314.彼はお助けキャラ
月に少し雲がかかる夜中。
女子寮の自室で勉強を終えたシャロンは、教本を閉じるとぐっと両腕を上げて伸びをした。ほどよく眠気も襲ってきている。
立ち上がって窓を開けると、ほのかに湿った木々の香りが広がった。
「――…。」
うっとりと目を閉じた彼女の髪を夜風が流す。
一息ついたところで、使っていたペンの先をさっと洗って水気を拭き取り、明日授業で使う教本を鞄に詰めた。ふわりと吹いた風に夜着が揺れ、なんとなしに窓の方を見やると――封筒が一通、窓枠を越えて飛んでいく。
シャロンは慌てて駆け寄ったが、手は届かず封筒は上空へ舞い上がった。
中に入っているのは父エリオット・アーチャーからの手紙だ。勉強の前に読んだばかりで、机の上に重石もなく置いていた事を悔やんでも遅かった。
「宣言、風よあの封筒をこちらへ!」
風は吹いたが肝心の封筒が飛んでこない。恐らく距離感を掴み損ねて発動場所を誤ったのだ。どうしたものかと窓枠から身を乗り出し、遠く見える白を目で追いかける。
校舎の方でも教会の方でもなく、封筒は学園を囲む外壁に引っ掛かったようだった。
六つある側防塔同士を繋ぐ外壁の屋上通路にかろうじて白が見える。自室が一つでも下の階だったら見えなかっただろう。
シャロンは急いでクローゼットに飛び込み、パンツスタイルの制服に着替えて帯剣した。闇に溶け込みそうな黒いローブを羽織ってフードをしっかりとかぶる。
躊躇いなく窓枠に足をかけ、夜風を受けながら立ち上がった。
窓は片足が乗るスペースを残してギリギリまで閉めておく。外壁まで歩いて側防塔の内階段を上がっても良いが、その間にまた封筒が飛ばされるといけない。狙うは最短距離だ。
「宣言。風よ、私の支えとなりあちらへ飛ばせて。」
シャロンの身体がふわりと浮き上がり、小走り程度の速さだが前へ進んでいく。
身を乗り出す前にも確認したが、夜だけあって人目は無いようだ。月明りを頼りにまっすぐ飛び、ほんの数分で外壁の上へ着いた。
――…よかった。
無事に封筒を手に取り、軽く払ってからポケットにしまいこむ。
すぐ戻ろうと思ったシャロンはしかし、初めて来た場所をつい見回した。頑丈な石造りの外壁。幅は十メートル近くあり、屋上通路の壁は左右どちらも上部が凹凸になっている。
孤島リラの中心部かつもっとも高所に位置するのが王立学園だ。
正門から港までは夜も賑わいがあり明かりがともっているけれど、そこから離れるにつれ明かりは減る。普段わざわざ外壁に登る生徒はいないので、正門以外の方向を見る事もまずない。
シャロンはちょっぴり背伸びをして壁のへこみ部分から顔を覗かせ、外を見た。
果樹園や畑、森が広がっているという情報通り、民家の明かりは少ない。
単に家屋がないだけでなく、朝が早くて既に消灯済みの家もあるからだろう。なんとなく遠くを見つめたシャロンの目は、やがて自然に近場へ、外壁の傍へと動く。
「え……?」
小さく声が漏れて、咄嗟にローブの袖で口元を押さえた。
両脚に魔力を流して屋上通路の床を蹴り、壁のへこみ部分に着地する。外壁から十メートルくらいの範囲は、雑草はいくらか生えているものの見通しはよく木々は無い。そこから先は自然の勝手にしているようで針葉樹が生え、さらにその先は崖。整備されていないので人は登ってこないだろう。
そんな光景の中、座り込んだ一人の男性が木に寄りかかっている。
「――…宣言。風よ」
シャロンは少し迷ったが、意を決して小声で宣言を唱え始めた。
先ほどと同じように自分を浮かせて運ぶだけのもの。男性はぴくりとも動かないように見える。
フードを深く引っ張り、男性の前方に数メートルの距離を空けて降り立った。
剣の装飾はローブで隠れている。細身の男子生徒に見えるよう足は肩幅に開き、胸を張って顎を引く。
シャロンが起こした風の魔法の余波が、男性の長い黒髪を揺らしていた。
「かぴ~………、むぐ………ふ~むむ………」
寝ている。
半笑いになった薄い唇の端からよだれが顔を覗かせ、むにゃむにゃと幸せそうだ。
男性は長髪の後ろ半分をくるりと小さな団子にし、余った髪をそのまま垂らしている。特徴的なのは団子に挿し込まれた君影草を模した銀の簪、そして何より顔の上半分を覆う猫面だ。
動きやすさ重視のためか少しゆとりのある軽装で、シャツにズボン、ベストの生地は下級貴族が使うくらいの質だろう。使い込まれた感があるブーツはよく手入れをされ、黒いマントは敷布団代わりにしわくちゃになっている。
――アロイスだわ。
シャロンが前世でプレイしたゲームのお助けキャラ、自称《謎の男》。
本来は来月にヒロインであるカレン・フルードと出会うはずのアロイスが、なぜか今シャロンの目の前でグースカと眠っている。
柔らかく吹いた夜風に、シャロンはほんの僅か眉を顰めた。
微かに血の匂いがしたような気がしたのだ。しかしアロイスは怪我をしているようには見えない。
君影国の姫の兄であり、何か理由があって国を出たかもしれない男。どうしてツイーディア王国の、それも王立学園にいるのか。
――外壁に居るのはカレンと会う日だけだと思っていたけれど、今いるという事は彼は時々、あるいは一月ずっと外壁をうろついている?その目的は何なのかしら。
男子生徒らしく立ってアロイスを見下ろしているシャロンは、目を細めて唇を開いた。
冷静である事を意識し、落ち着いた低い声を出す。
「……起きているでしょう。」
アロイスの寝息が止まり、だらしなく緩んでいた口元がくすりと笑った。
カマをかけただけだったが本当に起きていたらしい、彼はゆっくりと立ち上がる。
武器の類は無いように見えるけれど、シャロンだって剣の他に投げナイフも持っているのだから油断はできない。
ゲームでは初対面のカレンに友好的だったアロイスが、今世のシャロンに対してもそうかは不明だ。
「――やぁ、これは失礼。」
顔の上半分を覆う猫面のくり抜かれた目は暗く、その奥にあるものが見えない。
実際に会ってみて、あれは闇の魔法が使われているのだとシャロンは察した。黒塗りになっているわけでも、黒いガラスがはめ込まれているわけでもなかった。
アロイスはおどけるように両手を軽く広げる。
「いっそ見なかった事にしてくれないかなと思ってね。」
「それはできかねます。何者ですか」
「私はアロイス。どうかそう警戒しないでくれ、お嬢さん。何もしないよ」
「………。」
まったく疑いの余地なしとばかり少女扱いされ、シャロンはちょっと落ち込んだが顔には出さなかった。
小さく息を吐いて姿勢と声を楽なものに変える。
「そのような格好で夜間に出歩くのは、疑ってくれと言うようなものですよ。」
「ごもっともだけど、そう思うなら君は私に近付くのではなく、人を呼んで来るべきだったね。第二王子殿下に知られたら怒られるんじゃないかい?」
ゲーム画面でも見た、片手の人差し指をピンと立てたポーズ。
シャロンは動揺を心に押し留めた。
女だと見破られただけでなく、アベルと近しい事まで知っている。アロイスの表情は口元と仕草から推し量るしかないが、カマをかけたというよりは確信を持っている様子だ。
薄暗い夜中、顔はフードの影になっていてよく見えないはず。
アロイスは相手がシャロン・アーチャーだとわかっているのだろうか?
「……そちらこそ、こんな場所にいては谷間のヒメユリ様に怒られるのでは?」
「あはは、よくご存知だ。連絡されたしと書かれたやつだね?」
引き合いに出したのは尋ね人の張り紙だ。
君影国の姫がアロイスを探すために掲示させた物で、出身地は谷間、姫の偽名をヒメユリとして書かれていた。アロイスは平然として「連絡はしてあるよ」と言う。
「なぜこちらにいらっしゃるのでしょう、殿下。」
「……それは君達の言い方だな。故郷において私は王子と呼ばれる存在ではないし、普通に呼んでくれると嬉しい。」
一瞬だけ笑みを消したアロイスにシャロンは困惑する。
声色には怒りや呆れこそ無かったが、何とも言い難い苦さが混じっていた。失礼の詫びに小さく頭を下げる。
「では、アロイス様。」
「《さん》でどうだろう。」
「…アロイスさん。何をしていらしたのですか?」
「夜の散歩だよ。私はここしばらくリラに住んでいてね、学園の高さだと島を見渡せるのが良い。」
シャロンを警戒する様子もなく、アロイスは片腕を大きく広げて崖の方を示した。小娘一人、もし襲われても勝てる自信があるのだろう。
――散歩、ね。本当にそれだけなのかしら。
よく見回りに咎められないわね、とシャロンは思ったものの、アロイスの神出鬼没さはゲームで知っている。
仮に見つけても普通の人間では彼を捕まえる事はできないだろうし、見つかって逃げた事があるなら見回りの数は増えているはずだ。
「連絡したと仰いますが、ヒメユリ様はまだ探されているそうですよ。」
「やっぱりそうか。私に会った事は黙っていてくれるかい?」
「お怪我をされた事もですか?」
「私が?いやいや、この通り元気だよ。」
アロイスは笑ってクルリと一回転して見せたが、口元を注視していたシャロンはほんの僅か笑みが引きつったのを見た。
先ほどの血の匂いは気のせいではなかったらしい。
――ご自分で治したのね。さすがに戦闘があったとは思えないけれど、なぜ隠すのかしら。
「黙っていてくれたら、そうだな。もし君達が困る事があったら少し力になろうか。白い髪の子もお友達だろう?」
「……どうしてそこまでご存知なのです。」
シャロンは僅かに目を見開いて聞き返した。
今の段階でアロイスがカレンを知っているのであれば、来月の初登場シーンはどうなるのか。まさか、最初から彼はカレンを知っていたのに、知らないフリをしていたのか。
「街で見かけただけだよ。」
シャロンと友達と言うのであれば当然、二人が一緒に歩くところを見たのだろう。
であればカレンが花のヘアピンを買ったあの日か、シャロンに扮したジャッキーがアベルに捕まった時だ。カレンはアベルと一緒にいたのだから。
「そのお姿でですか?」
「もちろんそうさ。私は謎の男だからね。」
堂々と言うアロイスは嘘をついているのか本気なのかわからない。シャロンは目を細めた。
ゲームでは重要な情報をくれたり、危険なところで主人公であるカレンを助けたりしてくれる。
カレンのためを思えば、友人とバレている自分がアロイスを警戒し過ぎるのも良くはないだろう。こそこそ何をしていたのか本当に気になるけれど、言うつもりはなさそうだ。
アベルも君影国の姫に義理があると探してはいたけれど、シャロンが知っている事を無理やり聞き出そうとまではしなかった。
「……わかりました、ヒメユリ様には内緒に。」
「助かるよ。」
「彼女にさえ伝わらなければ、第二王子殿下にお伝えするのは構いませんか?」
「――……彼か。」
アロイスはほんの僅か悩む素振りを見せたが、すぐに首を横に振った。
「謎の男という職業に対して天敵過ぎるから、駄目だね。」
「職業だったのですか、謎の男……」
「ヒメユリと彼が会った事も知っているし、もちろん良くない人物だと思っているわけでもないよ。けれど私が会うのはまだ早い。……お嬢さんは、彼を助けたいかな?」
「……助けになりたいと思います。」
どういう意味でしょうか、本当はそう聞きたかったがシャロンはそう答えた。
はぐらかされて話が終わったらまずいと思ったからだ。助けたいと言った先に何を言われるのか知りたかった。
アロイスは最初から答えを知っていたかのように微笑んでいる。
「もし私に用ができた時は、喫茶《都忘れ》でテオという店員に言付けを。濃い紫色の髪で、目元を隠した男だ。」
「……はい。わかります」
シャロンは思い返すように視線を横へ流して言った。
あの店へ行って対応してくれるのは大体がホール担当の女性だが、カウンター内にいる男性の姿も覚えている。
「私の名は出さずに、「小鳥便の七番をお願いしたい」と言えば手紙を預かってくれる。」
「小鳥便の、七番。」
忘れないようにシャロンが繰り返す。
アロイスが決して自分の名もシャロンの名も書かないよう念を押してきたので、シャロンは宛名を書かず自分はルイスという偽名を使うと答えた。
「私には学園へ手紙を預けて頂ければ、寮まで届くようになっています。確認は基本的に夕方以降になりますが……、失礼しました。そのご様子では知っておられるようですが、私はシャロン・アーチャーと申します。」
「これはどうもご丁寧に。」
シャロンの一部の隙も無い淑女の礼に対し、アロイスは名乗りに驚く様子もなく気さくに頭を下げた。長い黒髪がさらさらと流れる。
姿勢を戻した二人は互いを見た。
顔の向きからして恐らくじっと見つめているだろうアロイスを、シャロンは真剣な表情で見つめ返す。
「シャロン。あまりお勧めはしないけど」
月に雲がかかり、闇が広がり始めた。
黒髪に黒いマントを着たアロイスの姿が周囲に溶けていく。
「君が全てを懸けるなら、きっと願いは叶うだろう。」
雲が途切れて明るくなった時にはもう、彼の姿はどこにも無かった。




