29.大人は秘密ばかり
目が覚めた時には、私は自室のベッドの上だった。
「――…私…」
喉がカラカラだ。
重たい頭をゆっくりと横向きにして、ベッドに腕をついて起き上がる。
ひとまずサイドテーブルの水差しからグラスへ水を移して、喉を潤した。窓の外はもうすっかり暗くなっている。
数か月前…前世の記憶を思い出した時も、こんな風にベッドの上だったわね。
『動かないで頂きましょうか、第一王子殿下。…お前も動くな!その場から動いたり、宣言を唱え始めたら…わかりますね。』
伯爵邸での事を思い出して、ぎゅっと顔を顰める。私はあの場所で何の役にも立っていない。
…数か月、何をしていたのかしら。
体の動かし方は少し覚えたはずだった。でも執事の存在を忘れてしまった上に、捕まったらもう何も抵抗できなかった。
素振りを続けて、剣を持ったままでも長く行動できるようになったはず。でも、技術はまだこれからで。
魔法なんて、どうしたらいいか全然わからなかった。
「……ぜんぜん、駄目じゃない。」
じわりと涙が浮かぶ。
『もしもの時……自分に力が無いせいで誰かが傷つくのは、嫌だもの。』
アベルにそんな事を言ったくせに、結局私のせいでウィルが傷ついた。
サディアスも余計に魔力を消費して、私があの場にいなければ、事態の収拾はもっと早かったかもしれないのに。
『自分の力量は常に弁えておくといい。下手な手助けほど無駄なものは無いよ』
貴方の言う通りだわ、アベル。
私も一緒に行くなんて、言わなければ――……いいえ。
膝の上に置いた手を握り締める。
私の失敗は伯爵邸へついて行った事ではなく、自分に何ができるか考えられなかったこと。
攻撃できないなら自分が狙われる可能性を考えるべきだった。執事の存在を失念したのはもってのほかだし、ウィル達が注意を引いている間に身を隠すなり距離をとるなりするべきだった。
すん、と鼻をすすって、私は頬を濡らす涙をハンカチで拭う。
顔を上げて、しっかりと前を見なくては。
今の私では実戦でまったく役に立たないとわかったのだから、引き続き鍛錬は行うこと。学ぶこと。考えること。もう二度と同じ事になりたくないのなら、
「――しっかりしなさい、シャロン・アーチャー。」
少しだけ鼻声で、私は自分に言い聞かせた。
伯爵邸の食堂で見た、お父様の広い背中を思い出す。たった一声でその場を制圧した、強力な風の魔法。私はあの人の娘なのだ。
私もそのうち、水でドーンってやれるようになるわ!…きっと。
うん、と頷いてベッドから降りる。
剣術はまさかの騎士だったレナルド先生が教えてくれる予定だし、魔法については……サディアスから教わる事は多そうだけれど、あまり時間はとってもらえないだろう。お父様だって同じ事だ。
お母様は…どうか聞いてみようかしら。確か、私と同じ水の魔法が最適だったはず。実戦経験はどうあれ、きっと学べる事がある。
後はアベルに身体の強化について相談したいし、治癒の魔法だってできるようにならなくては。
「大丈夫、やれる事は沢山ある。そう、まずは…」
くぅうううう。
まずはご飯よ!
なんて、いつかと同じ流れをたどっていたら、部屋の扉がノックされた。
「シャロン様、起きていらっしゃいますか?」
「メリル!起きているわ。」
「あぁよかった!」
返事をすると、サッと扉が開いて小さな配膳車を押したメリルが入ってきた。
伯爵邸でお父様に泣きついてる時、メリルは先に屋敷に帰らせたとは聞いていたけれど、私が彼女を待機所に置き去りにしてしまったのは間違いない。速やかに頭を下げた。
「その…ごめんなさい!」
「まったくです!も~~!!」
メリルは地団駄を踏みそうな勢いで頭を横に振りつつ、テーブルまで配膳車をカタカタと押してくる。
「心配したんですからね」と私を詰めながら準備してくれたのは、一人分の夕食だった。蓋を開けてもらうと、ほかほかと湯気が上がる。
「さ、召し上がってください。お腹が空きましたでしょう?」
「えぇ、ありがとう。」
私は食事をとりながら、あの後何があったのかを軽く教えてもらった。
お父様は騎士団に状況の説明と指示をしてから、そのまま次の仕事に向かわれたこと。お母様もあの屋敷に来ていて、私を馬車で連れ帰ってくれたこと。その時ランドルフが血相を変えて出迎えに走ってきたこと。
「ウィル達は、大丈夫だったのかしら。」
「護衛騎士の方もいらっしゃったそうですし、打撲も治癒の魔法ですぐに治ったそうですよ。」
「そう…」
アベルは、解放されたのだろうか。
メリルがそこまで教わっているとも思えなくて、私は黙ってスープを口に運んだ。剣という物的証拠にあれだけの証人がいれば、きっと大丈夫だろうとは思うのだけれど。
「シャロン様」
「なぁに?」
「怖くは…ありませんでしたか?」
オレンジ色の瞳が、どうか無理をしないでほしいと、言ってくれていた。それを見て鼻がツンとしたけれど、私は誤魔化すようにサラダを口に運ぶ。咀嚼した物をこくりと飲んで、結局は力なく微笑んだ。
「とっても怖かったわ。」
「…でしたら、もう」
「でもね。私が怖くて動けないせいで、誰かが傷つく方がもっともっと怖くて……だから、大丈夫よ。もうそんな事にならないために、まだまだ鍛錬を頑張るの。」
「……そうですか。」
シャロン様らしいですねと、メリルは苦笑いした。
「お父様は反対なさるかしら?」
「きっと奥様が説得してくださいます。」
私が食べ終えたと見て、メリルは話を続けながら食器を下げ始める。
「それに旦那様も、騎士隊長様を奥方に迎えられたわけですから。危ない真似は駄目、とばかり言っても意味がないとはわかっておられるかと。」
「そうね、騎士隊長様を…」
え?
「メリル?」
「はい?」
「お母様は…二人目の奥さんなの?」
「はい??」
メリルの声が裏返った。お互いに「何を言っているのかしら?」という顔で首を傾げる。
「騎士隊長様って…」
「ディアドラ様の事ですが……」
?
……!?
「えぇぇぇえええええ!!?」
私は絶叫した。
あまりの大声にメリルは飛び上がり、ランドルフがすごいスピードで駆け込んできたほどだった。
その後は案の定お説教タイム…
いえ、はしたなく大声を出してしまった私が悪いのだけれど、誰か…もっと前に誰か、教えてくれてもよかったのではないかしら。
「すみません、シャロン様…まさかご存知でないとは……」
「いえ、私も改めて聞いた事はなかったから…」
しゅんとするメリルにそうは言いつつも、こめかみを手で押さえてしまう。
今すぐにでもお母様の部屋へ行って聞いてみたかったけれど、ランドルフが言うにはお手紙の返事をしたためているとかで、「聞きたい事があれば明日ね~」とおっしゃっていたそうだ。
「お母様はごく普通の侯爵令嬢として過ごしていらしたのだろうと、そう思い込んでいたの。」
「ご結婚される前の事は、私も噂でしか知りませんが…ネルソン侯爵家のご令嬢といえば、王立学園でもかなり有名だったそうですよ。とってもおモテになったんだとか!そして誰にも振り向かなかったとか…」
メリルと二人でなんとなく天井を見上げてしまう。
若い頃のお母様…いえ、今もまだ三十代なのだけれど。ほんわかした雰囲気の方ではあるものの、押しの強い男性を断れないタイプかと言ったら、それは否だ。きっぱり切り捨てていただろうなと思って、私達は同時に頷いた。
「騎士団では隊長職を務められ、当時の部下が今の騎士団長様と副団長のベインズ先生です。」
「はい!?」
思わずまた大きな声を出してしまって、私は自分の口を手で押さえた。先ほどの叫びよりは全然小さいから、ランドルフが駆け込んでくる事はないはず。
「レナルド先生は副団長なの?」
「そうですよ?」
「ど、どうして皆私に黙っているの…!」
「黙っていたわけではないのですが…改めて考えると、習っているのはまだ騎士団長様のお名前くらいでしょうか…?」
私は頷いた。
今はティム・クロムウェル様が務めておられるはず。お顔は知らないけれど…。
「というか、お父様…娘の特訓に副団長を連れてくるのはどうなのかしら……いえ、それよりレナルド先生と騎士団長がお母様の元部下で…?お母様が騎士だったならなぜ直接剣を教えてくださらないの……?うう、頭が混乱してきたわ。」
「シャロン様、お気を確かに!」
でも確かに、お母様が騎士だったなら以前聞いた、二人の出会いはお父様を攫い返す時だった…なんてよくわからない話も納得できる。
きっと騎士団の任務として救出に向かったのだろう。
「大人は…大人は秘密ばかりだわ……」
私は枕を抱き込むようにしてくすんと鼻をすすった。
「決して秘密にしていたわけでは……」
メリルが苦笑してそう言うけれど、私だけ知らない事が多すぎる。こんな時はクリスを抱きしめて一緒に眠りたいけれど、これだけ話し込んでしまっていては、あの子はもう寝ている時間ね。
そしてお母様が直接教えてくださらないのはきっと、淑女のお勉強が優先だから。
仮にもアーチャー公爵家は王族以外では最上位と言われる血筋…お母様は社交でとっても忙しい。
午前中は私に時間をとってくれる事も多いけれど、昼食以降は社交に費やしたり、お父様の代わりに公爵領へ行く事だってある。
午前の時間を剣や魔法の実技授業にしてくれるかといったら…
『女性としての嗜みもまだお勉強途中なのですから、時間は限られますよ。』
……駄目ね、きっと。
だからって、副団長のお時間を私に使って頂くのかという申し訳なさが……。
「ぅぅううううう…」
「シャロン様、どうか元気を出してください!ね!まずはベインズ先生との約束を!」
「そうね…まずはそこからだわ。」
素振り五千回。
そこに到達したら改めて剣術の指導をしてくれると、レナルド先生はおっしゃった。
もちろん体術を教わった時ほどしょっちゅうではないでしょうし、副団長と知った今ではそんな時間あるのかしら、休日を潰すのでは?というヒヤヒヤ感しかないのだけれど…
私だって、本当に強くなりたいと思っているのだから。
「今日は…とても情けなかったけど。次は少しでも動けるように、頑張るわ」
「…はい。応援しておりますよ、シャロン様。」
目を細めて笑ってくれたメリルに、ありがとうと微笑み返した。




