331.夕暮れの街を行く
弦楽器を主軸とした軽快な曲がゆっくりと穏やかに変調していき、朝日が沁みこむようにじわりと明るくなった舞台で、村人達が旅装を整えたエルヴィス一行に頭を下げている。
盗賊の襲撃で命を落とした村人もいるが、全滅も支配も逃れる事ができた。ハーヴィーが回収した袋も村に置かれており、再建や治療に使われると示している。
ふと、村の大人達がそれぞれに顔を上げて辺りを見回した。
太陽の女神がわけを聞くと、彼らは涙を拭って語り出す。普段この時間に村を回って挨拶していた少年こそが、盗賊達に真っ先に気付いて報せてくれた事、そのお陰で村人達は方針を固めたり僅かな準備をする時間を得られた事。
しかし彼の大声は盗賊にも届いており、見せしめとして胸を刺し貫かれ急流の谷底へ棄てられてしまった。それを助けようとした村人も幾人か命を落とした。
「もうあの子の嘘を聞く事はできない」皆が俯き嘆く中、アンジェリカは後方でふわりと輝いた光を振り返る。
何かを伝えるように煌めくそれに目を向ける者は他にない。
アンジェリカは耐えるように一度俯き、顔を上げた。
「それはもしや、ドルフという少年ではないか」そこから彼女が歌い上げる少年の特徴に、村の人々の表情が希望を得たように明るくなっていく。
エルヴィス達は各々黙っていた。
「嘘つきドルフ」の特徴は、盗賊達に教えられたから知っている話なのだ。
「ここへ来る途中、手当を受けているのを見た。少し話したが記憶を失くしており、彼を拾ったのは移動商売の夫婦だから戻らないかもしれない」――…
会えないとしても、生きていてくれるなら。
笑顔の戻った村人達は、一行の旅の無事を願いながら見送ってくれた。
苦しげに背を向けたアンジェリカの肩をエルヴィスが叩き、太陽の女神も、グレゴリーも、ハーヴィーも、それぞれアンジェリカを気遣う仕草を見せながら歩き出す。
一拍遅れて後に続こうとしたアンジェリカは、すぐに立ち止まって振り返った。
誰も目をくれない光の中にほんの数秒だけ、笑顔で手を振るドルフの姿が浮かび上がる。
声をかけようと口を開いた瞬間に消えてしまったそれを見つめ、アンジェリカは胸の前で拳を握って静かに、けれどよく響く声で歌った。
「お前の嘘を、希望を与えた愛ある嘘を、私は決して忘れない。」
着物の裾を翻し、アンジェリカは振り返らずに進んでいく。
切なさを残していたオーケストラの曲は徐々に道が開けるように明るさと音量を増し、旅立ちに相応しい音色が流れる中、緞帳が下り始め舞台の照明が消えていった。
「――…素晴らしかったわ。」
カーテンコールも終わり、惜しみない拍手を送ったシャロンは満足げだ。
第三幕はすっかり舞台に見入っていたので、隣を見るのも随分久しぶりのような気がした。アベルは薄く笑って同意を示し、立ち上がって片手を差し出す。そっと手を重ねながら、シャロンは元となった逸話を振り返った。
「《追い詰められた盗賊の首領は、今まで奪った金を持ち一人逃げ出そうとした。しかし待ち伏せていたハーヴィー様が見事これを討ち取り、金は村で使うようにと言ってくださったのである。》――…ふふ、きっと宴会場の修理代になるわね。」
「《太陽の女神に魔の手が迫り、エルヴィス様は風を操り瞬く間に敵を跳ねのけた。》…あのエルヴィス様は随分と派手にやっていたな。」
劇場を背に、カーテンをめくりながらそんな会話をする。
酒宴での盗賊達との掛け合いといい、今回の脚本は笑える要素を多く入れて英雄達を親しみやすい人物像に仕上げたようだった。
初代国王エルヴィス・レヴァイン役が酒盛り相手をよいしょと転がすなど、上流貴族の客が主である王都ロタールではまず見られない。
太陽の女神が密かに酒を飲むくだりなどは、神殿都市で演じようものなら批判は免れないだろう。
リラの劇場ならではの自由さだ。
「アンジェリカ様は、本当に亡くなった方の姿が見えたと思う?」
ローブを手に取りながらシャロンが聞いた。
『嘘つきドルフ』はそれを前提とした逸話だが、言い伝えがそう残っただけで、ドルフは生きていたのではないかという神話学者もいる。逸話の中ではアンジェリカが自ら「ドルフの姿を見た」と誰かに伝えた様子がないのだ。
アンジェリカの言葉を「本当は嘘だったのでは」と思った村人が、後に彼女の母は君影国の女だと聞いて「ドルフの霊がそう言うよう頼んだ」と想像するに至ったのではないか。
ごく少数派だが、ドルフは実は盗賊の仲間で首領がやられたのを見て逃げたと言う者もいる。
フードをかぶり、アベルは「どうだろうな」と呟いた。
神話学では、アンジェリカにそういった能力がなければ説明がつかない話も幾つかある。例を挙げれば『語り部の女』や『宵待ち人』だが、それくらいシャロンも知っているだろうし、一般論が聞きたいわけではないはずだ。
――君影の姫や護衛は俺に憑いているものを見た。君影国の者が常人に見えないものを目に映すという噂は本当だった。ならば、アンジェリカ・ドレークが実際に見た可能性もあるとは思う。君影の血を引くというだけで後付けされた可能性もあるが。
しかし、アベルはその話を深く掘り下げられたくはない。君影の姫とそういう話はしたかなど、そちらに広がるのは困る。
ここはそっと話を切っておくべきだろう。
「見える人間がいれば、事件捜査に便利だとは思うが……、ちゃんとかぶっておけ」
「そんなに?」
きちんとかぶったフードの裾をくいと引っ張られ、シャロンは困り顔で眉を下げた。アベルがそのまま部屋を出て行くので後を追うしかない。
閉じていく扉の隙間から、一緒に過ごした個室を少しだけ振り返った。
このオペラハウスに所属している歌劇団体は一つだけ。
八月に起きるかもしれない事件に備えて彼らにも既に調査が入ったそうだが、王子暗殺ほどの大事を目論む理由も能力も無いとの結果だった。演出向けに鍛えた魔法と攻撃魔法とでは違う。
しかし《先読み》通り八月には『剣聖王妃』の公演予定があり、劇場側が「せっかくなら王子一行を大々的にご招待して良いかお伺いしてみよう」と調整中だという事もわかった。
ウィルフレッドは素知らぬ顔で受けるつもりだ。
騎士団の密偵は引き続き劇場、劇団、音楽隊にも探りを入れている。
――…このまま、歌劇団の皆様が無実でありますように。
今日の思い出に後から泥を塗られたくはない。
密かな願いを抱きながら、シャロンはアベルと共にオペラハウスを出た。
うっすらと夕焼けに染まり始めた空の下、学園から港まで真っすぐに通ったメインストリートを歩いていく。人通りはまだ多く、シャロンははぐれないよう一歩先にいるアベルのローブの裾を指先で掴んでいた。
オペラハウスは港から見て噴水広場より手前にあり、立ち並ぶ店は落ち着いたアンティーク調に塗られた木製の時計屋から、パステルカラーのメニュー看板に可愛らしい動物の絵を添えたデザート専門店など多岐に渡る。
大輪の花と蔓が描かれた店の扉を見つめながら、シャロンが感心したように息を漏らした。
「市場はある程度見たつもりだったけれど、こちら側にも沢山のお店があるわね。」
「あれは蝋絵師本人の直売店だ。市場近くの精油店と提携し、そちらで売るアロマキャンドルへの絵付けもやっているらしい」
「精油店…もしかして店の名前はプナロマ?お友達が使っているわ」
「確かそうだ。後は……港近くのガラス工房などは敷地が広い分、多様な製品を並べている。向こうの黄色い旗は見えるか?角を曲がった先の研ぎ師は腕が良いから、何かあれば頼れ。それと…」
思いつくままシャロンが興味を持ちそうな店を挙げ、アベルは幾つか場所を教えた。次はウィルとお忍びで街を回れば良いだろう。変装した騎士の護衛付きで。
「まだリラへ来て三ヶ月なのに、貴方はもう随分とよく知っているわね。」
「ドレーク公爵家や騎士団から情報を得ているし、学業があると言っても魔力の無い俺は空き時間も多い。お陰で実際にあちこち確認する事ができた。この辺りはもう二時間もすれば酒飲みがうろつくから、お前は絶対に夜の街に出るな。ダンがいてもだ。」
「貴方と一緒ならいい?」
「そんな機会は無……いが…」
間髪を入れず聞いてきたシャロンに即答しかけたが、ここでバッサリ切った場合どうなるのか。
瞬いて、アベルは苦い顔で眉根を寄せた。
「……、一人で行くぐらいなら、声をかけろ。」
「ふふ」
まるで返事がわかっていたかのように、シャロンは柔らかく笑っている。
アーチャー公爵に「どうしたらこんな跳ねっ返りに育つ」と問いただしたい気もしたが、笑顔のディアドラ夫人が浮かんで考えるのを止めた。あの騎士団長ティム・クロムウェルが未だに頭の上がらない女の娘なのだ。
見た目だけは深窓の令嬢の如き淑やかさのシャロンをちらと振り返り、アベルは小さくため息を吐いた。
「お前は末恐ろしいな。」
「あらひどい。か弱い公爵令嬢なのに」
「くっ、どの口が言うんだ。」
シャロンがおどけた調子で言うものだから、思わず笑って吐き捨てる。か弱い令嬢は暗殺が予見された場所に自ら向かったりしないし、王子相手に我儘を通したりもしない。
ころころと鈴を転がすように笑いながら、シャロンはアベルが差し出した手を支えに水溜まりを避けた。オレンジ色の空が映っている。
手を下ろして力を抜いても、細い指先は二本分だけ絡んで離れない。
アベルはほんの一瞬横へ視線を流したが、何も言わずに瞳を前へ向けた。
暗くなると危険だと言ったばかりで、シャロンは手を繋ぐと安心すると言っていたし、アベルは先日それに同意を示した。こうしているなら守れると。
アベルは義弟になる身としても第二王子としても、また友人としても、未来の義姉かつ王妃であるシャロンを守るべきだし、守ろうと思う。彼女もそれをわかって頼りにしてくれている。
つまり指先が離れないのはそういう事だ。
ごく僅かに感じた違和感の正体など事実の前には無意味、深く考える必要はないと一蹴して頷いた。
「わかった。」
「?何がわかったの」
「問題ない。気にするな」
「そう……?」
もし夜に出かける時はついていくと決めたと、そういう話だろうか?
シャロンは少しだけ首を傾げながらも、軽く握り返してくれた指先に気付いて微笑んだ。胸の奥がじわりと温かくなる。
「お前の事は、学園まできちんと守る。」
「まぁ、ありがとう。私も気分転換に来た貴方を、きちんと護衛するわね。任せておいて」
「ふっ……なんだそれは。」
「頼もしいでしょう?」
「あぁ、とてもありがたいな。」
噴水広場が近付いてきた。
繋いだ指先を合図のようにくいと引いて、シャロンは悪戯っぽく笑いかけた。
「ディナーメニューが気になるレストランがあるのだけど。いかが?」
「ご一緒しよう。」




