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ハッピーエンドがない乙女ゲームの世界に転生してしまったので  作者: 鉤咲蓮
第二部 定められた岐路

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320.甘いお詫び




 ふわふわと風が流れている。


 心地よい微睡みの中、男の人の手が私の髪を優しく梳いていた。

 時折肌に触れる指先は少しひんやりしていて、遠く懐かしい手つきに口元が勝手に緩む。そっと目を開けると、ベッド脇の椅子に座るその人と目が合った。


「――起きたか。」

「叔父様……」

 微笑むというより、策がピッタリ成功した時の策士のような顔で叔父様が笑う。

 胸を越す長さに真っすぐ伸びたオリーブ色の髪、黒と見間違えてしまいそうな深い紺色の瞳。白いシャツにネクタイを締め、白衣を着た叔父様の右頬には古い傷跡がある。


 この方はノア・ネルソン。

 お母様…ディアドラ・アーチャー公爵夫人の弟だ。五つ下だから、今年で三十二歳になる。上級医師の資格を持っていて、お母様が退職するまでは騎士団本部の医務室にも勤めていた。

 今は王立学園の医務室勤め。

 入学式の日に私がホワイト先生の落下事故に出くわしたのは、式直後に叔父様が医務室を案内してくれたせいとも、お陰とも言う。


「叔父様――いえ、ネルソン先生。私は…」

「急がなくていい。思い出せるか?」

「……薬瓶が割れて、睡眠薬を吸ってしまったのですね。」

「その通りだ。記憶に問題ないようで結構」

 身を起こした私の横で、ネルソン先生は手に取ったカルテにさらさらと何か書きつけた。かと思えば立ち上がり、衝立を周り込んで隣のベッドへ向かう。

 私は反対側に脚を下ろして靴を履いた。


「貴様いつまで寝こけている。シャロンが起きたぞ」

「痛っ、なっ何だ……いってェ!!」

 どうやらそちらにはダンが寝ていたらしい。

 ゴスゴスという音に続いて明らかに人が床に落ちた音がした。慌てて私もそちらへ行って顔を出す。


「ダン?」

「ッ~~……大、丈夫です。」

 四つん這いになったダンは左手で腰のあたりを押さえていた。かなり痛かったんだろう。なのに敬語を絞り出したあたりに頑張りが見えて、心の中で拍手を送ってしまう。実際にやると怒られそうだけれど。

 ネルソン先生はダンそっちのけで私の状態をじろじろ確認している。


「立ち眩みはないな?どこか痛む場所はあるか、喉や気管に違和感は?」

「平気です。ホワイト先生が運んでくださったのでしょうか?」

「あぁ、弓術と薬学の木偶共が――」

「叔父様。」

 ちょっぴり眉を下げて窘めるように呼ぶと、ネルソン先生はぱくんと口を閉じた。ダンがよろよろと立ち上がって靴を履き、皺の寄った衣服を直して姿勢を正す。

 先生はそんなダンを指し、渋々といった様子で口を開いた。


「…イングリスがそいつ、ホワイトがシャロンを運んできた。」

「そうなのですね。」

 手伝いに行ったのにお手数をかけてしまったわ。

 壁掛け時計を見ると五時近くになっていた。地下での作業時間も考えて、寝ていたのは三十分か四十分といったところだろうか。

 帯剣ベルトを身に付けようと荷物置き場を見ると、二人分の鞄の隣に購買の袋がちょこんと乗っている。


「これは…」

「ホワイトからの詫びらしい。」

「まぁ。お気になさらずともよかったのに」

「足りないくらいだろ、生徒を巻き込んだんだ。」

「先生はきちんと、息を止めるよう言ってくださいましたから。」

 しかも私はその対処法を先に知っていたのだ。

 ゲームの設定と違うだけで驚いてしまったのは自身の未熟さで、ホワイト先生の非ではない。


 ダンが鞄を持ってくれて、私はすっかり慣れた手順で帯剣ベルトを締める。愛剣の鞘に軽く手を触れてから、袋の中を覗き込んだ。

 見覚えのあるシュークリームが二つ。くすりと笑って、ありがたく頂く事にした。




「俺とお嬢で対応が違い過ぎだろ……。」


 寮に向かう途中、ダンが不服そうに呟くものだからついくすりと笑ってしまう。

「まだ打ったところが痛い?」

「もう平気だ。」

 あれはダンが雑に扱われたというより、叔父様は身内である私に対して過保護なのだ。

 ベッドから落とすのはやり過ぎだと思うけれど、どうやら男子生徒に対しては普段からそうみたい。

 さすがに女の子にはやらないかといえば…


『あまりに心地良くて、わたくしうっかり二度寝をしかけましたの。そうしたらまあ!エイヤッとシーツを引っ張られてわたくしローリングを!華麗なるローリング・ゾエ・バルニエとなりまして、シーツを失ったベッドに身体全体で着地したのですわ。あれは驚きました…』

『先生は割と細身なのに、よく殿下を転がせたなと。俺も見ていて天晴と思いました。』

『誰が重た過ぎて動かせない巨体ですかっ!』

『言ってませんよ』


 剣術のクラス分け試験の時、そんな事になっていたらしい。

 ロズリーヌ殿下と話せるようになったつい最近やっとそれを知ったけれど、他国の王女殿下を相手にそんな事をしてしまうなんて流石お母様の弟と言うべきか、叱るべきか。


 ゲームでは、カレンがロズリーヌ殿下を庇って階段を落ちた時に医務室行きになる。

 その時一番好感度が高い攻略対象がお見舞いに来てくれるけれど、人によって「うるさい」とか「時間だ」とかいろんな理由で、立ち絵のない名無しの医師が追い出したりする。

 あれがきっと叔父様――ネルソン先生だったのだろう。


 授業の《治癒術》は年配の女性が担当しているから、ネルソン先生は本当に医務室専属だ。

 生徒には魔力が無い子も治癒が使えない子も、使えるけど副作用が強い子もいる。薬で治す方が良い場合もあるし、消毒だけで放置の時も。


 学園といえど体術や格闘術、剣術などの授業では割と頻繁に怪我人が出るのよね。

 もちろん軽傷の事が多いけれど、かつては魔法学で風の刃による大事故が起きた事だってあるのだ。だからこそ欠損すら治せる上級医師が常勤する事になっている。


 ネルソン先生は魔力が八割以上残っていれば、肘と手首の真ん中より先や、ふくらはぎから下を失ったくらいの欠損は治せるそうだ。

 とても時間がかかるしさすがに無痛とはいかないけれど、欠けた部位が腐らずに残っていれば負荷はだいぶ軽いとか。



 中庭に寄り道した私達は、ベンチに腰掛けてシュークリームの包みを開けた。

 甘い香りが広がって思わず深呼吸してしまう。見上げた空は赤みがかったオレンジに染まりつつあった。広い中庭には一人、二人ほど遠くに歩く人がいるけれど、普通に話す分には私達の声は向こうに聞こえないだろう。


「剣術はどう?」

「ジジイが言ってた通り俺には向いてねぇ。けど生徒相手だと、ブン回しゃ大体勝てちまう」

 ダンはチェスターと同じで私より三つ年上。

 背も高いし、ランドルフからは格闘術や体術をメインに鍛えられたので筋力もある。技術のない初級クラスでは当然、敵う者はいないだろう。


 レイクス先生はそもそも、「まずは握り方から変えてこい」とダンを初級に放り込んだのだ。

 仕込杖を使えるランドルフが剣を教えなかったのは、入学までにある程度の戦力として仕上げるには時間が惜しかったから。最初は勉強も礼儀作法も嫌々だったダンが、すぐには本気で学ばなかったからだ。

 今の彼ならどうかと、思ったのだけれど。


「握り方、やっぱり直らない?」

「あれ凄ぇやりにくい。」

「そうかしら」

「そうだよ。初級の教師(イングリス)は、直んねぇなら直んねぇで技だけ持ってけって。上級の奴(レイクス)もそれならそれで良いらしい。」

 随分と柔軟な考え方だ。

 直した方が良くなると思ったけれど、正しい持ち方とされる握りが万人共通とも限らない、と判断されたのね。

 でも、中級のトレイナー先生は渋りそうな話だわ。


「レイクス先生は結構、ダンを買ってくださってるわよね。」

「生徒全員買ってそうなツラしてるけどな。常に笑顔(アレ)だし」

 ダンは格闘術のクラスでレイクス先生に会うけれど、私は授業では会う事がない。

 格闘術の時は体術、剣術上級の時はもちろん中級を受けているから、見学のためにわざわざ休むわけにもいかないし、本当に会わない。たまに廊下などでお会いすると、分け隔てなく挨拶を返してくれる。


「俺の事、《剣を剣と思わぬから面白い》……とか言ってたな。」

「面白い……先生らしいわね。」

「つっても、剣は剣だろ?」

「武器としての扱い方が違う、という事じゃないかしら。剣術を学んだ身からすると。」

「ほ~ん」

 ダンが首をひねる。

 わからないし、わからないままでもいい、という顔だ。まったく。


「まぁ俺が剣で戦うのなんて、お嬢が気絶して代わりに使う時ぐらいじゃね?」

「……壊さないでね。」

「高そうだよな、それ。」

 そっと愛剣の鞘に手を添えた私に、ダンが肩をすくめて言う。

 えぇ、貴方が聞いたら後ろにひっくり返るくらいの値段だと思うわ。飾りの宝石だけで。


「まぁ死ぬよか剣ぶっ壊れる方がマシだろ。」

 それはそうだけれど。

 甘いシュークリームをもくもくと食べながら、私はう~んと唸った。


「ダンは、秋の剣闘大会には出るの?」

 学園内のコロシアムを使って行われる催しだ。素手の参加もできるけれど、殆どの人は剣を持って出場する。

 ちょうど大口を開けてシュークリームをばくんと食べたダンは、あれか、と言いたげに大きく頷きながら咀嚼した。


「…あれな、あれは出る。誰ボコっても良いんだろ?」

「ちょっと言い方が物騒だけれど、そうよ。審査は入るけど武器の持ち込みもできるから、貴方のガントレットも使えると思うわ。」

「らしいな。王子に当たんなきゃ一年の中では多少いけると思う。年齢差あるからズルっちゃズルだけどな。」

「私もいるわよ?」

「……王子とお嬢に当たんねーように祈るわ。」

 そんなに嫌そうな顔をしなくても。


 剣闘大会。


 ゲームでは当然のようにアベルが優勝していた。

 たぶん現実でもそうなるでしょう…というか、彼に勝てる一年生はいないと思う。


 準優勝がバージル・ピュー。

 クラス分け試験でなぜか初級に潜り込もうとしていた、浅葱色の髪の彼だ。王国騎士団八番隊副隊長の息子。普段はおっとりした雰囲気で間延びした喋り方をするけれど、その実力はかなり高い。


 ウィルは中級クラスの中ではトップの五位だった。でも今は既に上級クラスへ入っているから、きっと順位が変わるわね。

 それからチェスターと…サディアスも予選は突破していたはず。


 優勝賞品に関してちょっと――その、色々あったので、ついそちらに気を取られて明確な順位は覚えていない。


「私も頑張らないと」


 当日はネルソン先生も治癒術の先生も忙しくなるでしょうと思いながら、口の中いっぱいに広がる甘さを飲み込んだ。





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