30.俺達の杞憂
ちくちく。
「お母様」
「なぁに、シャロンちゃん。」
ちくちくちく。
「どうして言ってくださらなかったのですか?騎士団に勤めていらっしゃったこと。」
ちく。
視界の端でお母様が手を止めたのが見えて、私は刺繍枠から目を離し顔を上げた。
「そうねぇ…聞かれなかったから……?」
自分の頬に手をあてて、お母様は小さく首を傾げている。
「私が剣を学びたいと言った時、教えてくださってもよかったではありませんか。」
「お父様が、師を手配するっておっしゃっていたでしょう?じゃあ私はいいかしらねって。」
「そ、そうですか……」
お母様らしいと言えば、らしいのだけれど。
よくよく思い返してみれば、あの時「将来騎士になりたいのか」と聞かれたわね。もしも私が気付ける要素があったとしたら、辛うじてそこくらいではないかしら。
「それに教わるなら、私よりレナちゃんの方が良い先生だと思うわ~。」
れなちゃん?
つい首を傾げたけれど、たぶん…きっと、恐らく、レナルド先生の事ね。
「私は戦い方も特殊だから、剣の基礎を学ぶには微妙なのよ。」
「特殊、ですか?」
お母様が再び手を動かし始めたので、私も針を布にくぐらせながら聞き返した。
「剣以外にも武器はあるという事ね。シャロンちゃんが社交デビューする頃には、ちょっとだけ教えてあげるわね。」
「社交デビューと関係が……?」
「ふふふ、あれは戦場ですもの。」
お母様は朗らかに笑っているけれど、社交というとまずはダンスやお茶会よね。
それが戦場となると、暗殺の危険の話とか?
「恋に嫉妬に政略に、面倒事はつきないわぁ。」
「そちらの戦いでしたか…」
「えぇ。私もお父様と婚約してから、ご令嬢からの呼び出しに暗殺者に暴漢にと色々あったもの。」
どの道命は狙われるのね。
私自身は大人しくしたいと思っていても、公爵家の娘である以上は、私の相手が誰かという話題も出るでしょうし。
いずれは否応なしに、そういうものに巻き込まれていくのだろう。
「お母様はどうして騎士団に?」
「学園に剣術の授業があるでしょう?そこへいらした騎士団の方に認めて頂いたのよ~。」
「卒業前から声がかかる事もあるのですね。」
「騎士との模擬試合で五戦四勝してね。」
……私が思っていたよりずっと、お母様は強いのかもしれない。
もちろん騎士隊長を務めたという時点で、ものすごく強いはずなのだけれど。のほほんとしたお声を聴いていると、そんな話は夢幻だったのでは?とも思ってしまう。
「卒業後の事はそれまで深く考えていなかったのだけど、夜会とかで旦那様を見つけるよりは、楽しい事したいわ~って。そう思ったのよねぇ。」
「そうしてお父様と出会ったのですから、お母様の選択は正しかったのですね。」
「ふふ、そうよ。」
お父様誘拐事件の話を思い出してしみじみ言うと、お母様は悪戯っぽくウインクする。
「シャロンちゃんもいつか、最高の恋人を見つけてきてね。」
「…頑張ります……。」
「学園で知り合った人と結婚するパターンも多いわよ~。」
「はい…」
ちょっと自信がないわと思いながら、私は誤魔化すようにちくちくと針を動かした。
学園で主人公が誰と恋をするかなんて今はわからないし、その恋路を見守りたいし、事件も防ぐなり解決するなりしなくてはいけないし。
王立学園は十三歳になる年の四月に入学し、四年通って十七歳の年の三月には卒業する。
でもツイーディア王国の成人は十六歳だから、卒業前から社交は始まるのだ。最後の一年は恋人探しに注力する生徒もいるのだとか…むむむ。
話題を変える事に決めて、私は自分と同じ薄紫色の瞳を見上げた。
「お母様は、私と同じ水の魔法が最適なのですよね?」
「そうよ。」
「スキルはお持ちですか?」
「あら、スキルなんてよく知ってるわね。学園で習うのに」
「ニクソン公爵家のサディアス様から、教えて頂きました。」
お母様は納得したように頷いて言った。
「あるわよ、スキル。」
「本当ですか!?ど、どんな…」
「宣言」
刺繍枠をテーブルに置いて、お母様が呟く。
まさかこの場で見せてくれるのかと、私は息をのんで見守った。
「水よ散れ。今、ここに。」
何かを誘うように、お母様が片手を空中へ差し伸べる。
ほんの数秒で、部屋の中を真っ白な霧が覆った。
「き、霧…!?」
私が驚いて声をあげると、お母様が差し伸べていた手をふっと横に切る。
するとたちこめていた霧はあっさりと、溶けるように消え去った。……なんて幻想的で、素敵な魔法。
「すごいですお母様!」
「うふふ、ありがとう。隊長時代は《血霧のディアドラ》なんて呼ばれていたわ~。」
「……す、すごいです……」
由来を聞くまでもなさそうな名前に笑顔が引きつる。前線で戦っていたのね……。
そこでふとお父様の顔が浮かんだ私は、身振り手振りであの時の事を伝えてみた。
「お父様の…こう、人をぺたんと床に…あれもスキルなのですか?」
「そうよ。名称をどうするかでちょっと界隈がもめたそうだけど、あの人が風で使う事が多いものだから《重圧》と呼ばれているわ。」
お母様の話を聞いて、引っかかる。
風で使う事が多い?
「お母様…スキルは、属性は関係なしにできるのですか?」
「基本的にはね~。ただ、スキルとどうしても合わない属性なんかは、うまく発動しない事もあるわ。たとえば――宣言。」
再び空中に手をかざして、お母様が唱える。
「風よ散れ。今、ここに。」
けれど、何も起きなかった。
ね?と首を傾げて、お母様が私を見る。
「私は《分散》だから、風とは合わないわね。」
「そうなのですね…」
組み合わせられるという話も聞いたし、スキルはとても奥が深い……私もいつか、自分のスキルが使えるようになるのかしら。
サディアスはスキルがない方が多いとも言っていたから、使えないままの可能性も勿論あるけれど。
「ふふ。お勉強になったかしら?」
「はい!とても…ありがとうございます、お母様。」
「じゃあ、ここからは集中しましょうね。」
手元の刺繍枠に視線を戻して、私は元気よく返事した。
◇
馬車に揺られながら、俺とサディアスはアーチャー公爵邸へ向かっていた。
ヴィクターとセシリアはそれぞれ馬に乗って馬車の前後を守っている。
授業の後に騎士団の聞き取り調査を受けていたら、あっという間に夕方になってしまった。
もうティータイムはとっくに終わっているけれど……昨日あれだけ泣いていた彼女が今日いつものように庭へ出ていたかはわからないし、これでよかったのかもしれない。
会えないと言われる可能性も考えて、先に使いを出して伺いを立てた。返事はぜひ会いたいとの事だったけれど、本当に大丈夫だろうか。
『ごめんなさい…』
泣きながら謝り続けるシャロンの姿を思い出すと、今でも胸が苦しくなる。
彼女は何も悪くない。俺が飛び出したのを心配してついて来てくれただけなのに。俺がもっと、シャロンの事も気にかけてあげられていれば。俺がしっかりしなければいけなかった。
『――強くなりなさい。』
アーチャー公爵の言葉を、
『悩んで足を止めるより、考えながら歩かねば!』
セシリアの言葉を、この胸に受け止めて。
シャロンがどんなに悲しい顔をしていても、俺達に謝ろうとしても、きっぱり告げて安心させられるように。
膝に置いた手を握り締め、じっと前を見つめる。
――俺は強くなって、次こそ君を守ってみせる。
「随分と思い詰めた顔をされていますね。」
不意に話しかけられて驚いた。
斜向かいの席に座るサディアスがこちらを見ている。かと思えば、彼は眼鏡を指で押し上げながら目をそらした。
「…失礼。余計でした。」
「そんな事はないよ。君の言う通り、確かに緊張していた…シャロンはどんな顔で俺達を迎えるのかと思うと、ついね。」
「昨日の続きで、また謝罪にならなければいいのですが。あれは聞き飽きましたので。」
呆れを表すように軽く息を吐いて、サディアスはそんな事を言う。
女の子が泣きながら謝るのを「聞き飽きた」なんて……「そんなに謝る事はないのですよ」とか何とか、言えないのだろうか。相変わらず棘がすごいな。
「サディアス、きつい言い方は控えてあげてほしい。」
「御意に。……別に、きつく言っているつもりはありませんが。」
窓の外を流れる風景を眺めながら、サディアスはトーンの変わらない声で答えた。
シャロンは優しいから普段は多少聞き流してくれるけれど、怖い思いをして傷ついている今ならどうかわからない。二日連続で友達の涙を見るのは嫌だ。
しつこくじっと見つめていると、サディアスは諦めたように「気を付けます」と言った。
「君だって、シャロンの様子が気になったから一緒に来てくれるんだろう?」
「まぁ、彼女が人質に取られて怪我をしたのは、私の責任ですので。」
その答えを意外に思って、俺はなぜそう思うのかと聞き返した。
「ウィルフレッド様はその時戦闘中でしたが、私は彼女と老執事の傍にいました。」
俺と目を合わせないまま、サディアスは静かにそう言った。
気付ける距離のはずだったと。
……それはたぶん、俺さえいなければ、君が俺の従者でなければ、君は彼女を守っていたと思う。
頭に浮かんだその言葉を飲み込んで、俺は黙って彼の言葉を聞いていた。
「伯爵邸へ彼女を連れてきたのも私です。不可抗力ではありましたが…もし彼女がまだ、昨日のように自分のせいだとわめいているのなら。それは勘違い甚だしいと言わねばなりません。」
「……そうだね。」
俺は苦笑いしてサディアスから目を離した。
言葉は少しきついけれど、「自分のせいだなんて言わないでほしい」、その気持ちは俺と一緒みたいだ。
アーチャー公爵邸はもうすぐ。
シャロン……君の気持ちが暗いなら、それを少しでも晴らしてあげられたらいいのだけど。
「ウィル!サディアス!」
俺達が馬車から降りてすぐ、玄関から駆けてくる彼女を見て――驚いた。
その表情には、悲壮感なんてまったくなかったから。
「昨日はごめんなさい!」
シャロンは俺達が止める間もなく頭を下げ、そしてすぐに顔を上げた。
「私、何の役にも立てなかったわ。…だからこそ、次があった時のために強くなる。」
そう言う彼女の瞳は既に、強い。
…暗く沈んでいるかもなんて、失礼だった。シャロンはもうとっくに、未来へ向けて決意していたんだ。
「足手まといにならないように。そしていつかは私だって、貴方達を守れるように。」
呆然と彼女を見つめていた自分に気付いて、つい笑った。
圧倒されていたんだ。俺の大事な友達は本当に強くて、優しくて、素敵で、格好良い。
「本当に…シャロンには敵わないな。」
「え?」
彼女がきょとんと首を傾げる。
それはただの愛らしい少女の仕草だった。ほんの数秒前までは、まるで騎士のような強さを見せていたのに。
「二人に守られてばかりだったと思うのだけれど…敵わないって、何がかしら?」
「はぁ……理解しがたい人ですよ、貴女は。」
サディアスがため息混じりに言って、シャロンは改めて不思議そうに俺達を見回した。
そこへ一頭の馬が駆けてくる。
操っている青年は、見覚えのある赤茶色の髪で。
「チェスター?」
シャロンが驚いた様子で声をかける。
馬上で大きく手を振った彼は、軽やかに馬から降りてこちらへ歩いてきた。
「やっほーシャロンちゃん☆…と、ウィルフレッド様、それからサディアス君?噂の三人がちょうどお揃いだねぇ。」
「どうしたの?もしかして…」
アベルの従者であり、オークス公爵家の長男である彼は、どんか用事でここへ来るのか。
心当たりがあるらしいシャロンが言葉を途切らせると、チェスターはぱちんとウインクした。
「そのとーり!妹のオッケー出たよ。三日後でどう?…もしよければ、そちらのお二方も。」
……妹?
今度は、俺とサディアスが首を傾げる番だった。