328.そういうデートじゃない日
週末の特別授業を終え、ランチを済ませたシャロンは身支度を整えてから学園の門へ向かった。
石造りの門をくぐる前に一度だけ振り返り、距離を空けてついてきていたダンに視線だけで「行ってきます」と伝える。ダンはにやりと笑って踵を返した。
夜通し降っていた雨も朝には上がり、今は青空に白い雲がぽつぽつと浮かんでいる。
――晴れて良かった。
心が少し浮足立つのを感じながら、シャロンはローブの下にある剣の柄へ軽く触れた。門番の騎士達に軽く会釈をして門をくぐり、スカートをひらりと揺らして馬車の待機所へ足を向ける。
四台ほど停まっている中で予約済みの印をつけたものは二台。
赤い羽根飾りのシルクハットをかぶった御者の方へ行くと、シャロンに気付いた御者が一礼し、中へ声をかけてから扉を開いた。足台は既に設置されている。
シャロンは御者の手を借りて中へ上がった。二人掛けの座席には既に制服姿のアベルが脚を組んで座っている。
「こんにちは。」
「あぁ」
「待たせてしまったかしら?」
「いや。来たばかりだ」
御者が扉を閉めて足台を片付け、シャロンはローブのフードを下ろす。今日の彼女は緩くウェーブした金髪のウィッグをつけていた。
アベルは癖の無い茶色の短髪でフレームレスの眼鏡をかけていて、シャロンが横から興味深げにじっと見つめている。
「今日は魔法じゃない。」
「まぁ。」
今聞こうと思ったのに。
シャロンがそう言いかけた時、馬車がカタンと揺れて出発した。
それにしても茶髪のアベルが新鮮で引き続きまじまじと見ていると、アベルの方も唇を引き結んだままシャロンをじっと見た。
「……印象がかなり変わるな。髪が違うだけでも」
「同感だわ。貴方は眼鏡もあるから、余計に。」
そんな事を言うので、アベルは無言で眼鏡を外してシャロンに差し出した。彼女も黙って受け取り、両手でつるを支えて自分でかけてみる。
度のないガラス越しに見た第二王子殿下は、顎に軽く手をあてて首を傾げた。
「見慣れないな」
「ふふっ、そうでしょう。」
「ふ…」
くすくすと笑い合う二人が向かうのは学園都市リラの歌劇場。
兄から「気分転換に俺の婚約者とデートしてこい(要約)」と笑顔で言い放たれたアベル、恐らくは弟クリスのために「是非アベルとデートしてくれ(要約)」と幼馴染に言われたシャロン。
『私と貴方じゃそういうデートにならないでしょう?』
『当たり前だ。』
そんな《事実確認》も済ませ、噂になっては困る二人は変装して出かけたのだった。
シャロンは「俺がメリルに怒られんだろ」と言うダンから、アベルは妙にはしゃぐ兄と「違う?わかったから。でもデートでしょ?違うのはわかったから!」とわかってないチェスターに言われ、少し香水をつけるなりしている。
馬車に乗った時点で互いに気付きもしたが、どちらも相手の事は「変装に余念がないな」としか思っていなかった。
学園都市リラにおいて、王立学園の制服は大抵のドレスコードをクリアする。
平民でもなんとか手が届く値段の席があるオペラハウスなら猶更だ。制服とセットアップのローブを着て、そのフードで髪や顔を隠した生徒もそう珍しくない。
貴族か平民かは仕草や立ち振る舞いで見て取れるものだが、誰の尻尾かもわからず嗅ぎまわるのは危険だ。
特に今は、王子と五公爵家の子息子女がいるのだから。
「まともに観劇するのは随分と久し振りだ。」
「そうなの?」
「王都では情報交換で人と会うために使っていたからな。劇の方は断片的だったり、ろくに見なかった時もある。今日の演目は何だ?」
「『嘘つきドルフ』よ。六騎士の逸話を題材にした脚本の一つね。」
「あれか…」
六騎士あるいは六兄弟とは、ツイーディア国王と五公爵、その初代六人を指す言葉だ。
彼らと共に戦ったとされるのが月の女神と太陽の女神であり、国の各地には女神や六騎士の伝説や逸話が数多く残っている。
『嘘つきドルフ』は初代学園長、アンジェリカ・ドレークが登場する話だ。
学園都市リラはドレーク公爵家の領地。この街で演じる脚本としては選ばれやすいのだろう。
「アベルは観た事がある?」
「ないが、大筋と結末はわかる。そちらは?」
「小さい時にお母様と観て……ふふ。私、名前が引っ掛かってしまったようなの。うちの執事はランドルフというでしょう?」
「あぁ。」
「私は覚えていないのだけど、それから一週間くらい屋敷ではずっと彼を見張っていたそうよ。消えちゃうかもしれないからって。」
「くっ。」
アベルが拳を口元にあてて軽く顔を背けた。
きびきび歩く執事を小さな女の子が懸命に追いかける姿が目に浮かぶ。最終的に父親がキラキラした「消えちゃわない魔法」を執事にかけた事で、幼いシャロンはようやく納得したらしい。
「それは、っくく。子供らしい話だ。」
「貴方の小さい頃は、そういう事は無かったの?」
「俺か?子供らしくないと言われる事は多かったが……どうかな。自分では記憶にない。」
「そう」
「……ウィルに聞くなよ。」
「ふふ、私何も言っていないのに。」
くすくすと笑うシャロンを「絶対に聞く気だっただろう」という目で見つめ、アベルは短いため息を吐いた。兄が彼女に知られたくないだろうエピソードならアベルも幾つか握っている。学園に戻ったら少し釘を刺しておこうと決めた。
馬車はメインストリートを進んでおり、壁越しに市場を歩く人々の賑わう声が聞こえてくる。
シャロンはカーテンの隅をつまんで少しめくり、流れる街並みを窺った。様々な出店に行き交う人々、「魚泥棒」と猫を追いかける店主まで、今日もリラは活気がある。
「観終わったら少し歩くか?」
「いいの?」
「あぁ、珍しく仕事が何もない。……正確には、ウィルに持っていかれたんだが。」
「兄に任せろと張り切っていたものね。」
「…なぜだかな。」
アベルは眉間に皺を寄せて腕組みをした。
シャロンと出かけさせる為に兄がそこまでする意味がわからないのだ。
「貴方は何でもやってしまうから、頼る事を覚えてほしいんじゃないかしら?」
「確かに自分でやりがちだが、人の使い方も知ってるつもりだ。」
「甘え方は?」
「は?」
予想外の言葉に思わず目を見開き、アベルがシャロンを見る。
彼女はなんて事ない様子で続けた。
「ウィルは兄として、たまには弟の貴方に甘えられたいのでは、と。」
「…………十三にもなって、甘えろと?」
「私だったら、弟が大人になっても可愛がりたいわ。せっかくの姉弟だもの、頼ってほしい、甘えてほしいと思うのは自然でしょう?」
「お前の所とは違――…いいか、絶対に俺とクリスを一緒くたに考えるな。」
「そんなに?」
「俺はお前に頼る事はあるかもしれないが、甘えるつもりはない。」
真剣な表情で言われシャロンは瞬いた。
もちろん頼ってほしいので前半は嬉しい言葉なのだが、そもそも今はウィルとアベル、シャロンとクリスという血の繋がりについて話していたはずだ。
少し不思議に思いつつ首を傾げる。
「私は……甘えてくれてもいいけれど」
「無い。」
「あまり想像はつかないわね。貴方が誰かに甘えるところ…」
「想像しようとするな。鳥肌が立つ」
「そこまで?けれど――」
シャロンの言葉を遮るように、アベルは彼女が膝に置いていた手を軽く持ち上げた。
抵抗しない手を人差し指を立てた状態にさせ、ちょっぴり目を丸くしているシャロンの口元へ持っていかせる。意図がわかったのか、アベルの手が離れても彼女の手は動かない。
薄紫色の瞳がアベルを見て、唇に人差し指をかざしたままほんの僅か首を傾けた。アベルはそれでいいと頷く。
シャロンはぱちぱちと瞬いてから手を下ろし、花がほころぶように笑った。
「……何で笑ってる。」
「ふふ、黙っていろと言うのでしょう?大丈夫、ちゃんと伝わっているわ。」
「………?」
アベルは訝しげに片眉を上げているが、なんだか可愛らしく思った、などと教えたらさらに機嫌を損ねるだろう。シャロンは微笑みを浮かべたまま、アベルから視線を外してあげた。
馬車はじきに噴水広場を通過し、オペラハウスへ到着する。
キャサリン・マグレガー侯爵令嬢から譲り受けたチケットは個室席だ。
追加料金を払って更にグレードの高い貴賓席にする事もできたが、そうすると他の客は「貴賓席にいるのは誰だ」とじろじろ見るだろう。それは望ましくない。
鍵のかかったドアを開けるとコート掛けとソファがあり、部屋を仕切るカーテンをめくれば舞台を望める観覧席がある。こちらは一人用の椅子が二脚、ぴったりと横並びになっていた。
二人は着ていたローブを脱ぎ、仕切りのカーテンを閉じたままソファに腰かける。始まるまではわざわざ他人に見られる必要もないだろう。
ざわざわとした多くの人の声や物音を遠くに聞きながら、シャロンはパンフレットを広げた。ソファの背に肘をつき、アベルが隣から覗き込む。
「やっぱりエルヴィス様は国王陛下に、女神様は王妃殿下に合わせているわね。」
「あぁ。」
パンフレットにはオペラ歌手達が役に扮した絵姿が載っていて、脇に歌手の名と役名が綴られていた。
いずれ初代国王になる男エルヴィス・レヴァインの役は、今の国王ギルバートに合わせて金髪だ。太陽の女神は国の最上位の女性、王妃セリーナに合わせて黒髪になっている。
アンジェリカ・ドレークは学園長シビルに合わせたビリジアンの髪、女神像の製作者ハーヴィー・オークスはチェスターの父と同じ明るい茶髪、初代騎士団長グレゴリー・ニクソンは紺色の髪だ。
此度の演目『嘘つきドルフ』に月の女神は登場しないが、これがもし女神が二人揃う演目の時は、劇団や出資者の方針によって同じ髪色だったり、濃淡を変えたりまったく異なる色にしたりと違いがある。
「アンジェリカ様を演じる方は、以前月の女神様も演じたと聞くわ。凛々しく美しい歌声なのですって。」
「ふぅん。第三幕が見物だな。」
「戦うシーンがあるものね!アンジェリカ様と言えば着物姿に刀でしょう?とっても楽しみ。」
アンジェリカ・ドレークは母親が君影国出身と言われており、わかりやすくかの国独自の衣服である着物を役者に纏わせる事が多かった。パンフレットの絵も着物で刀を構えた姿で描かれている。
見やすいよう広げられたパンフレットの片端を摘まみ、アベルはエルヴィス役の真面目そうな美丈夫とグレゴリー役の爽やかな男を見下ろした。
劇団ではこの二人が若い女性客の人気を二分しているらしいとは、チェスターの言葉だ。ハーヴィー役は髭を生やしたダンディな男で、ファンの年齢層はもう少し上だとか。
ちらりとシャロンを見やると、楽しみという言葉通りに頬を緩めてパンフレットを眺めている。
「……どれか、気になる役者でも?」
特に意識したつもりはなかったが、ぽつりと聞いた声はやや密やかで。
アベルの声量に合わせたのか、「ん?」と聞き返すシャロンの声も内緒話のようだった。誰かを示すべく、白く細い指先がゆるりと動く。
「そうね……やっぱりこちらの…」
「うん」
「少年ドルフ役の方かしら。見て、まだ十歳ですって。」
「………、そうだな。」
なぜかシャロンの頭を撫でてやりたくなって、アベルは瞬いた。




