343.ノーラ・コールリッジの絶望 ◆
痛かった。
牢の中でどんなに叩かれたって、殴られたって、蹴られたって、知らない事は喋れない。
あたしが入れられたのは平民が入る牢よりもっと下、救いようのない重罪人が入るんだろうなってくらい、ひどいところ。
暗くて硬くて冷たい檻。
処刑前に死ぬと困るからだろう、病気になるくらい汚いとか寒いって事はなかったけど。ごわごわのタオルを冷水に浸して、髪の毛の奥へ染み込ませるようにして頭を洗って、傷だらけの身体を少し拭いて。そうすると垢とか血や埃、土や砂でタオルの色が変わる。
長かった髪はとっくに短く切られていた。
刃物を持たせてもらえるわけがなく、牢番がナイフでざんばらに、痛がっても強引に。髪をザクザク切りながら、お酒臭い息がべらべら喋っていた。
王族がその手で罪人の髪を切った時は、「その首いつ落としても良いようにしておけ」って意味を持つんだって。
騎士がいるのに直接そんな事する人、まずいなさそうだけど。先代国王陛下も今の陛下も、自分でっていうイメージはあんまりないし。
あぁでも殿下なら場合によってはやりそうよねって、そう思ったら涙がぽろっと零れた。髪を切るのにわざとうなじもジリジリ切られたから、痛かったのもある。
涙を笑われるのが悔しくて顔を顰めながら、心の中で散々悪口を言ってやった。あんたは王族どころかクズ野郎で、どうせその騎士服だって盗んだんでしょって。……知らないけど。
だって、子供の頃憧れたこの国の立派な騎士達は、容疑者だからって女性をこんな風に扱う人だった?
女神祭のパレードで見るあの人達はいつだって気高くて凛々しくて、強そうで、格好良くて。
だから絶対に違う。
偽物の騎士を使ってあたし達を罪人にしようとする誰かがいる。でも一体どうやったら助かるのか、皆はあたし達がここにいる事を知ってるのか、わからない。
……捕まって、どれくらい日が経ったんだろう。
食事に出されるのは固いパンと、残飯をスープに浸したもの。
日によってはとんでもなくまずいとかひどい匂いの組み合わせだったりするけど、吐かないように口を押さえて泣きながら飲み込んだ。食べるものがあるだけマシ。
助けが来るまで、それか逃げる隙が見つかるまで、生きなくちゃ。
そう、心を強く持とうと……思ってた。
『やめて!やめてッ、お願いやめてぇええ!!』
どんなに手を伸ばしても届かない事があると、
自分がどれだけ無力な存在かを、
思い知るまでは。
『やれ。』
痛かった。
暴れたから、叫んだから、走り出そうとしたから、助けようとしたから、
何も知らないくせに罵声を浴びせて石を投げる人達が、
嘘ばっかりであたし達を見下す人達が、許せなくて。
『駄目、誰か止めて!!お父さ――』
ドンッと音がした。
大きな刃が落ちて、何か丸いものが赤を散らしながら宙を飛ぶ。
その時あたしは狂ってたのかもしれない。
叫んだような気もするし、激しく殴られたような気もする。
記憶が飛んで、目を開けたら同じ場所で血と土にまみれて押さえつけられていた。
「次」の登場に処刑場がまた騒がしくなる。
『うぇええん!ノーラ、ノーラぁあ!』
『ノーラとポールを離せ!このっ……い゛ッ!』
『やめで!お兄ちゃんを叩かないでぇ!!』
こんな事なら、フェルが旅に出た時ついて行かせるんだった。
そしたらせめてあの子達は、巻き込まずに…
『パット…ポール……っ!』
血の味がして、重くのしかかられた身体はミシミシいって、
すっかりボロボロにされたあの子達に、泣いてるあの子達に、
あたしは手を伸ばしてやる事もできない。
声すら届かない。
ドンッ、と嫌な音がして、ポールの絶叫が響いた。
悪い夢なら覚めればいいのに。
今すぐ身体が軽くなって、風みたいに速く走って、助けられたらいいのに。
ドンッ、と無慈悲な音がして、見物人が狂喜する。
……あの優しい陛下が守る価値のある民なんか、この国にはもう殆どいないのかもしれない。
子供の死を喜んだら、人として終わりだと思わないの?
そんなに赤い血が好きなの?
あたしは理解できない。
血と涙が土に染みて、泥になって、ぐちゃぐちゃに汚れていく。
ようやくあたしの番が来た。
引きずられるように歩きながら、遅いと棒で背中を突かれながら、投げられた石が当たってよろめきながら、処刑台に立つ。
物騒な歓声がワッと上がった。
処刑の執行を命令する人は、離れた場所であたしを見下ろしている。
もちろん愛想笑いなんてできない。あたしの唇はガサガサにひび割れて、何度も殴られたせいで口の中だって傷がある。
その人――マグレガー侯爵が、一体どんな表情をしてるのかはわからない。
冤罪だってわかってるくせに。
あたしは穏やかに受け入れる事も、強かに同情を買ってみせる事もできない。
「何で」って爆発しそうなこの気持ちは憎しみなのかな。
怒鳴っても暴れても無駄だって事は、それこそ痛いほどにわかってた。
でも…あたしはどこまでいっても無力で、無力で、あまりに無力で!
皆が死んでいくのに何も、何一つできなかった!!
涙が滲んでくる。
みっともなくボロボロ零れて、たぶん鼻水だって血と一緒に流れてて、けど、睨みつけた。
『国王陛下は――ウィルフレッド陛下は、この事を知ってるんですか!!』
罪人が何を言い出すんだと、尊い名を呼ぶ不敬を罰しろと声が飛ぶ。
棒で叩かれながらあたしは騎士に向かっても叫んだ。
『あんた達なんかっあんた達なんか本部で見た事ない!!こんな事するなんてツイーディアの騎士じゃないッ!!誰なのよ、罪人はそっちでしょ!!』
左右に控えていたうちの一人が床を踏み鳴らして近付いたと思ったら、鳩尾のあたりを蹴られて後ろへ跳ね飛ぶ。あまりの痛みに一瞬息が詰まった。こっちに来る足音に心臓が怯えて、震える拳を固く握りしめて喚く。
『パットとポールを返して!お父さんを返して!!全部全部ッ、返してよぉ!!』
髪を鷲掴みにされて悲鳴が漏れた。
頭からブチブチ音がする。そのまま引きずられてギロチン台へかけられた。ぐしゃぐしゃに泣きながら、もうお終いだから、最期の反抗だと思ってあたしは大きく息を吸い込む。
『空に輝く全てに誓って!あたし達はなんにも悪い事なんかしていないッ!!』
見物人から一斉に怒号が上がった。
バラバラと投げられた物があたしにぶつかって、ぶつかって、血が流れる。
『罪人が何を言うか!王家への冒涜だ!』
『殺してしまえ!』
『首を切れ!』
『さっさと死ね!』
『早く殺せ!』
全部、夢ならよかったのに。
涙で滲んだ目じゃ、瞼を開けてたってなんにも見えない。
『うっ、うぅううう…!』
最後の勇気は使い切って、口から情けない声が漏れた。
目が覚めて、学園の寮だったらいいのに。
遅刻ギリギリでも、先生に怒られる寸前でもいいから……一年生の、あの頃に。
――ノーラ。
その声を、まだ覚えてるのに。
貴方はずっと、あたし達の前にいてくれると思ってたのに。
『っ、うわぁあああん!嫌だ、嫌だよぉ!!何で…』
どうして、ここにいてくれないの。
どうして、もういないの。
どうして――…
『助けて、死にたくないよ……ッ殿下ぁああああああ!!!』
ドンッ、と音がして、首に衝撃が響いた。
あたし、死んだんだ。
思ったより痛くなくてよかった。まだ泣いてる感覚がある。
泣いたまま死んだの、あたし。
二度と開かない事に気付きたくなくって、目を開けようとする事もできない。
走馬灯の時間は意外と長いってやつなのかもしれなかった。
『――、――くれ!』
首と手首にあった圧迫感が取れて、げほっとえづく。
お空に来たんだろうか。ほら浮遊感がある。がくがく揺れて飛び心地はよくないけど。
『――!――っかりしろ!』
目を開けたらお父さん達や、不機嫌そうな殿下がいたり…するのかもしれな
『ノーラ!!』
『わあっ!』
すぐ近くで叫ばれてびっくりした。
反射的に目を開けて飛びこんできたのは、真っ黒な瞳。
安心したように眼差しをちょっと和らげたその人は、
『シミオン君!?』
『あぁ、生きてるか?生きてるな!?』
『ど、どうなって』
シミオン君があたしを抱きかかえて走ってる、それだけはわかった。
しっかり捕まるよう言われて、痛む腕をなんとか首の後ろへ回してしがみつく。足音は通路に反響して、処刑場から悲鳴や怒号が、自称騎士達が追ってくる。危ない、と叫ぶ前にシミオン君は片腕で剣を振り、飛んできた矢を切り落とした。魔法で炎の壁を作り出し、追手の足止めをしてひた走る。
『――…間に合わなくて、すまなかった。』
静かな一言に、止まったはずの涙がぽろりと落ちた。
シミオン君の騎士服をぎゅっと掴んで俯く。お父さんは、パットとポールは、殺されちゃった。そう考えると同時に「そっか、あたし生きてるんだ」って浮かんだ自分が、生き汚い嫌な奴に思える。
『…ううん。来てくれてありがとう……。』
『……ひどい怪我だ。この先の馬車に姉上がいる、お前は先に行って治癒を受けてくれ。』
『先、って…シミオン君は?』
『このままではすぐ追われる。大丈夫だ、追手を撒いて俺一人で必ず追いつく。絶対だ』
そっと下ろされて、あたしは精一杯力強く頷いた。
シミオン君を信じよう。
『さぁ、行け!』
『うん!』
裸足で一生懸命走って、外へ出たら馬車もクローディア様もすぐ見つけられた。
迷惑かけてごめんなさいって謝りながら、駆け寄って――…
なにがだめだったんだろう。
『ノーラ』
『クローディア、さま……?』
ゆらりと顔を上げたクローディア様は何でか、目の焦点が合わないようにきょろきょろしてて。よろめくっていうより、ぎこちない人形みたいな動きで、足を一歩こちらへ踏み出した。
自分で進もうとするような、止まろうとするような。
綺麗な人だからこそ、余計に……おかしく見えた。
『…げ、なさい。ノーラ』
『く、クローディア様…どうし、』
『わたく、から…お前はいつもァア離れて、いいいつもいつもいつも、キヒッ、ヒ…わた、くしの……』
『なっなんか変ですよ。何で…どうしちゃったの』
『わタクしの殿下に気安くてぇえ!!』
何が起きたかわからない。
クローディア様が、あのクローディア様が、短剣を振り上げて襲い掛かってきた。
あたし、結局死ぬの?
どうしちゃったの、クローディア様。
なんで?
『あ…ッ、が………』
胸から血に濡れた長い刃を突き出して、クローディア様はごぷりと血を吐いた。
その身体がビクンと揺れて、短剣が音を立てて転がって。
怖い。
わからない。
恐い。
どうして?
目の前が滲んで瞬きしたら、クローディア様は倒れて、長い髪が地面に広がった。
死んじゃった。
わかりたくないのに頭が理解する。
尻もちをついて後ずさりして、そんなあたしを長い黒髪の男が見下ろしていた。顔の上半分に猫っぽいお面をつけて、目の部分が見えない。あれはきっと闇の魔法。
明らかに普通の人じゃない。
『だ、誰……誰なの、』
クローディア様がおかしくなっちゃって、あたしを刺そうとして、そのクローディア様が殺されて、あたしは、あたしはもう、
『わかんないわよ………何でこうなるの?もう嫌だ……』
足が馬鹿になってて、立てそうになかった。
せっかくシミオン君が逃がしてくれたのに、クローディア様はどうして、なんで、
男はあたしの前に膝をついた。
『お嬢様』
柔らかい声は聞き覚えがある。
懐かしくて、ほっとして、でもぐちゃぐちゃの頭ではもう、それが誰の声だったかもわからなくて。疲れて、痛くて――…あたしは意識を手放していた。
『何をしている!!』
その剣で一体何人黙らせてきたのか、大量の返り血を浴びたシミオンが吼える。
ぴくりとも動かない姉の前に、ノーラを抱えた不審な男が立っていた。姉がその男からノーラを守ろうとして、けれど敵わなかったのだろう事は一目瞭然だ。
姉を殺された憎しみが、大事な人を奪われた怒りが溢れ、何より油断した自分が許せない。
『何者だ、彼女を離せ!!』
『シミオン・ホーキンズ……助けてくれたのは君か。』
男は落ち着いている。
穏やかな声で語りかけ、暗闇の奥から憂いの目でシミオンを見つめていた。
『この子は私が預かるよ。ツイーディアが安全になるまでは』
『姉上を殺したのはお前だろう。そんな男に誰が渡すものか!』
『それでも連れていく。霧の向こうに』
男の姿が忽然と消える。
シミオンは目を瞠って駆け出し、二人がいた場所で周囲を見回した。
『ふざけるな、出て来い!くそっ……ノーラ!!』




