』
『ありがとう。』
シャロンが素直に頷いたのは、アロイスが犯罪者として探されているわけではないからだ。
張り紙が目撃情報を求めるものではなく、本人からの連絡を待つ形式だった事もある。アロイスは君影国の姫から一定の信頼を置かれた人物という事だ。
姫自身については、ギルバート国王陛下に謁見した結果張り紙を許されたとシャロンは父から聞いていた。
全幅の信頼は置けないが、武器を持っているわけでも学園に忍び込もうとしたわけでもなく、自分に危害を加える様子もないアロイスを、全力で警戒する必要もまたない。
『けれど……もし外部の関与が疑われるような事件などあれば、私は貴方を思い出さざるをえません。』
『無害な男なんだけどな。』
――今のところは。
アロイスは心の中でだけ付け足した。
明日か数年後かわからないが、いずれその時が来たら刀を抜かなければならない。被害を抑えるための下準備は始めてみたものの、完成まで一年近くはかかるだろう。第二王子アベルがそれまで耐えられる事を祈るしかない。
そして卒業まで耐えられたらむしろ、アロイスの手には負えなくなる。
どこでその時を迎えるか特定できなくなるからだ。学園と王城では警備のレベルも敷地の広大さも違い過ぎた。
普通ならとうに精神が壊れているだろう強大な魂に、アベルは自らの能力で抗っている。
けれど推察するに、彼は魂を視る事ができない。君影国ほどの情報も無いだろうから、自分の身に起きている事も理解できていないはずだ。
ゆえに無意識下で発動された半端な防御しかできない。仮に口頭で状況を伝えたところで、信じてもらえたところで、本人が視えなければ何の意味もない。むしろ、無意識にやっていたものが解けてしまうリスクすらある。
『では、もし君達が困る事があったら少し力になろうか。白い髪の子もお友達だろう?』
『……なぜそこまでご存知なのです。』
『街で見かけた事があるだけだよ。だから、また見かけた時に困っていたらお助けしよう。』
『えぇと…昼間もそのお姿ですか?』
『もちろんそうさ。私は謎の男だからね』
アロイスが堂々と宣言すれば、シャロンは困ったように苦笑した。
どうやら悪い人ではなさそうだと感じてくれたらしい。
カレンと呼ばれていた白髪の少女も、王立学園教師のホワイトも、アロイスの旧友であるヴェンも、血のように赤い瞳を持っている。
君影国には国内の記録ばかりなので実際の所は不明だが、同じ時代にこれほど《忌み子》が見つかるのも珍しい。
――ヴェンはともかく、あの二人が第二王子の近くにいるのは……そして去年、第二王子が私の店に来たのは……果たして偶然なのか、必然なのか。まったく運命とはわからないものだ。
アロイスに限って言えば、宿命かもしれない。
遥か昔、使命を課されて村を出たアンジェのように。
君影の敵を殺すのは化け物の役目だ。
『リラにいらしたのは、海があるからでしょうか?』
『そうだね、随分と開放的で気に入ってる。いつか一度でいいから、学園のてっぺんから島を見渡したいものだ。』
違う。
シャロンは君影国が海に接しないからそう考えたのだろうが、本当は第二王子の入学を知っていたからだ。
拾い物の行商人フェル・インスは変わり者ながら、明るい気質でよく働いた。商会のお嬢様ノーラ・コールリッジの信用も得て、大した反対意見もなく欠員の出たリラの店へやってきたのだ。
『てっぺんとなると、部外者の方は少し難しいですね。注意されてしまいます』
『ははは、正直に「そのお面じゃ無理です」と言ってくれて構わないよ。君はこれの事を聞かないんだね。』
『尋ね人の特徴欄にもございましたし、初対面で踏み込む事ではありませんから。』
『確かにそうだ。』
夜に出くわした不審な男に、シャロンは穏やかな微笑みを浮かべている。
アロイスは彼女からは見えない瞳でじっとその姿を眺めた。彼にしか見えない文字が浮かび上がる。
――この娘の価値が、悪い奴らに知られなければいいけどね。
シャロンは幸いにも、生まれが良い。
筆頭公爵家の長女であり次期王妃候補という、手厚く守られて当然の地位に生まれ育ってきた。本人が意外とお転婆で、こんな夜中に護衛も無しで不審者の心配なぞしてしまうけれど。
ノーラが言うには双子の王子ともその側近とも仲良くやっている。
第二王子にその時が来るまでは、平和に生きていられるはずだ。
巻き込む人間を減らすための準備を、アロイスは進めている。
準備が終わり、卒業までに学園の中で事が起きたのなら。すぐに駆け付ける事ができるだろう。
――殺すなら、この子の前じゃありませんように。なんて、化け物の願いでは届かないか。
『そろそろ戻って寝るといい、お嬢さん。私も家に帰るとするよ。』
『お住まいは聞かない方が良いですか?いざという時に連絡が取れたらと思うのですが。』
『うーん……では、もし用ができた時は喫茶《都忘れ》で、テオという店員に言付けを。濃い紫色の髪で、目元を隠した男だ。』
『……あの方ですね。はい、わかります。』
思い返すように視線を横へ流し、軽く握った拳を口元に寄せてシャロンが言う。
カレンと共に一度行ったきりだが、接客してくれた赤髪の女性の他に、カウンター内で作業していた男性の姿も覚えていた。
『私の名は出さず「小鳥便の七番をお願いしたい」と言えば、手紙を預かってくれるよ。』
『小鳥便の、七番。』
忘れないようにシャロンが繰り返す。
アロイスが決して自分の名もシャロンの名も書かないよう念を押すと、彼女は自分の偽名として「ルイス」という男性名を使うと言った。
小鳥便は港と街を行き来するユーリヤ商会のフェルに、密かな依頼をしたい時の合図だ。
依頼者と内容によって番号が変わり、その振り分けはフェル、つまりアロイスしか知らない。
『私には学園へ手紙を預けて頂ければ、寮まで届くようになっています。確認は基本的に夕方以降になりますが……、失礼しました。そのご様子では知っておられるようですが、私はシャロン・アーチャーと申します。』
『これはどうもご丁寧に。』
シャロンの一部の隙も無い淑女の礼に対し、アロイスは名乗りに驚く様子もなく気さくに頭を下げた。長い黒髪がさらさらと流れる。
姿勢を戻した二人は互いを見た。
顔の向きからして恐らくじっと見つめているだろうアロイスに、シャロンは首を傾げる。
『どうかなさいましたか?』
『……なに。最後に一つだけ、謎の男っぽい言葉でも残そうかと思ってね。』
『ふふっ。何ですか、それ。』
『シャロン。あまりお勧めはしないけれど』
月に雲がかかり、闇が広がり始めた。
黒髪に黒いマントを着たアロイスの姿が周囲に溶けていく。
『君が全てを懸けるなら、きっと願いは叶うだろう。』
雲が途切れて明るくなった時にはもう、彼の姿はどこにも無かった。




