326.後悔先に立たず
固い地面を踏みしめて空を仰げば、どこが境かもわからない真っ暗闇が目に入る。
今夜は晴れなのにどうして月や星々が見えないのかと言えば、あれが夜空ではなくアベルが作り出した闇だからだ。
天井のないコロシアムは、大きな火の魔法を使えばどうしても明るくなり目立ってしまう。遠目にこちらを見る人がいたら何事かと思うだろう。
だから光が漏れないよう闇の魔法で蓋をして、さらに空気中を伝わる衝撃や音を抑える風の魔法も施されていた。
「普通の人ならとっくに魔力切れだわ。」
ローブのフードをぱさりと下ろして呟く。
広いコロシアムにいるのは私とアベルの二人だけだ。万一にも魔法で姿を消している人がいるといけないので、到着してすぐにそれも確認を終えている。足元に置いたランタンが私達を照らしていた。
私が魔力を込めて作り出すお守りは、果たしてサディアスの火槍を防げるのか。
その検証をするために、私はアベルが預けてくれた水晶達を三週間ほどかけてお守りにした。魔法学の授業や護身用に残しておく分の魔力もいるので、時間がかかってしまったけれど。
ようやく今日水晶の入ったケースを返す事ができて、もちろん「まさかとは思うけれど…」と聞いた。笑顔で。
互いにケースから手を離さないまま数秒が経過したものの、無事に許可されて今に至る。
訓練場の備品である木偶人形を支柱で立たせ、私達は安全のために十分な距離を取っていた。
といっても、実際のサディアスとウィルはせいぜい数メートルの距離でしょうから、検証はそれも踏まえて行う。自分の傍に発動させるわけではない分、人形がよく見えるようそちらにもランタンを設置していた。
人形は腕組みをさせて縄で固定し、そこにお守りの水晶玉を乗せてある。
「始めるぞ。」
「えぇ」
人形を見据えるアベルの言葉に頷く。
彼は宣言を唱えずに魔法を使えるから、私は心の準備をしないとかなり驚かされてしまう。
ほんの一秒後、人形の正面数メートルの場所に細長い火が現れた。
アーチャー公爵邸の庭でサディアスが見せてくれたのと同じ、火の槍だ。合図もなしに飛び出したそれは、壁を作るようにして現れた水の魔法で防がれた。人形はほんの少しも火の粉をかぶっていない。
まずは、よかった。
サディアスが放つ通常威力の火槍なら防ぐ事ができる。ほっと息を吐いた。これで駄目だったら気休めにしかならないところだ。
「取り替えるわね。」
「あぁ」
せっかく来たのだから私も手伝いをする。急いで人形のもとまで走り、次のお守りと交換した。効果は一度きりだ。
アベルの隣まで戻り、使い終わったお守りをケースの中にコトリと戻した。
「次は威力を高める。」
「はい。」
先程より大きく現れた火が瞬時に槍の形状を取り、自然と生み出された空気の流れが少しだけ私達の髪を揺らした。
ボッ、と炎の音をさせて火槍が飛ぶ。
一直線に人形へ向かったそれは、やっぱり突然現れた水の壁によって防がれた。弾ける水と蒸発の音がして、立ち昇る水蒸気が景色を揺らがせる。
人形は火槍こそ受けなかったけれど、弾けた水をかぶってはいた。燃えるよりは全然良いと思う。
「…魔力を多く入れた物を。」
「わかったわ。」
アベルの指示に従って、ケースからお守りを取り出した。
水晶の見た目は全部同じなので、差があるものはきちんとメモをつけている。これはちょっと多めに魔力をつぎ込んだ――つもりの物だ。
私達は宝石に魔力を込められるけれど、どれくらい入っているか測定する事はできない。
結果として、このお守りはこれまでより分厚い水の壁を生み出した。
でも更に沢山魔力を込めたはずのお守りは、それと同じ効果。どうやら魔力量によるお守りの効果上げには限界値があるらしい。メーターみたいな物で見れたらいいのに。
「次はサディアスに打てる最大威力を試す。」
「最大…」
「本来は発動まで時間を要するものだ。」
どうやら、再現できてしまえるらしい。
こくりと唾を飲み込んで、人形から少し離れた場所へ目を移した。
数メートル四方はあるだろう大きな炎が現れる。
アベルが操るのだから危険は無いとわかっているのに、反射的に恐怖を感じた。
燃え盛る炎はあっという間に剣の形になる。見ているだけで込められた魔力の多さが伝わるようだった。
剣の周囲で空気中を漂っていた埃が一瞬の灯となり燃え尽きる。小さな小さな花火のよう。
あんなものを食らったらひとたまりもない。
人間一人どころか、十人近くいても丸ごと飲み込んで焼いてしまいそうだ。すぐに消火できたところで皮膚や目は、吸い込んでしまったら喉は、肺は、無事では済まないだろう。
ごうと音を立てて、炎の大剣が放たれた。
火槍と違って範囲が広い。
魔力を沢山こめて作ったお守りは人形の前面を守るように水の魔法を展開し、火の勢いに押されて後退するままに人形を濡らした。炎が人形の表面を舐めたけれど、濡れたばかりだからか派手に燃える事はない。
それでも濡れなかった場所がちょっぴり燃え始めて、私が慌てる前にアベルが水の魔法を追加して火を消した。
「魔力を多く込めたのはまだあるか?」
「え、えぇ。」
「速さと威力を上げる。」
サディアスが平常時に打てる最大威力より、上のものを。魔力暴走を前提としているのだから、わかるけれど。
私は急いで水晶を交換した。怯えているなんて思われたくない。
アベルが魔法を使う。
ゲームでは建物や他の人に延焼したりはしなかったから、絶対にここまでの威力ではないはずだった。それでも《先読み》が絶対ではない以上、アベルは想定された未来より悪い状況も試している。
飲み込まれたら絶対に助からないだろう巨大な炎。
距離があるのに、じりじりと肌を焼くような熱気を感じる。
お守りはまだ発動しない。
炎に魔力が練り込まれていく。燃え広がっていたものが纏められ剣の形となった。サディアスが描いた幅の広い大剣と似た大きさの、けれどすっきり整った形状の両手剣。
あの切っ先を向けられたらきっと、死を覚悟する。
お守りが作った水の壁なんて、薄いガラスのようなものだった。
炎が激突した音と空気を伝う衝撃、強い風が吹く。
どくどくと心臓が震えている。
いつの間にか、私の手は確かめるようにアベルの服を握っていた。今、急に隣からいなくなるわけがないのに。
視線は前へ向いたまま動かせない。
人形の足元と地面の一部に火が残っていて、かと思えば水の魔法がバシャンと降って、火が消えたら暗くなってよく見えなくなった。あちらに置いていたランタンもガラスが割れて消えてしまったのだろう。
「怖いか?」
声をかけられてようやく瞬き目が動く。
アベルの声は淡々としていて、気遣うというより事実確認のようにこちらを見ている。驚いたのか恐れたのかどちらだと。
私は手を離して少し微笑み、小さく首を横に振った。
「大丈夫よ。」
「……どれくらい燃えたか見に行く。」
「はい。」
歩き出したアベルに続いて、人形のところへ向かう。
ふわりと浮かんだ光の魔法が壊れたランタンや濡れた人形を照らし出した。意外にも、木製の人形にほとんど焦げがないのを見て少しほっとする。
実際は服や髪に燃え移るでしょうから、もうちょっと被害は大きいかもしれない。でもきっと重篤な怪我には至らないだろうと思えた。
アベルが腕組みをして顎に軽く手をあてる。
「あれだけの炎を食らってこれなら上出来だろう。」
「そう、ね。すぐ消火できれば……」
「俺達の中に水が使えない者はいない。大丈夫だ」
「えぇ…。」
もし未然に防げずにサディアスの暴走が起きてしまっても、お守りがあれば火の威力をかなり軽減できる。防ぎきれなかった分は、アベルがしたように追加で水を出せばいい。
致命傷には至らない。
その事実を確認できて、私はようやく安堵の息を吐いた。
きっと私はその場にいる。水による消火も治癒の魔法での応急処置もできるはずだ。私がいなくてもチェスターか、ウィルか、アベルか……誰かしらは水の魔法を使える。
残りの水晶も効果を試して、私がある程度思う通りに魔力量を調整できているか確認した。
アベルは異なる方向から同時に火槍を放ったりして、その場合は水の魔法が球状に展開される事もわかった。我ながら本当に便利なお守りだ。
ゲームシナリオの私はきっと、自分がこんなスキルを持っているなんて知らなかった。恐ろしい事件が起きる事だって。
……よかった、本当に。
これできっと、万一があっても大丈夫。
――……もし時を戻せるのなら、
この日の私達に「それでは駄目」と言えるのに。
たとえウィルを庇っていたとしても、《アベルが避けられなかった》という事実を、その意味を――…
私はもっと、考えるべきだったのだ。
「――検証はいいとして、例の件はどうする。」
人形を支柱ごとひょいと担いで、アベルがため息混じりに言う。
壊れたランタンは欠片を中に詰め込んで――私は持たせてもらえなかったので、これもアベルが――片手にぶら下げていた。
私は水晶が入ったケースと、無事だったランタンを持って歩いている。
例の件とは、私達が観劇デートをするという話の事だ。
「行くも行かぬも自由じゃないかしらと言いたいけれど、ウィルは?」
「絶対に行って来いと。俺が何をどう否定しても生温く笑うばかりだ。」
「まぁ……」
「わけがわからない。普通は嫌がるんじゃないのか。」
「ウィルは嫌がらないでしょう、相手は貴方だもの」
もしかすると、クリスが以前私とアベルに婚約してほしがった事をウィルは覚えているのかも。クリスの願いが叶うかもしれないと、それもあってニコニコしていたのかしら。
アベルは苦虫を嚙み潰したような顔をしている。
「……そんなに嫌?」
「わかってると思うが、一日付き合えというのは圧をかけただけだ。本気じゃない」
「それはもちろんわかっているわ。」
あの時アベルの圧がかなり強かったのは、やっぱり二号さんに気付いていたみたい。
戦争中ではないとはいえ、帝国の皇子と内密にやり取りしていると誰かに知られたら危険だ。アベル達にまで内容を隠したら余計に。
万一があった時、「帝国から密書を受け取ったな」とアベルに問われて白状した場合より、私が自ら「帝国からこのような手紙が」と報告した場合の方が良い。だから彼は私から言わせようとしていたのだ。
……圧が強かった結果、私は焦りのあまり言葉が上手く出なかったのだけれど。
ウィル達が立ち去ってようやく「心を落ち着かせてから話すので少し待って」と言えた私は、ブルーベリーをつつく二号さんをアベルが眺める数分の間に怒られる覚悟を決めた。
案の定「ジークへの警戒が足りない」と怒られ、企みについては予想以上に呆れられ、「本来、もっと整ってから話すべきでしょう?」と聞いたら渋い顔で同意された。
だから言わなかったのよ、なんて胸を張る事はしなかったけれど。
訓練場の備品置き場に人形を片付けるアベルの背中を眺める。壊れたランタンは隅の廃棄品入れへ。
私は唇を開いて、閉じた。聞くべきか迷う。
――ただの、事実確認。そうでしょう?
何も緊張する事はないと言い聞かせて、地面へ落としていた視線を上げた。
「アベル。どうにかウィルを納得させるのと、私と出かけてしまうの…どちらが現実的?」
振り返ったアベルは困ったように眉根を寄せる。
なぜか申し訳なさそうに見えて、こちらへ戻ってくる彼の言葉を待った。
「――ウィルは、たぶん納得しない。」
「そうでしょうね、とても嬉しそうだったから。」
私の前に来たアベルが手を差し出すので、その視線の先、水晶の入ったケースを大人しく返す。
並んで歩き出しながら、ランタンが照らす彼の横顔をじっと見つめた。
「…だからと言って、お前に迷惑をかけるのもおかしいだろう。」
「………。」
アベルの主張が予想外過ぎて、ぱちぱちと瞬く。
私に迷惑だと言ったの?……理解した途端、つい笑ってしまった。夜にこんなところまで来る私を相手に、一体何を言っているのかしら。
あの時だって「不都合はない」って言ったのに。あれはウィルに気を遣ったとでも?
「ふふっ。どうして迷惑だなんて思うの?」
「俺が一日付き合えと言い出さなければよかった。あのチケットは元々考えてた相手がいるんだろう」
「いいえ、特に決めてなかったわ。頂いたばかりだったし」
「…貰い物だったのか。」
「そうよ」
日頃のお礼に――ダン…はオペラなんて興味ない、と言いそうだから――カレンを誘ったかもしれないし、親交を深めにロズリーヌ殿下に声をかけてみたかもしれない。それはわからないけれど。
アベルの瞳がちらりと私を見る。
「…デートだのと言われて、不本意じゃないのか。」
「実際は、私と貴方じゃそういうデートにならないでしょう?」
「当たり前だ。」
「揶揄いたいダンの事は放っておいて、遊びに行きましょう。ウィルも貴方に気分転換してほしいと言っていたのだし。」
なんだか緊張が取れて微笑むと、アベルは眉を顰めて渋々「わかった」と呟いた。




