341.あくまで皆にお裾分け
土曜の昼下がり。
訓練場の片隅にある木陰のベンチには、第二王子アベルの姿があった。
上質で飾りのないシンプルなシャツにズボン、良く磨かれた革靴は光沢がある。
既にいくらか屍――否、手合わせの敗北者――を積んだ後で、眉根を寄せて何やら考え込んでいる。
襟元を緩めた姿は見る者が思わず唾を飲むような色気があるものの、そもそもが週末とあって生徒が少なかったため、女子生徒が失神するような事もなかった。
剣術や体術の自主鍛錬をする生徒達は、あえて不機嫌そうな第二王子の傍でやる事もなく遠く離れた場所にいる。
少し癖のある黒の短髪を風が撫でた。
長い睫毛に縁どられた切れ長の目を瞬き、金色の瞳が白い雲を浮かべた青空を見やる。荒れたところのない滑らかな肌、彫像のように整った美貌はただそこにいるだけで一枚の絵画のようだ。
『あの、ちょっとサシで話いいですか。』
昨日、レオにしては珍しい声の掛け方をされ、アベルは不思議に思いながらも放課後に時間をとった。
空き教室で聞いた話は、まさに予想外も予想外で。
――エリ姫が探していた《アロイス》を見つけたのが、レオ達とは。
おまけにロズリーヌ王女が現れ、知り合いだから警戒は不要と主張して二人を帰らせたらしい。一体なぜロズリーヌがアロイスを知っているのか。
彼女の従者としては適任なのだろうが、護衛としてはラウル・デカルトは失格だ。不審者に相対する王族を守る役には相応しくない。
それだけヘデラの王女が考え無しなのか、あるいはそこまでアロイスを知っているのか。
アロイスがいたのはロズリーヌに会うためか、他の目的か。
――なぜ倒れていた?どうしてリラにいる?俺の事は既に知っているのか?
エリの能力を考えれば、彼女の兄がアベルに目を留めても何らおかしくはない。
ただ手近なところから問い質すには、ロズリーヌの《王女》という肩書きが邪魔だった。かつて見た攻撃性は今は鳴りを潜めているが、それでもレオが彼女の意向に背いたと知らせる事は憚られる。
アベルは念のためにリビーのスキルを使った上で外壁周りを探ったが、特に異常は見つからなかった。調査は時間をかけたので最後にリビーを労ったところ、卒倒。彼女は譫言で謝りながら、王都と比べて会う回数が減っており耐性がどうのと言っていた。
神殿都市にいるロイへ手紙は出しておいたが、報せがエリに届くのはいつになる事か。
ふと、視線を感じてそちらを見やる。
校舎側から来たらしいカレンがびくりと肩を揺らした。
白い髪に花のヘアピンを差し込み、薄手の長袖シャツにオーバーオールを着て、肩掛け鞄のベルトをぎゅっと握っている。
ボロくはないが、衣服も鞄も年季が感じられた。
「ゎ、あの、こんにちは!」
「…こんにちは。」
ぺこっと頭を下げられ、アベルは真顔のまま返した。
恐らく街に出かけるところだろうカレンに声を掛けられた理由がさっぱりわからない。
「っ……う…えっと」
「誰か探してるのかな。」
赤い瞳が訓練場をきょろきょろ見るのでそう聞けば、カレンは焦ったように首を横に振った。
「ちちち違うよ!」
「じゃあ何。君、どこか出かける所じゃないの?」
「え?ううん……」
アベルは少しだけ眉根を寄せて瞬く。なんだというのだ。怪訝な目をして眺めると、カレンは何か思い出したように鞄の中を探った。
「そ、そうだ。あのこれ、お口に合えばだけど…」
差し出されたのは片手で持てる大きさの紙包みだ。
受け取った時に漂った香りからして中身はクッキーだろう。明らかに売り物ではないので、カレンが作ったと容易に推測できる。
「これは君が?」
「うん、寮の調理室を借りて作ったんです。せっかく会えたからお裾分け」
包みを開くとほんのりと甘い香りが広がった。
小粒のドライフルーツを混ぜたクッキーが何枚か入っていて、丸くはあるけれど、ところどころ歪んでいる辺りがいかにも手作りですといった仕上がりだ。
アベルは何の変哲もないクッキーをじっと見下ろした。
正直、特に腹は減っていない。
『か、カレンが作ったのに、食べないの……?』
「アベル様?」
「……何でもない。少し幻聴が聞こえた」
「えっ、大丈夫?」
素直に心配するカレンに「あぁ」と返し、アベルは聞いた記憶の無い言葉を頭から追いやる。涙ぐんだ瞳とショックを受けた表情まで一瞬で想像できてしまい、なんとも苦い心地だった。
あるいは彼女は怒るのかもしれないと思いながら、開いた包みをカレンに差し出す。
「一つは君が食べてくれる?正直に言うと毒見。」
「あ…そっか。ごめんね、何も考えずに勧めちゃいました」
私はもう食べたから、と遠慮しかけたカレンがハッとして謝った。
シャロンよりほんの一回り小さな手がクッキーをつまみ、ばくんと食べて一生懸命に咀嚼する。アベルは瞬いた。何も大口を開けて一気に食べてみせろとは言ってない。
紙包みを利用して上手く掴み、自分も一口に放り込んだ。
「ど、どうかなっ?」
期待と緊張が入り混じった声でカレンが聞いてきたが、ふた噛みで飲み込んで喋れるような物ではない。
素朴な味わいのクッキーをサクサク噛みながら視線を流すと、カレンはピャッと姿勢を正した。誰も今から怒るとは言ってないのに。
「――…、悪くはない。」
「ほんと!?よ…良かった、ありがとう!」
「心配しなくても、君がくれるなら何でも嬉しいんじゃない。」
シャロンにでもやるのだろうと考えてアベルが言うと、誰に渡すかお見通しなのだと思ったカレンは頬を染めた。風で乱れた髪を直しながら、「そ、そうかな」と呟いている。
ただでさえ運動後だ。さすがに水分が欲しいとぼんやり思いながら、アベルは別の視線を感じてそちらを見た。
「「「………。」」」
やべぇとこ見た、という顔をしたダンがサッと横へ目を向け、その先にいるシャロンは驚いたようにぱっちりと目を見開いている。
視線がかち合うと彼女はなぜかこちらを制止するように素早く片方の手のひらを出し、頷きながら反対の手の人差し指を唇にあてた。恐らく「大丈夫、黙って立ち去るわ」と言っている。何が大丈夫なのか。アベルは僅かに首を傾げた。
二人が踵を返すより先に、カレンがアベルの視線を辿る。
「シャロン……?あ、違っぁああの、二人とも!その、ちょうどよかった!」
何かに気付き小さく跳び上がったカレンが駆け出した。
それとなく立ち去ろうとするシャロンと苦い顔のダンを懸命に引き留めているらしい。運動着を纏った二人が、この訓練場で組み手でもしにきたのだろう事は明白だ。
アベルはクッキーを手早く包み直して立ち上がり、さっさと三人の横を通り過ぎる。
「これありがとう。じゃあね」
「えっ!?う、うん!」
「――ごめんなさいカレン、私ったら来るタイミングが…」
「し、シャロンとダンさんの分もあるよ!皆に!わた、私皆にお裾分けを…」
そんな声に背を向けているアベルは、シャロンが「まずい事をした」と言わんばかりに青ざめている事も、カレンが「とんでもない勘違いをされてる」と真っ赤になっている事も、ダンが「お嬢にも何か言ってけよ」とばかり顔を歪めた事も、
まして二人が来る直前のやり取りが、風のせいで途中――「心配しなくても、君がくれるなら何でも嬉しい」――までしかシャロン達に聞こえていない事など、知るはずもなかった。
「アベル様」
サロンに入ると、ウィルフレッドと並んで真剣な目をしていたチェスターが笑顔で手を振る。
六人席の円卓に資料を並べて話し合っていたらしい。チェスターは立ち上がり、アベルの分の紅茶を用意し始めた。
「今ちょうど、サディアスが席を外したからね。《先読み》検証の報告を読んでいたよ」
手にしていた書類を伏せ、ウィルフレッドがテーブルの上で手を組む。
アベルは既に目を通した――そして、《先読み》持ちであるクローディア・ホーキンズ伯爵令嬢本人から、直接聞いている話だ。
来年の二月、サディアス・ニクソンに何が起きるのか。
しばらく難航していたがクローディアはようやく、その光景を一部覗き見る事に成功した。
目を見開き、明らかに尋常でない様子で顔を歪めるサディアスの姿。
苦悶か驚愕か、恐怖とも読める表情だった。
奥には目立つ白髪の女子生徒、カレン・フルードが動揺した様子でサディアスと、彼に対峙する誰かを交互に見ている。そちらは残念ながら、この《先読み》においては視野の範囲外だった。
誰かの指先だけが見える。
サディアスとの間は何メートルかは離れていて、到底届かない距離だ。その誰かは触れたり掴もうとしたわけではなく、声をかけた際の仕草と思われる。
しかしサディアスは恐慌状態に陥ったかのように叫び、空中を薙ぐように強く片手で振り払った。
幾つかの出来事がほぼ同時に起こる。
手を伸ばしていた誰かの指先が引っ込み――ウィルフレッドが、強く突き飛ばされたのか奥へ倒れ込んだ。受け身を取って転がり、素早く顔を上げる。
急に明るくなった範囲外からは炎の末端と舞い散る火の粉が見えた。その辺りに火の魔法が発生し、何かにぶつかったのだろう事が察せられる。
サディアスは頭を打たれたようにガクンと身体を揺らし、気絶したのかそのまま倒れた。
ウィルフレッドが愕然と目を見開く。
ゆらゆらと辺りを照らした炎の明かりは、まるで本をパタリと閉じたように一瞬で消え去った。水しぶきが、床を広がる水が見える。誰かが魔法で消したのだ。
カレンは口元を押さえて座り込んでいる。何かを凝視して。
ウィルフレッドは誰かを呼んだのか口を開きながら駆け出し、範囲外へ消えた。
「二人以上の《先読み》持ちが見た未来――…これで事件が起きるという信憑性はかなり高くなったが……この結果、サディアスに伝えて平気だと思うか?」
ウィルフレッドが席についたアベルを見やって聞く。
紅茶をカップに注ぎながらチェスターもちらりと視線を寄越した。
もう一つの《先読み》――ではなく、シャロンが見た不思議な予知夢だとチェスターだけは知っている――によれば、炎を受けるのはアベルだ。
あまつさえ命を落とすだろうという事は、サディアスには伏せられている。ただでさえ「また魔力暴走を起こす」という不安に駆られているのだ。そこまで聞いたら彼の精神負担がどれほど重くなるかわからない。
「被害者が見えなかったのは都合が良い。話して問題ないんじゃないの?」
「そうだろうか。冷静に考えて……咄嗟に俺を突き飛ばして逃がすなんて芸当、お前にしかできないのではないかな。リスクがあると思う。」
「ていうか、……検証した《先読み》さんがモロに見てたら、どうする気だったんです?」
湯気の立つ紅茶をアベルの前に置きながら、チェスターは少しだけ眉根を寄せて聞いた。
アベルが殺されるところなど見たら、サディアス以前にクローディアが強いショックを受けただろう事は想像に難くない。
シュガーポットに手を伸ばすアベルの横で、ウィルフレッドがチェスターを見て首を傾げた。
「何かまずいのか?もろに…はっきりと見えた方が、対処を考える身としてはありがたい。この《先読み》持ちはこれまでも騎士団に協力してきた、優秀な方だと聞いているけれど。」
「問題ないよ、ウィル。口が堅いし胆力もある。……それでも事が事だから、見張りもちゃんと手配したしね。」
「んん……」
微妙な笑みを浮かべるチェスターを放置し、アベルは「ウィルの言う事ももっともだから、被害者は有無を含めて不明として話そうか」とまとめた。
実際燃えたのはそこにあった机か何かかもしれないし、ウィルフレッドは自分を逃がしてくれた誰かに、ただ咄嗟に駆け寄っただけかもしれないのだ。
未来すべてはわからない。




