31.角砂糖は一つ ◆
サディアス・ニクソンは傲慢な子供だった。
屋敷では誰もが父親であるニクソン公爵を恐れ、その嫡男であるサディアスの一挙手一投足にも注意を払っていた。
そんな中で育ったので、ある意味では傲慢になったのは彼一人の責任ではない。
我儘を言えば通り、癇癪を起こせば皆ひれ伏し、誰に暴力をふるっても許された。一重に、彼が生まれながらにして高貴な血筋だからである。
お気に入りのサンドバッグはいつでも彼の傍にいた。
同じくらいの背丈なので、成人している使用人や家庭教師と違って、蹴れば転がるし殴れば倒れる。
常に黙ってそこにいるだけなので、時に「やめてください」だのなんだの言ってくる大人より、それを相手にする方が気分が良かった。
『………。』
それはいつも足首まである長いローブを着て、真っ黒いベールのついたフードで頭も顔もすっかり隠していた。公爵が「見る必要が無いもの」と言うのだ。
それの顔を知る者はいない。男か女かすら。
それは毒味役もしていたので時々倒れた。
否、サディアスがあえて毒を食べさせることがあった。食事マナーを破れば殴られるので、苦しいだろうにうめき声一つあげず、ギリギリまで食べ続けようとする様が可笑しくてたまらなかった。
七歳になったサディアスは魔力鑑定を行い、父親と同じで火の魔法に最も適性がある事がわかった。
誇らしかった。
彼はサンドバッグであるそれに向かって魔法を使おうとしたが、発動しなかった。
まだ七歳なのだから当然の事だったが、燃やす予定だったものが無事なのは不愉快なので、火のない暖炉に向かって突き飛ばした。
倒れたそれに火をつけろと命じたけれど、それを殺すかは旦那様が決める事だと使用人達は言った。
サディアスは納得してその場を後にした。
サディアスに記憶は無いが、まだほんの三歳くらいの時に父親が連れてきて、それに命じたらしい。「いざという時はお前が盾になれ」と。
だから、仕打ちに耐えかねた使用人がサディアスを叩こうとした時、それが飛び出して代わりに叩かれ、床に転がった。使用人は当然、三日三晩鞭打ちにした上で解雇した。
初めて、それを褒めた。
褒めながら蹴り続けた。腹を蹴ったら嘔吐いたが、一滴でも絨毯を汚せばどうなるかわかっているから、それは必死で口元を押さえて丸まっていた。
そして事件は起きる。
サディアスが初めてベールの中身を知った日に、それはいなくなった。
よくやった、と自分を褒める父親の声を聞きながら、その日初めて魔法が使えた彼は呆然と佇んでいた。
巻き込まれた事件に、そこで起きた出来事にさすがに動揺していたのか、黙っていたサディアスはゆっくりと使用人達を見回し――問いかけた。
『父上……この人達は誰ですか?』
公爵以外の誰一人として、彼の記憶には残っていなかった。
まるで、ずっと一緒にいた「それ」を失った事を、「それ」が居たことを、忘れるように。
使用人の中には、今まで自分にした仕打ちを忘れたのかと憤慨する者もいた。
しかし記憶を失った事で改善された自分達の待遇を、下手につついて元に戻そうとする者はいなかった。
サディアスが特別優しくなる事はなかったが、癇癪を起こす事も、理不尽に暴力を振るう事もピタリとなくなった。
あの我儘な性格はどこへ行ったのか不思議ではあったが、事件のショックと記憶喪失が絡んでいる事は明らかだった。
そして、
『お前はニクソン公爵家の嫡男だ。良い成績を残せば王子殿下の従者にもなれる。』
父親のその言葉が、彼の今後を決めていた。
事件でサディアスを救ったのは、父親でも騎士団でもなく、当時僅か六歳の第二王子だったのだ。いつか彼の役に立つため、彼の下で働くためにと、サディアスは寝る間も惜しんで勉強した。
よく知らない使用人の事など構っている場合ではなかったし、子供らしくわめいている場合でもなかった。従者が決まるのは王子の七歳の誕生日。残された時間は限られていた。
従者の仕事の一つは王子の護衛だったから、魔法の訓練も怠らなかった。最適である火の魔法以外も全ての属性を発動できるとわかった時、ニクソン公爵は実に満足そうに笑っていた。
『父上、どうか私を、アベル第二王子殿下の従者に。』
『わかっている。陛下にも希望は伝えてある。』
絶対に彼の元へ行くと、そう心に誓っていた。そのために努力を続けてきた。
サディアスにとっての「王」が誰なのかは、あの事件で既に決まっていたのだから。
◇ ◇ ◇
アーチャー公爵邸の応接室に通された私達は、人数分の紅茶が置かれたローテーブルを囲んでいた。
「……そうですか。それで?」
思い切り顔を顰めて続きを促す。
聞きたいから聞いたというよりは、わかっている事を敢えて聞く事で嫌味としたのだ。
「よければお二方もどう?って。」
恐らくは嫌味をわかった上で、チェスターはまったく気にせずに繰り返した。
アーチャー家のご令嬢が彼の妹の見舞いに行く事、その妹はウィルフレッド様と私にも会えれば会いたいと言っている事。それは既に聞いた。
私が聞きたいのは、なぜそんな事をしなければならないのかだ。
敢えてため息をついてから、私はシュガーポットから角砂糖を一つ、紅茶に落として混ぜる。……なぜかご令嬢に見守られている。
次に使いたいのかと考えて、シュガーポットを彼女の方に押しやった。
「三日後か…ごめん、俺は駄目だ。」
ウィルフレッド様が申し訳なさそうな声で断る。予定が入っているのだから当然だ。続いて自分も断ろうと紅茶のカップから唇を離すと、
「サディアス、俺の分もよろしく伝えてくれるかな。」
信じられない言葉を平然と吐かれて、思わず目を見開く。
「はっ?な…なぜ私が行く前提なんですか。」
カップをソーサーに戻しながら聞くと、ウィルフレッド様は僅かに首を傾げた。
「図書館に行く日なら、問題ないかと思ったんだけど…」
「ウィルフレッド様はともかく、私が行っても仕方ないでしょう。」
「そんな事ないよ~。妹は、今回の事件を解決した三人にお礼を言いたいって事だったし。」
チェスターが余計な事を言ってくる。
なぜ私が彼の妹の気持ちなど汲まねばならないのか。内心舌打ちして、私は眼鏡を指で押し上げた。
ご令嬢がにこにこして「サディアスも来てくれるなら嬉しいわ」などと言っている。…黙っていてほしい。
「ニクソン公爵家の者が、オークス公爵邸に行けるとでも?」
吐き捨てるように言ってやれば、チェスターが目を丸くした。彼の父親と我が父の関係が良好かと言えば、まったくそうではない。
「えぇ?いーじゃんそんなの。君の父上はうちが嫌いかもだけどさぁ。」
苦笑いで言われた言葉に苛々する。
――なぜこんな能天気な男がアベル様の従者なんだ。
「私も貴方は嫌いですが。」
「あらら、はっきり言うねぇ。お兄さん悲しいなぁ」
「サディアス。」
ウィルフレッド様が咎めるように呼んできたが、知らぬフリをする。
従者に任じられたのは確かだが、彼の言う事全てを聞く気はないし、全てに頷く義務もない。
第一、わざとらしく眉尻を下げて「お兄さん」などと言うこの男が、本気で悲しんでいるわけがないのだから。謝罪も訂正も不要だ。
チェスターの顔に諦めが浮かんでいる事を確認する。私が断る事くらい元からわかっていただろう。
最初から形式的なやり取りのみで終わらせればよかったものを。
「う~ん…ねぇ、サディアス?」
「何ですか。」
少し俯いて何かを考えていたらしいご令嬢が、顔を上げて私を見た。紫水晶の色だ。
「つまり、時間はあるのね?」
――予想外の質問に、一瞬言葉に詰まったのが失敗だった。
「よければ一緒に行きましょう!」
この娘は満面の笑みで何を言っているのか。
「よく…ないという話をしていたのですが……。」
「サディアスの意見も聞いてみたかったのよ。あ!えぇとその、お土産についてね!」
何か急に誤魔化すようにわたわたと手を振っているが、土産など好きにしたらいい。
それこそ横でのんびり紅茶を飲んでいる《お友達》のウィルフレッド様にでも相談しておけばいいと思う。私の知った事ではない。
「それに、私達三人に会いたいと言ってくれているのに、行けるのが私だけなんて申し訳ないわ。事件を解決したのは二人なのだし。」
困り顔で笑う彼女の言う事は正しい。
解決のために誰の行動が役立ったかといえば、それはウィルフレッド様と私になるだろう。事件の事で彼女一人が礼を言われれば、当人はさぞ複雑な心境になるのだろうとは思う。
しかしチェスターの妹など正直、本当にどうでもいい。
一生会わなくても構わない。
「…でしたら、ウィルフレッド様が行ける日に調整し直」
「従者の仕事ってことでどうかな、サディアス。」
「――…なんとおっしゃいましたか?」
私は微笑んで聞いた。
「俺の代理もかねるという事で、どうだろう。」
真剣な顔で言い直されて、口元に浮かべていた微笑みが消え去る。…普段は「ごめん」「君には悪いんだけど」くらい言うのに、ご令嬢の前だからか、ウィルフレッド様は少々気が大きくなられているご様子だ。
「サディアス君、諦めようよ。」
この男は私の神経を逆撫でするのが本当に上手い。
「ウィルフレッド第一王子殿下の命令に、アーチャー公爵家・オークス公爵家のお願いだよ~?ニクソン公爵家のご子息は、どうするのかな?…目ぇ怖ッ!」
「……わかりましたよ。」
眉間に深く皺が寄っている事を自覚しながら言う。
第一王子の代理とされた時点で、私に他の選択肢はない。
「行けばいいのでしょう。」
「本当?ありがとう、サディアス!」
ご令嬢が真っ先に声をあげ、テーブルに置いていた私の手を握った。なぜ貴女がそこまで喜ぶのかまったくわからないし、手は離してほしい。
両手でしっかり包まれているせいで、振りほどくのも躊躇われる。平民の娘なら相手の無礼という事で片付けられたものを。
彼女はどうも、私のあからさまに迷惑そうな顔に込められた意図を読み取れないらしい。……もし読み取った上で無視しているのなら、私は大層なめられている。
「ありがとう、よろしく頼むよ。」
ウィルフレッド様が私に握手を求めるような仕草をし、それに気付いた彼女が自然と手を離した。
内心ため息をつきながら「承知しました」と軽く握る。
そしてチェスターを見やれば、なぜか笑みを消していた。
本気なのか、とでも言いそうな戸惑った表情に心底不快になる。
「何ですか。」
「あ!いや、ははは」
誤魔化すように苦笑いして、チェスターは私から目をそらした。
「その、ほんとに……なんていうかさ。」
「私に言いたい事があるなら言ってください。貴方らしくもない。」
普段べらべら喋っているくせに何なのかと思えば、チェスターは言いにくそうに口を開く。
「…咳が出るからさ。うつるから寄るなって、目の前で言った人がいて。」
「そんな…」
ご令嬢が愕然としている。
発症最初期であったとしても、オークス公爵家の令嬢相手に無礼が過ぎる対応だ。驚くのも無理はない。
男か女か知らないが、公爵は二度と関わらせないだろう。
「だからもし…もし気になるなら、無理しないでって言いたくてさ。ウィルフレッド様も。」
「まさか。俺はそこまで愚かではないよ。」
ウィルフレッド様が当たり前のように言うと、チェスターが目を見開き――笑った。
「はは、そっかぁ。いや懐かしいな、やっぱ兄弟だねぇ。」
一人勝手に頷くチェスターに、ウィルフレッド様が首を傾げている。…アベル様も同じようにおっしゃったという事だろう。
あの方がそう言うところを想像して、自然と口元が僅かに緩んだ。
「サディアス君は?」
「言うまでもありません。うつるものではないという事は、貴方や公爵が生き証人でしょう。」
「…そうだね。ありがとう」
私達全員が気にしないと確認がとれたからか、彼は目を細めて礼を言った。
普段からそれくらい殊勝な態度でいてほしいものだ。
三日後のティータイムに伺う事が決まり、やがて夕食の時間が近付いた事もあって私達は解散した。
そもそもは、彼女の様子を見にきたはずが…また妙な事に巻き込まれてしまった。
王立図書館でテーブル下に隠れた時は、私を引っ張り倒し、あまつさえ動くなとばかりに抱きしめてきた。ご令嬢のやる事ではない。
『私も行くわ!急ぐでしょう、早く!!』
私がウィルフレッド様を追うと察して、連れていけとしがみついてきた。見失ってもいいのか、とでも言うような。要は脅しだ。
そして今回のオークス公爵邸訪問…彼女は強引な人間らしい。気を付けなければ、どこまで連れ回されるかわかったものではない。
…ただ。
『――ある程度の覚悟は、元からおありですね?』
『もちろんだわ。』
私の判断を信じると訴えていた、あの目は。
守るべきもののように思えた。




