319.胸に湧いた不快感
「二人共、こんな所で何をしてるのかな。」
あくまで小声で冷ややかに言い放ち、アベルは通路に立ったまま腕組みをして二人を眺めた。
四人席の読書スペースでウィルフレッドはきょとんと目を丸くし、反対側に座るカレンは狼狽えたように赤い瞳を彷徨わせている。
「何と言われても。脅威が去ったところとでも言うのかな、カレン?」
「そ、そうなのかな?そうかも……?」
「フォーブズ侯爵令嬢なら下で会った。相変わらずウィルを追ってるんだね」
「あぁ……さっき叫んでいたのはお前に会ったからか。」
ウィルフレッドが納得したように苦笑した。
実家が生粋の第一王子派という事もあり、彼女はアベルを――周囲の人間にとっては、末恐ろしい事に――「魔力無し」と馬鹿にしている節がある。上階まで届いた金切声は、そのアベルに素気無くされたが故だったのだ。
ウィルフレッドの居場所を聞かれたアベルは、「そもそも自分も兄も名前呼びを許可していない」と事実を告げたに過ぎない。
魔力無し風情が侯爵家を蔑ろにするのかと騒ぐものだから面倒になり、一瞬だけ殺気を放って気絶したところを「気分が優れないようだね。少し休ませるといいだろう」などと言っておいた。取り巻きの令嬢は縮みあがったり頬を赤らめたりしていたが、アベルの知った事ではない。
「それより君はなぜここにいる?」
「わ、私は……何か読もうと思ったらあの人達がいて、見つかったらどうしようって困ってたらウィルフレッド様が」
「では本を探しに戻ると良い、僕はウィルに用がある」
「はいっ!」
ピャッと逃げるように通路へ出て、カレンはぺこぺことお辞儀をして去っていった。
ウィルフレッドが少し呆れた様子で頭を傾け、後ろで一つに結った金の長髪がさらりと揺れる。アベルは兄の向かいにどかりと腰かけた。
「アベル、何も追い払うようにしなくてもよかっただろう。彼女は俺が巻き込んだんだ」
「わかってる。でも終わったならすぐ解放してあげなよ。二人でいるのを見られて被害を受けるのは誰だと思ってるの。」
「う……確かに、魔法を解くのが早かったな。俺の考えが浅かった」
「彼女に見られたらどうする気だったんだ。」
シュンとしょげていたウィルフレッドが「はて」と顎に手をあてる。
彼女とは誰の事かと考えたが、学園にいる中でアベルが気に掛ける女性などそう多くはないので、すぐに答えは出た。
「シャロンの事か?」
「他に誰がいるの。」
「見られてどうという事はないだろう、それよりお前――」
「ウィル。だから、もう少し考えて動きなよ。」
「………。」
ウィルフレッドは柳眉を下げて瞬いた。
区切り方と抑揚から強調の意思がよく伝わったので、改めて考えたのだ。
しかしウィルフレッドとカレンが二人で談笑していたところで、シャロンなら花のように微笑んで加わってくれるだろうとしか思えない。三人で和気あいあいと和やかな友達トークをしていたはずで、むしろそれ以外に何があると言うのか。
「……?考えてるぞ。」
「仲を誤解されそうだとは思わないわけ。」
「シャロンが?まさか。俺の事でシャロンがわからない事なんてあるわけないだろう。」
「…すごい自信だね。」
アベルは頭痛でもしたようにこめかみに指をあて、すぐ離した。
爽やかな青色の瞳は自身の主張を一ミリも疑っておらず、それこそが真実であると確信している。平然と言ってのけるウィルフレッドにはある種の傲慢さすら感じられた。
「俺が誰かを愛したら、シャロンにはすぐわかってしまうだろうな。」
「……そんな想像をさせたかったわけじゃない。」
「そうか?それよりお前、自覚があるか知らないけど」
「わかった、じゃあウィルは僕と彼女が二人でいようと出かけようと構わないんだね?」
ウィルフレッドは眉を顰めた。
先ほどからずっと、アベルは冷静な顔で何か諭すような口調で話している。しかし内容がよくわからないし、ウィルフレッドが言いたい事はずっと言えていない。今度こそはと口を開く。
「…アベル。だからお前、なぜそう名前を」
「ウィルフレッド様。」
少し早足で現れたサディアスが遮った。
彼の水色の瞳は眉を顰めたウィルフレッドとアベルを素早く確認する。近付くにつれて聞こえてきた声色がやや不穏で慌てたのだ。
二人が揃って同じタイミングでサディアスを見ると、きちりと姿勢を正して礼をした。
「お待たせ致しました。アベル様もご一緒でしたか」
「僕はもう行く。」
元々、金切声の侯爵令嬢に会ったせいでウィルフレッドの身を案じて探しに来ただけなのだ。アベルがさっさと立ち上がると、困り顔の兄から窘めるような声が飛んだ。
「お前、人の名はもう少しきちんと呼びなさい。」
「――……?じゃあね、ウィル。サディアス」
心当たりが無さそうに片眉を跳ね上げてから、アベルはそう言って踵を返す。サディアスが「はっ。」と再び頭を下げ、ウィルフレッドはやれやれとため息を吐いた。
「何のお話だったのですか?」
「アベルは必要以上にシャロンの名を呼ばないなと思ったんだ。彼女と言うばかりで。」
会話の途中で唐突に「彼女」と言われても困る。
やや眉を下げて弟が去った通路を眺めるウィルフレッドを見つめ、サディアスは黒縁眼鏡の奥でぱちりと瞬いた。
「…どちらかと言うと、ウィルフレッド様が呼び過ぎなのでは。」
「えっ」
図書室を出たアベルは考えに耽っていた。
階段を使って一階に降り、気晴らしに温室向こうの厩でも見に行くかと廊下を歩き出す。
ウィルフレッドが初めて会ったカレンの髪を美しいと褒めた時も、夜会でイェシカ王女をエスコートした時も、オークス家でジェニーに微笑みかけている時も。
それを見つめるシャロンは眉を下げ、時には無理に微笑み、時には泣きそうに瞳を潤ませていた。
なのにウィルフレッドは全く気付かないどころか、彼女はわかってくれると信じている。シャロン以外に気が移った事はないとしても、彼女を悲しませた上にフォローもなかったのは確かだ。
浮気めいた過度な接触ではないため、シャロンは自分の我儘だと思っているのだろう。時折そんな事があってもウィルフレッドに苦言を呈する様子もなく、一人耐えているようだった。
反対にシャロンが他の男性と近づいても、ウィルフレッドはケロッとしている。不躾に近付く輩はさすがに別のようだが。
シャロンがホワイトに貢ぎ物をしたと話し、言い訳のように「ダンも一緒だったわ」とアベルを見た時は、「フォローを入れる相手が違うだろう」と目線で促した。しかし促した先でウィルフレッドはニコニコしていたのだ。
――彼女は気の多い人間ではないし、ウィルに惚れて婚約まで叶った令嬢が他の男に目を向けるわけがない。自信はもっともだが、それが慢心となっては良くないんじゃないか。
ウィルフレッドは未だアベルにすらシャロンとの婚約内定をハッキリ明かさない。
ただ、隠しているかいないかもわからなくなってきていた。先程苦言を呈した時のように、婚約の事を知らなければ言うはずのない事をアベルが言っても特に反応がないのだ。
話が通じているようで通じていない気もするし、通じているのに見当違いの返事をされているだけのような気もする。
先程は半ばやけくそでアベルとシャロンが二人でいたらどうなのかと聞き、ウィルフレッドが顔を顰めた時は「ようやく通じたか」と思った。しかし結局はシャロンの事ではなく、謎の注意を受けただけだったのだ。
ちゃんと話を聞いていたのかと問いたかったが、サディアスの前で説教を続けるのもどうかと思い諦めた。
アベルとしてはこれまで――回避不能だった出来事も含め――少々シャロンに近過ぎた自覚があり、「彼女はウィルの婚約者だろう」と強く言えない節がある。「知っていたなら何故」と詰められたくないのだ。
以前はウィルフレッドに嫌われてもいいと考えていたが、それはあくまで王位継承権や二人それぞれの能力が絡む話だ。内定段階とはいえ、婚約者に横恋慕したなどという嫌われ方は断固拒否したい。事実無根でありとんでもない誤解だ。
スキンシップの多いクリスとの姉弟関係が前提にあるシャロンは、義弟(予定)に対してもやや距離が近い。
そこに関して、この一年でアベルは殆ど説得を諦めかけていた。どうも既に家族認定されているようで、距離を置くと先日のように悲しまれてしまう。人前ではやめろと言い聞かせるのがやっとだ。
とはいえ、さすがに義弟以外の男は別で、シャロンも気を付けるつもりがあるようだ――そう思っていたのだが。
「……何をしている。」
ルーク・マリガン――通称ホワイト先生に対し、アベルは約二か月半振りにその言葉を吐く事になった。
人気の無い廊下を歩いてきた彼は、眠っているらしいシャロンを横抱きにして運んでいたのだ。
「おまえか。見ての通りだ」
第二王子を「おまえ」呼ばわりし、ホワイトは一切悪びれる様子もなく立ち止まる。
彼らの衣服や身体に血の跡も外傷も見当たらないが、シャロンがダンを連れず無防備に昼寝をしていたわけもない。外的要因でそうなっている事は明らかだった。
ホワイトの腕がシャロンの背中に回され、きちんと制服のスカートを押さえた上で膝裏を支えている。意識のない彼女はくったりとホワイトの胸元に頭を預け、寄り添うように密着していた。
胸に湧いた不快感にアベルは少し眉根を寄せる。
まるで不味いものを無理やり飲み込んだかのような嫌な心地だった。あのままにさせるくらいなら自分が運ぶ方が良い、という考えが頭を過ぎるが正当な理由がない。
不快感の原因はわかっていた。
ウィルフレッドが内密にするせいで「誰の婚約者かわかってるのか」と問う事もできないし、生徒を保護したかもしれない教師を頭ごなしに咎めるわけにもいかず、意識のない彼女に「気を付けろと言っただろう、何があった」と問い詰める事もできない。
言いたくても言えない状況が不快感として表れている、それ以外に答えは無かった。
一つ小さく息を吐いて、アベルは普段通りに落ち着いた声音で問いかける。
「見ての通りとは?僕には、君が彼女を害したのか助けたのかわからないんだけど。」
「両方だ」
「は?」
明らかな説明不足に顔をしかめると、アベルの後方でガチャリと音がした。
「ホワイト先生、来てます?」
開いた扉から顔を出したのは、ネクタイのない紺色のシャツを肘まで捲った男性教師だ。前髪を上げて短く刈り上げた銀髪に細い吊り目をしており、弓術と剣術初級を担当している。
彼――イングリスは、第二王子アベルとホワイトを見てなんとなく状況を察した。
「今持ってきたところだ。」
「あー、はい。言い方ちょっとアレだけど、中へ。」
シャロンを抱えたまま、ホワイトはアベルの横を通りさっさと部屋へ入っていく。イングリスは頭をがしがし掻きながらアベルに視線を戻した。
アベルはといえば、この廊下が医務室の前だと今更気付いて少し驚いたが、それを顔に出す彼ではない。
「殿下、すみませんね。あの方ちょっと言葉足らずで。」
イングリスはホワイトより三つ年上だが、あちらは本人が子爵位を持つ公爵令息だ。平民騎士からはとても「あいつ」と言えず、そんな風に言う。
「中にラドフォードもいますよ。寝てるけど」
「結局何なの。」
「棚の整理手伝ってもらったら、睡眠薬の瓶が割れたそうです。たまたま通りがかった俺が音に気付いて、片方運びました。」
「……そう。」
呆れとも安堵ともつかぬ息を吐いた第二王子に、イングリスは三十分もすれば目覚めるらしいと伝えた。事情がわかった以上アベルがここに留まる事もないだろう。
医務室の奥では、口の悪い上級医師がいつも以上に厳しい言葉を吐き散らかしている。
歩き出したアベルの後ろで騎士の礼を取り、イングリスは苦笑いを浮かべて医務室に戻った。




