327.ウィルフレッド・バーナビー・レヴァインの失望 ◆
火が消えても、傷口は焼けるように熱い。
ああ、これは致命傷だとどこか他人事のように考えた。
俺の命は数分もたないだろう。
『治して、お願い』
声をかけられて瞬くと、少し視界が鮮明になった。
傷口に両手をかざしながら、シャロンが泣いている。大粒の涙が次から次へと頬を伝い落ちていた。
……致命傷に治癒をかけても意味が無い事くらい、わかっているだろう。
細い手首を掴んでいらないと示したが、彼女は治癒を止めなかった。
『…たしの魔力じゃ、足りないの』
小さく呟いたシャロンを見上げると、涙に濡れた瞳が俺を見つめ返す。懇願するような目だ。
『どうして…』
なぜ自己治癒をしないのかと、彼女は聞いている。
意味が無いからだ。
どれほど魔力があっても、傷を塞ぎ身体を治しても死ぬ事は変わらない。
お前が使ってくれた魔力も、ただ消えるだけ。傷口を少しばかり小さくするだけだ。
わかっているだろう、シャロン。そんな事は。
『嫌…』
薄紫の瞳に恐怖が宿る。
俺を見つめたまま、彼女はほんの僅か首を横に振った。
俺は喉にこみ上げた血を吐き、これが最後と自分に言い聞かせて息を吸う。まだ声は出るだろうか。
『…ウィル、を…』
『しな、死なないで。お願い』
ひどく弱々しい声で呟いて、シャロンは俺の手を包むように握った。震えているようだと気付き、辛うじて握り返す。
大丈夫だ。
ウィルがいれば、お前は王妃としても、妻としても、幸せになれるから。
だからお前もウィルを、そして
『国を…頼む。』
『待って……ね、お願い、っだから』
言うべき事は言った。
想定より早い死ではあっても、ウィルを守れたならこれでいい。
サディアスが魔力暴走を起こした原因は――…大丈夫だ。クロムウェルが、わかっている。あの男なら、気付く。
『いかな、で…アベル……いなくなっちゃ、やだ……』
『――……。』
気が抜けたせいだろうか、俺は微笑んでいた。
そんなに泣くなと言いたかったが、もう声は出ないらしい。
ようやく終わる。
視界に映るのは泣いているシャロンと天井だけだった。彼女は縋るように俺を呼んでいる。
あぁ……
お前に見送られるなら――悪くない。
握られた手が温かかった。最期にその涙を拭ってやれないかと思ったが、力が抜ける。瞼が閉じていく。
そうだ、その役目は俺じゃないな――…
血の気が引いて、頭がひどく冷たかった。
突然過ぎて、あまりに唐突な出来事で、状況を把握する前に全てが終わって。
俯いていたシャロンが鼻をすすって、顔を上げた。
アベルに突き飛ばされて転んだ位置のまま、動けなかった俺と。立てなかった俺と、目が合った。
『――……。』
じわりと溢れる涙を、震える唇を、俺は見て。
シャロンは何も言わなかった。
ただ、その瞳に俺は、
なぜここへ来なかったと、問われた気がした。
アベルは俺を庇って死んだのに、
俺はアベルの最期に…いないも同然だった。
駆け寄りもしなかった。お前のせいだと言われたくなくて。
治そうともしなかった。俺じゃ痛みの軽減にすらならない。
声をかけようともしなかった。何を言えばいいかわからなくて。
決定的に間違えた今日の事を、俺は一生後悔する。
シャロンが俺を見たのは、ほんの数秒で。
視線を戻した彼女はガラス細工に触れるようにそっと、アベルの頬に手を添えた。
『アベル……』
呟いた声は、涙に濡れて溶け落ちて。
動かない身体に縋りつき、シャロンは声を上げて泣き始める。
彼女はアベルを愛していたのだと、その時初めて気が付いた。
呆然とその光景を眺めながら、頬を一筋の涙が伝う。
心の片隅で、俺は。
やっぱりシャロンも、アベルの方が大事なんじゃないか――そう思っている自分に、気付いてしまった。
……一体、どこまで醜悪で情けないんだろう。
半身を引き裂かれたように悲しくてつらくて痛くてたまらないのに、それが本当にアベルが死んだ事に対してなのか、自信がない。
わからない。
まるで現実味の無い光景を目に映したまま、立ち上がる。
血の海のようになった床は、シャロンのスカートを赤黒く染めていた。誰かが走ってくる。
『先生呼んで来たぞ!』
『――っ、これは……』
レオとホワイト先生の声だ。
一目見て、もう全て終わったと理解したんだろう。また静かになった部屋の中、シャロンがずっと泣いている。
『…ッくそぉ!!』
膝をついたレオが床を拳で殴りつけた。何も、彼のせいではないのに。
『……シャロン・アーチャー。離れろ』
『嫌っ…や、です……ごめんなさい』
シャロンはアベルの傍から離れようとしない。涙を零して、しゃくりあげて、首を横に振る。
ホワイト先生は黙って二人の傍に屈んだ。
『もう少しで、い…っから、このまま……お願いします、お願い、します……』
今ここで俺の命を捧げてアベルが助かるのなら、それが一番幸せな事に思えた。
俺が死んでいれば良かったんじゃないか。
でもそんな願いは叶わない。
そんな奇跡は起こらない。
アベルは生き返らないし、俺は死ぬ事が許されない。
生きる事が、義務だ。
『――…子爵。サディアス・ニクソンが魔力暴走を起こした』
このまま悲しむシャロンを見つめて、自分の心を千々に引き裂いていく事が当然の罰のような気がした。
それでも無理やりにホワイト先生へ目を移す。
他の誰でもない、俺が説明しなくてはいけなかったから。
『何か…薬を盛られていたと思う。暴走は突然で、幻覚を見ているようでもあった。』
サディアスは元々、俺ではなくてアベルに忠誠を誓っていた。
彼は自分を許さないだろう。
……後を追って死んでしまうかもしれない。
淡々と説明して、気絶したままのサディアスを拘束した。
腰が抜けているカレンに手を貸して立たせ、レオと先生に付き添いを頼んで退室してもらう。ドレーク公爵やレイクス先生達も集まってきて、布をかぶせたアベルの遺体も運ばれた。
立ち尽くすシャロンを、彼女の叔父であるネルソン先生が医務室へ連れていく。
スワン先生が連絡を入れたようで、女子寮からラファティ侯爵令嬢が真っ青な顔で駆け付けた。シャロンの着替えを持ってきてくれたらしい。
しばらく……霧の奥を眺めるような心地で、記憶がない。
後に聞いた話では、俺は冷静に指示を飛ばし先生方と話し合って、リラの騎士団詰所とも連絡を取っていたらしい。
あの時ずっとアベルに寄り添っていたシャロンと違って、ほんの少しも血の染みがない姿で。
何時間経ったのか、再会した弟は綺麗に傷が塞がれていた。
触れたら体温は無いのだろうと思う。
冷たいのだろう。
『……アベル……』
他に誰もいない部屋に、俺の声が響いた。
お前は最期に何を思ったんだろう。
シャロンに何か伝えたように見えたけれど……それを聞く資格は、今の俺にはない気がした。
伸ばしかけた手が止まる。
今更、兄のフリか?
死に目に姿を見せなかったくせに。
近付きもしなかったくせに。
嘲り笑うような声が胸の内から聞こえてきた。
でも俺はどうしようもない愚か者だから、誰も見ていない事を言い訳にその頬へ触れる。
何年振りかもわからない弟の肌はひどく冷たくて、もう彼はいないのだと思い知らされた。
今になって、遠い昔の記憶が蘇る。
すごく小さかった時は、アベルは身体が弱くていつもベッドにいたこと。
苦しそうで、寒がってて、俺がずっと冷たい身体を抱きしめていたこと。
――ぼくはアベルがいるからだいじょうぶだし、アベルはぼくがいるからだいじょうぶなんだ。
弟は泣きながら「ありがとう」と言っていた。
――おれは兄なのだから、アベルをまもるよ。
弟は苦笑して、「ぼくもウィルを守るよ」と言ってくれた。
かつての俺達は仲の良い兄弟だった。
能力の差が歴然とするまで、俺が卑屈になるまで、アベルが俺を遠ざけるまで。
互いに背を向けていると思っていた。
俺が弟と心から向き合うには、あまりにも遅かった。遅過ぎた。
『……っ、う……』
あの時一つしか流れなかった涙がぼろぼろ零れて、床に膝をつく。
死んでしまっては聞く事も怒る事も謝る事もできない。
アベルが死んでしまった。どうしてこんな事になったんだ。
よりによって、俺を庇ったせいで。何で俺なんか庇ったんだ。
お前は俺の事など、どうだっていいんじゃなかったのか。
どうして。
俺よりずっと優秀な弟が、皆に期待されていた第二王子が、死んだ。
この世の何より最低な俺が、アベルに比べたら何事も劣る俺が、天才だった弟の命を犠牲に生きた俺が、ツイーディアの玉座につかなくてはならない。
こんな馬鹿げた話があるだろうか。
これ程許されない事があるだろうか。
眠っても現実は変わらないし、起きても悪夢は覚めない。
本当にこれが現実なのかと疑問を抱いたまま、俺は王都へ出向き陛下達に報告しなければならなかった。
サディアスは拘束中で、チェスターは事件の前にどこかへ出たらしく、見つからなかった。それも不穏だ。ひどく嫌な予感がする。
シャロンは――…あれだけ泣いていたのに、一緒に来てくれた。
神殿都市から王都へ向かう馬車の中、いつもなら楽しく話していただろう俺達の、笑い合う姿はどこにもなくて。
長い時間をかけてようやく彼女の顔をまともに見れた時、泣いた跡を化粧で隠す目元に気が付いた。
『ごめん』
表情を取り繕う事もできずに呟いて、瞬いたシャロンが俺を見る。
『……ごめん、シャロン……俺のせいで…俺が、弱いせいでアベルは』
『貴方のせいじゃないわ。』
ズキリと心臓が痛んだ。
シャロンは真っ直ぐに俺を見てくれて、その声は俺を労わってくれていた。
『ウィルが言っていた通り…サディアスは何か、薬を盛られていたのでしょう。それは貴方のせいじゃないし、アベルは、っ。』
こくり、唾を飲み込む彼女は一瞬だけ目をそらす。
気丈に振舞っているけれど、本当は今だって泣きたいのだろう。
『――アベルは、自分で…貴方を助けたの。』
『でも、君はあいつを』
『やめて』
愛していたのに。
そう言おうとした俺を、シャロンは早口に遮った。視線を膝の上に落とした彼女は、胸元で片手を握り締めている。
『それは――…それは、駄目よ。ウィル』
『……シャロン…』
『…口にしては、いけない事だわ。……なんにもなかったの』
ぐっと胸が苦しくなる。
君があんな風に泣いてしまう程の想いを、なかった事にするなんて。
だけど、俺に何が言えるだろう。
アベルを死なせた俺に。
『……わかった、シャロン。』
君が望むなら秘密にしよう。
いつか誰かと結婚しなくちゃいけない、公爵家の令嬢として生まれた君。
俺の大切な人。
『けど……無かったなんて、言わないでほしい。』
『…え……』
『口には出せなくても…どうか、捨てないでくれないか。』
無理に心を殺すような事は、してほしくなかった。
シャロンには、大切な友達には笑っていてほしかったから。
また、笑えるようになってほしかったから。
『――私……いいの、かしら……。』
シャロンが涙を浮かべて俺を見る。
本当はまだ、アベルを想っていたいのだろう。
小さく震える手にそっと触れた。
『いいに決まってる。……その気持ちはどうか、大切に持っていてくれ。』
『……ありがとう、ウィル……』
流れた涙は綺麗で、悲しかった。
これほど純粋に想われるアベルが羨ましいと思う。
いつか俺と結婚する人は、果たしてこれほどの気持ちを向けてくれるだろうか。共に国を支えてくれるだろうか。
……学園にいる小さな彼女の姿を思い出す。
あの子ならもしかしてと、ほんの少し考えて……でも、俺は王になるのだから、彼女と結ばれるのは難しいだろう。
俺は、君にお礼を言ってもらえるような男じゃないよ。シャロン。
そう言ったら君はきっと否定してくれるから、言わなかった。
自分の事は自分がよくわかっている。
アベルを喪った時、俺は自分の愚かさを思い知った。
醜い自分には期待する事が無くなった。
あるのはただ、アベルを失ってまで生き延びた者への義務だ。すべて死に物狂いでやった。
知識も強さも政治の世界を生きるための仮面も、何もかも習得に必死だった。
試験で満点を取ろうが剣闘大会で優勝しようが、張り付いた笑顔の裏で何も喜びを感じない。
だってアベルはもっと上だ。
俺より優秀だった、何もかも。
果ての見えない高みへ、もういない背中を追ってただ、ただ――…足掻き続けていた。




