336.気付いてから失うまで ◆
嫌な予感がしていた。
『サディアス、大丈夫?やっぱり宿を取った方が…』
『いえ、問題ありません。急ぎましょう』
『……わかった。』
カレンはまだ何か言いたそうだったが、私の意思を汲んで頷いてくれる。心身に疲労を残しているのは確かでも、私達は戻らねばならない。
王都へ――…アベル様のもとへ。
『閣下、森を抜ける案内はこの男が。』
騎士が連れてきた男は平民で、私が宰相のニクソン公爵と知って怯えているようだ。
使い物にならなくなっては困るので、作り笑いを浮かべて応対する。少しだけ緊張と警戒を解いた男から情報を引き出した。魔獣の討伐経験、使える魔法、護身の腕。普段森に入るのは採集のためらしく、戦闘能力は皆無のようだ。男の守りもこちらで引き受けるしかない。
地図を広げて打ち合わせながら、同時に別の事を考える。
アベル様の体調は悪化の一途を辿っていた。
近くでお仕えする中でもごく一部しか知らない事だ。
帝国の暴虐皇帝ジークハルトに並ぶ二強とされる我が主が、あの方が耐えられず苦悶の声を漏らし、背を曲げるほどの頭痛。視界が明滅し頭蓋骨を割られるような痛みなのだという。さらに全身が痺れる発作が起きると、短時間だが動けなくなる。
聞けば学生時代に始まったという頭痛は年々ひどくなっており、今年になってから発作が起きるようになったそうだ。
無駄だと言い切る主君をどうにか説得し、城を出ていたナイトリー医師を秘密裏に呼び戻して診察してもらったが……原因不明だった。
だから言っただろうと吐き捨てたアベル様に、私は返す言葉も無い。
頼みの綱はシャロンが作る痛み止めだが、それも頭痛にしか効果がなかった。
当たり前だ、彼女は頭痛がひどいとしか伝えられていないのだから。しかしスキルの恩恵を受けた薬は、どんな痛み止めより早く確実に効く。心からアベル様の身を案じてくれている事が効果にも影響しているのだろう。
シャロンは城勤めの上級医師であり、スキルが無くとも優秀な薬師。何よりもアベル様が信用できる相手だ。
なのに診察にはナイトリー先生を呼ぶしかなかった。
彼女に事情を明かす事を、我が主は頑なに拒んだのだ。
『カレン、無理な行程にはなりますが…』
『私は大丈夫!……働き過ぎの陛下のもとに戻ってから、私達も休みましょう。閣下』
『……ありがとうございます。』
柔らかな笑みにつられて自然に微笑みを返し、部下の手前その頭を軽く撫でるだけに留めた。
カレンは学園にいた頃から、シャロンと共に精一杯私達を助けてくれている。
必死で勉強して城に採用され、出自の差別による理不尽な扱いは私が片付けたとはいえ、本当によくここまで上り詰めてくれた。
並大抵ではなかったろう努力を「貴方の傍にいたいから」で済ませるのだから、カレンにはまったく驚かされる。初めて言われた時は聞き違いだと思い込んだ。
私にそこまでの価値はないだろうに。
いつの間にか訪れていたシャロンの診察室でそう零せば、涼しい顔でカルテに「恋煩い」などと書かれたのも今では良い思い出だ。
『落馬だけはダメですからね、少しでも具合が悪くなったらすぐ教えてください!』
昔は私がカレンに言っていた事を言われ、頷いてそれぞれ馬に乗る。
全員揃っている事を今一度確認し、私達は王都へ向けて夜の森を出発した。
嫌な予感がする。
今回果たした任務はかなり大掛かりだった。
しかし……この先は?
私が城を空けるために様々な引継ぎも行ったが、そこに何も問題はなかったはずだが、何かが引っ掛かる。言い知れぬ不安がこの心臓を掴んでいた。
アベル様はご無事だろうか。――そんな事は当然だ。
私達が戻ったら、報告を終えたら、何とおっしゃるだろうか。――わからない。
国民は皇帝陛下への不満を募らせている。
当たり前だ。
そうなるよう噂を操っているのは私なのだから。かつて第二王子だった彼を民殺しと呼ばせたように、恐れさせたように。
アベル様は長く持ちそうにない自分に不満を集め、いずれ降りる事で後継に託すつもりなのだ。
私は宰相として残らざるを得ないだろうが、もし許されるならアベル様と共に行きたい。
彼が皇帝ではなくなっても、シャロンなら必ず薬を作り続けてくれる。彼女が通うにしろ、誰かが運ぶにしろ、口の堅い使用人や護衛以外にも信用できる世話役が必要だ。
私自身が傍で仕える事ができなかったとしても、落ち着ける環境を手配しよう。次代の王もアベル様の言葉を聞きたい時があるはずだ、私はその繋ぎになれる。
ウィルフレッド様をチェスターに殺されてしまったせいで、アベル様はここまで苦しんできた。耐えてきた。立派に務めを果たされてきた。
退位された後は、できるだけ心穏やかに過ごしてほしい。
それを――…そんな未来を思い描いて、良いのですよね?アベル様。
他の道などないはずなのに、私は一体何がここまで不安なのか。
嫌な予感がする。
どうしても治せないならそれが正解だと、そう信じて、私はここまで……
『魔獣が出たぞーっ!!』
はっとして意識を引き戻す。
既に戦闘は始まっていた。視界を確保するために騎士が光の魔法を使い、邪魔な木々を風の魔法で切り倒す。
油を塗り込んだような汚らしい光沢のある黒い獣達。それらが数十頭はいるらしい事を確認し、思わず舌打ちした。
よりによって群れに出くわすとは。
『宣言っ!風よ魔獣を切り裂いて!』
『風、獣どもを切り裂け!』
森の中で火の魔法を使えば自分の首を絞める。私はカレンと共に風の刃で魔獣を攻撃した。
厄介なのは体表のどこかに埋め込まれた魔石を砕かない限り、奴らは幾度となく再生するという事だ。普段は分断した身体のうち、魔石を有する方が先にビクリと痙攣するのが見極めになる。
しかしこれだけの数がいるとさすがに、観察より先に他の個体が飛び掛かってきた。突っ切る事ができない以上、怯えた馬に乗り続けるのは危険だ。降りて剣も交えながら戦う。
先の戦いでカレンは敵を弱体化するスキルに目覚めたが、あれは対個人用だ。集団に効かせる事はできないとわかっている。地道に数を減らすしかない。
『伏せろ!』
『きゃあっ!』
カレンの腕を引いて魔獣が放った炎を避け、代わりに剣を突き立てる。
大きさがある分、魔獣を直接切るには力が必要だった。疲労が重なってしまう。それにギトギトした黒い毛並みは刃の切れ味をどんどん鈍らせていくのだ。主力は風の刃と決まっている。
『ぎゃああああ!』
『ひっ…』
誰かがやられた絶叫にカレンが息を呑む。
剣を扱えない彼女は接近されたら終わりだった。私は声をかけるより先にカレンを背中に庇う。騎士達も耐えてくれているが、なにせ数が多い。
『くそ…』
『閣下、これはもう荷を捨てて空へ――うわっ、何をする!』
『お、俺を見捨てる気か!?こっここまで案内してきたのに…』
『誰があんたも捨てると言った、離せ魔獣が――ッあああああ!!』
『火槍!』
案内人に組み付かれている騎士へ向けて指を鳴らす。
彼へ飛び掛かろうとしていた魔獣が火槍に貫かれ燃え始めた。慌てて飛びのいた騎士にその消火は任せるとして、振り向きざまに牙を剥いた魔獣の口内へ剣を突き込む。
『風、切り裂け!』
光が反射した魔獣の左肩を狙えば、パキンと音を立てて魔石が割れた。
カレンも恐怖から立ち直り戦っているものの、魔獣はまだ二十頭はいるだろうか。こちらは怪我人も出て馬は逃げ出し、案内人は混乱していた。
風の魔法でどこまで全員揃って飛べるか不明だが、行くしか――
『あぁッ!うっ……』
草陰から飛び出した魔獣が、カレンの身体に横から食らいついた。
反射的に、私が声を出す前にその魔獣を火槍が貫く。カレンが燃える前に水の魔法を追加したのは私のはずだが、駆け寄るのに必死で自分の声など聞こえていなかった。
『カレン!!』
倒れかけた身体を支えたが、一目見て助からないと悟る。
魔獣の牙は彼女の胸を深々と突き刺していたのだ。衣服は真っ赤に染まっている。ゴボリと赤い血を吐いたカレンは、涙を流しながら私を見上げた。
小さな唇が「ごめんなさい」と動いて、赤い瞳から光が消える。
『――……。』
『閣下!早くご決断を!!』
危ないと気付いてから失うまで、あまりにも僅かな時間だった。
早く王都へ行かなければ。
人を殺した事があるくせに、人はこんなにも呆気なく死ぬという事を忘れていた。
アベル様のもとに帰らなくては。
誰よりも私が、もっと気に掛けるべきだった。
空を飛んで、あの方のもとへ。
カレンを守らなければいけなかったのに。
私の全ては、ただ一人の…
『閣下!!』
緩慢な動作で顔を上げた私の前に、牙が迫っていた。
◇ ◇ ◇
「これは中々の代物だな。」
広い執務室で、美貌の国王ギルバート・イーノック・レヴァインが呟いた。
少し癖のある金色の長髪は左側だけ耳にかけ、同じ色の瞳が見下ろすのは机に広げた一冊のノート。王立学園の購買で売られている安物だ。
そのまっさらなノートを執務机の前から覗き込む銀髪銀目の美丈夫は、特務大臣エリオット・アーチャーその人である。
「……本当に文字が書いてあるのか?」
「びっしりとな。よくこれだけの内容を覚えていたものだ」
疑惑の眼差しにそう返し、ギルバートはぱたりとノートを閉じる。
「眠い」の一言で始まったにしては刺激的な内容だった。
完璧と賞賛されるギルバートの笑みは殆どの者に一切の考えを読ませないが、幼い頃から一緒にいるエリオットは例外だ。相当にまずい事が書かれていたらしいと眉間の皺を深める。
「ジョーカーの未公開記録となると……人的被害も出ているのか?」
「だいぶ昔の話らしいが、かなり。ロベリアの王家は代々これを隠していたわけだ。」
「そんな記録、ルークはどうやって知ったんだ。」
「間違いなく留学の時だろう。あいつが戻った時の酒盛りを覚えていないか?」
「ああ…無事帰ったかと思えば、………。」
エリオットは目を見開いて固まった。
続けようとした言葉は、「王子を殴ったと聞いて焦ったよな」だ。
当時十七歳の留学生ルーク・マリガンは、非常に優秀だったがために歳の近い王子達に目をつけられ、ことごとく返り討ちにした。
王族だろうと容赦なく殴り、蹴り、邪魔だと投げ飛ばし、王子お手製の攻撃用絡繰りをぶち壊し、泣き喚きながら駆け戻ってきた本人を魔法で池に突っ込ませたらしい。
酒盛りに参加していた軍務大臣などは、真顔のまま笑い転げて咳き込んでいた。
そんな始まりだったにも関わらず、三年の留学期間でロベリア王国は一度もツイーディア王国に苦情を寄越さなかった。なぜかと言えば、王子達の傲慢さが目について周囲が困っていた頃で、ちょうどよく鼻っ柱を折ったのがルークだという。
異例の早さで薬学博士の認定を受け、大量の稀覯本を引っ提げて帰国した彼は王立学園の教師になった。
本人いわく王子達とは「途中からは普通だった」らしいが、相手は恐怖を感じていたのではないか。
懸念から神妙な顔つきになるエリオットに、ギルバートは軽い口調で言う。
「無論、脅してはいないだろう。」
「では王家の誰かが許可して教えたと?」
「あるいは勝手に記録を見てバレずに戻ったか、だな。少なくともロベリア王は知らないはずだ。でなければ大人しく帰すわけがない。」
長い睫毛を重ね合わせ、ギルバートは思案する。
ロベリアは薬学と絡繰りの国。知識こそ人類が持つ至高の宝。ルークの頭脳を惜しんで殺しはしないだろうが、もっと強引な手段で引き留めそうなものだ。
第二王女の釣書と直筆の手紙は未だ熱心に送られているようだが、マリガン公爵家やツイーディア王国に圧力をかけるようなものではない。
「ともかく、あいつがここまで動くのも珍しい。パーキンズ女史の事もだ。不穏なのは間違いないが……それで?エリオット。」
「何だ。」
「シャロン嬢から面白い提案があるのだろう。奥方から聞いているぞ」
優雅に微笑んだギルバートに、エリオットは苦虫を嚙み潰したような顔で眉根を寄せた。




