297.王子様が褒めるくらい
背筋をぴんと伸ばし、けれど少し心細そうに胸元で両手を握りしめて、ドレーク王立学園の制服を着た少女が歩いている。
フードの内側にはさらりとした薄紫の髪、小さな唇はツヤのあるリップで愛らしく彩られ、柔らかな頬は適度に化粧で整えられていた。ぱっちりとした長い睫毛が影を作る薄紫の瞳は、一人で街に来たらしい背の高い男子生徒を追っている。
のんびり歩いている彼を見つめ、少女は少し早足になった。
フードの端を引いて深くかぶっている事を確かめ、前髪を軽く撫でつける。「んんっ、」と小さな咳払いをして、まだこちらに気付いていない彼に声をかけようと、細い腕を伸ばした。
「こんな所で何してるの。」
横から手首を掴まれる。
少女は目を丸くしてそちらを見たけれど、相手が――第二王子アベルが、あまりに自然な動きで誘導するので抵抗できなかった。
優しく握られた手首が引かれるまま、少女は大通りから離れていく。声色と表情から彼が怒っているのではなく、心配してくれているらしい事はわかった。
けれど、どこへ行くのだろう。
「殿下?どちらへ…」
聞きかけたところで、ぐいと引っ張られ誰もいない路地裏に連れ込まれた。
え、と思ってももう遅い。
掴んだ手首は少女が背にした壁へ軽く押し付けられ、すぐ目の前にアベルがいる。
「……どうなさったのですか?」
顔を真っ赤にして俯くでも、恐怖に身をすくませるでもなく、少女は困ったようにちょっとだけ眉尻を下げた。普段こんな事しないでしょう、とでも言いたげに自分の手首を見て、金色の瞳を見返す。
アベルは目を細め、美しく微笑んだ。褒めるようだった。
「随分とつれないな、アーチャー公爵令嬢?」
「まぁ……ふふっ。」
わざとらしく演技がかった声に、少女は空いている手を口元に近付けてくすりと笑う。花がほころぶように優しく微笑み、少しだけ悪戯っぽくアベルを見上げた。
「内緒のお話ですか、アベル第二王子殿下?」
「僕が贈ったプレゼントは、今日はつけてくれなかったのか?」
優しく囁くような声。
そっと少女との距離を詰め、アベルは慣れた手つきで長い髪を横へ流す。左耳を指先が掠めて、少女は僅かに身じろぎした。こくりと小さく喉が鳴り、緊張を隠すように片手を胸元で軽く握る。
「えぇ、今日は。本当は、毎日でもつけていたいけれど。」
「僕が王になるまで、ずっと?」
「許されるなら、貴方が王になってからも。」
当然でしょうとばかり、少女は小首を傾げて微笑んだ。アベルもつられたように笑い――冷えた目で少女を見据える。
「本当に、声も仕草もよく似せたものだ。」
「えっ?」
聞いた瞬間に誰しも凍りつくような声だった。
もう笑っていないアベルは少女の手をぐいと引き寄せ、一瞬で後ろ手に捻って細い身体を壁へ押し付ける。
「痛っ!」
「それが地声か?」
僅かに低くなった声を聞いてせせら笑うと、少女は否定しようと口を開いた。しかしガツン、と目の前に突き立ったナイフを見て血の気が引く。喉がヒュッと音を立て、背中にじっとりと嫌が汗が滲んだ。何か言いたくても声が出ない。
「……ッ、ぁ……!」
「僕を騙そうとした度胸は認めてやる。演技も中々応用が利いて上手かったよ。けど……、………?」
アベルはだんだんと怪訝な顔になり、壁に押し付けていた少女をグイと引っ張った。
逃げないようにローブを内側の制服ごと握って正面から眺める。偽物を拘束できたと見て、物陰に隠れていたカレンがたったったと駆けてきた。
「捕まえたんだね!すごくハラハラしたよ、ア……殿下が、シャロンを襲ってるようにしか見えなくって……!」
「…人聞きの悪い事言わないでくれる。」
アベルは不服そうに眉を顰め、犯人を捕らえたまま一歩横へずれる。
カレンの赤い瞳が改めて偽シャロンを見て――…彼女の胸の膨らみが、お腹の辺りまで落ちている事に気付いた。
「はぁ…はぁ……?」
脅された恐怖で汗びっしょりの少女は、二人の視線を辿って下を見る。
腹部に感じる柔らかい感触、シャツの下ではズレた布が斜めになり、背中側でちゃんと留めていたはずの金具がプラプラしていた。壁へ押し付けられた時に外れたらしい。
一つ瞬きして、少女は化粧のよれた顔を上げた。金色の瞳も赤い瞳もどっちも怖い。
「……ふっ。」
彼女は何か吹っ切れたように笑うと、「ん゛んっ。」と音の低い咳払いをする。マスカラが落ちて汚れた片目を瞑って、パチンと指を鳴らした。
「つまり、王子様が褒めるくらい俺ちゃんはスゲーって事ぶごぁッ!!」
かなり手加減された拳で少女――否、女装少年が宙を舞う。
化粧が崩れたとはいえ、仕草と表情でここまで別人に見えるものかと、カレンは一つ勉強した。
◇
「お……男、だと………?」
場所は移り、王立学園のサロンにて。
床に正座させられた少年を前に、ウィルフレッドは青い瞳を丸くして呟いた。左頬が腫れた少年はグッと親指を立てて笑う。
「そうです!こんちは、王子様!俺ちゃんは同じ一年でジャッキー・クレヴァリーっての。よろしくぁあああすいません調子乗りました助けて!!」
無言で一歩進み出たアベルから逃れるように床を転がった彼をしげしげと眺めて、シャロンは片頬に手をあてて瞬きした。
表情も仕草も少年なのでいまいち想像しづらいが、崩れた化粧からは確かにシャロンに似ていたのだろうと推測できる。薄紫色の髪と瞳は並び立つと割と違う色なのだが、単体で見れば知り合い程度の人間には見分けられないだろう差だった。
「えぇと、髪は地毛なのですか?」
「あーっとね、これはちょっと染料使って薄く見せてる。俺ちゃんも元から紫だけど、そっちより色濃いからさぁ。目は元々コレ!」
「じゃあ魔法使わないでシャロンちゃんになりきってたって事?」
「んや、さすがにちびっとは使ったよ、魔法。でも今は使ってない、けど似てるだろ?身長、骨格、顔立ち、髪と目の色……それがいっちばん俺ちゃんと近いのがそこのお嬢様だったってわけ!」
ジャッキーと名乗った少年は、にかーっと、実に楽しそうに笑っている。
ウィルフレッドは静かに眉間に指をあて、ソファに座った。
「……待ってくれ。君はもしかして、変装が楽なら誰でもよかったのか?」
「まぁ、楽な方がいいじゃん?」
「言葉に気を付けてください。燃やしますよ」
「楽な方がいいと思いましたー!暴力反対!」
転がったままの体勢から慌てて正座になり、ジャッキーは誰も座っていない一人掛けソファの影からサディアスを威嚇している。まるで野良猫のようだ。
少年にしか聞こえない声で喋るジャッキーに、シャロンが当然の疑問をぶつける。
「声は?全然私と似ていないけれど。」
「聞きたい?ちょい待って…あぁ゛ッ、ゴホン。……《声は?全然私と似ていないけれど。》」
「は……」
それまで黙って聞いていたダンが目を剥いて呆然と呟き、ウィルフレッドやサディアス、チェスターも衝撃を受けたような顔でジャッキーを見つめる。
シャロンは口元に手をあて、「まぁ!」と目を輝かせた。
「すごい…まるで魔法のようだわ。」
「えーめっちゃ褒めてくれるじゃん照れるー!もっと頑張っちゃおうかな~、エ゛フン!んん゛っ……《僕が贈ったプレゼントは、今日は――》ぁああごめんなさいごめんなさい!!」
言いかけたところでガッガッガッと足音を立ててアベルが急速に迫り、ジャッキーはソファの影に隠れたがその甲斐もなく捕まった。
片手で口元を覆うように両頬を掴まれ、身も心も凍り付くような冷たい目で見下ろされている。腫れた左頬が圧迫されて余計に痛い。
「二度目はない。いいな」
「~~~~ッ!!!」
コクコクコク、と過去最速で頷くジャッキーから手を離し、アベルは手についた白粉をハンカチで拭った。老人のようにガクガク足腰を震わせるジャッキーを見つめ、ウィルフレッドは考え込むように顎に手を添える。
「アベルの声真似までできるのか。末恐ろしいな……クレヴァリー。君、俺達の中で真似できなさそうな者はいるか?」
「はひゅ、けひゅっ……ぇ、えぇ?あ、声?」
「そうだ。」
「んー……まぁ全員いけるんじゃない…ですかな?見た目もってなるとそこの二人は無理!俺ちゃんと背ぇ違い過ぎるから。でも上半身だけならいける、ますよ。」
チェスターとダンをひょひょいと指し、ジャッキーはよいしょと床に胡坐をかいた。自分より十センチ以上高いと背丈の誤魔化しが利かないらしい。
「髪はどうするのです。ウィッグでも?」
「そ。やるってなりゃそれなりのお値段する…しますけどね。あんた達皆髪がキレーだからさぁ、ウィッグでそういうの探すと割高。今回はウィッグの費用いらなかったから、俺ちゃんの髪をなんとかそれっぽくキレーにできるヤツと、デート前に最適って売り文句のヘアオイル使って。」
「彼らに近付いたのは、これを売って金を手に入れるためか?」
テーブルに並べた宝飾品を指してウィルフレッドが聞く。
ジャッキーは「よく見っけてきたね!ほんと。」などと言いながら頷いた。
「後はメシ代!学食も良いけど街でいいモン食べたいじゃん?だからデートも昼前開始にしたんだよね。んで、相手の気が済むよーにぺちゃくちゃ喋ってぇ、ティータイムでデザート奢ってもらって、売れそうなヤツを買ってもらう!一番美味かったのは、大通りの…」
「動機はもうわかりました。それで、犯罪というご自覚は?」
「えァ?」
サディアスがため息混じりに言った言葉に、ジャッキーは目を丸くして首を傾げた。
サロンに沈黙が落ちる。
「……え、は、はんざい???」
挙動不審に視線を揺らし、ジャッキーは素っ頓狂な声で繰り返した。チェスターが呆れ果てた顔で片手を横へ広げる。
「そりゃそうでしょ、シャロンちゃん――アーチャー公爵令嬢を騙って、三人もの被害者から宝飾品を騙し取ったんだからさ。」
「いやいやいや待ってくださいよ!!そりゃまぁ、そうね!?あのッ、本人に変装の許可をとるべきだったかな!?」
「まぁ、聞かれても許可は出しませんけれど……。」
「え、ダメ!?まままぁちょっとそれはソコ置いといてさ、被害者って何!?あいつらまさか俺ちゃんの事サギだとか言ってんの!?」
わたわたと激しく身振り手振りしつつ、ジャッキーが焦ったようにウィルフレッドを見た。
何を言っているのか、とサロンにいるジャッキー以外の全員が思う。隅っこの椅子にちょこんと座ったカレンも立ったまま壁に寄り掛かるレオも首を傾げた。
ジャッキーが行ったのは間違いなく詐欺だし、犯罪である。
「彼らは君を、本物のシャロン嬢だと思っていたようだけれど。」
「え?……何で?」
ウィルフレッドは瞬いた。
何で、とは。
「……偽物だって、わかってたんじゃないの?」




