28.陰りゆくもの
弟の部屋まで急いだせいだろう、ウィルフレッドは少し息が上がっていた。続けて後ろから、彼の護衛騎士であるヴィクターとセシリアが黙礼して入室する。
ウィルフレッドがその腰に提げたものと同じ意匠の、けれどよく見れば明らかに質の悪い剣を持ってきたのを見て、アベルは薄く微笑んだ。
「やぁ、ウィル。」
「…アベル」
切羽詰まった声で名を呼び、ウィルフレッドは歩み寄る。
兄であり第一王子とはいえ、抜き身の刃を手にして近付く事にリビーが僅か身じろいだ。
二メートルほどの距離を残してウィルフレッドは立ち止まり、切っ先を床に向けたままその剣を見せる。
「今回犯行に使われた剣だ。」
「だろうね。どこでこれを?」
「マクラーレン伯爵邸。ならず者がローブで見た目を隠し、これを使って民を殺していた。」
「そう。」
「……はぁあああ。」
弟をじっと見つめ、困り眉になって瞬いたウィルフレッドは深く、長いため息を吐きながらその場に座り込んだ。
剣がからりと手から落ちる。
「お前…もっと喜んでくれてもいいだろう。」
「ふふ。ありがとう」
ウィルの前に、アベルも膝をついた。
王子が二人して床に座るという事態に、部屋にいた三人の護衛騎士は急いで――正確には、セシリアだけ一拍遅れてヴィクターに引っ張られ――自身らも床に待機する。
「陛下やクロムウェルには?」
「…まだこれからだ。」
「ふはっ。駄目でしょ、先にそっちに報告しないと。」
アベルが可笑しそうに笑う。
それを目撃できているであろうヴィクター達にリビーから妬ましい視線が送られたが、彼らとしてはなぜ今睨まれているのかさっぱりわからなかった。
「お前が疑われてたんだから、お前が先だ。」
拗ねたように眉を顰めたウィルフレッドに、アベルは「わかったわかった」と笑みを返す。
「けど、どうやって辿り着いたの?騎士団もまだ掴んでなかったはずだけど。」
「サディアスとシャロンのお陰だ。」
「……シャロン?」
片方はわかる。
ただ、もう一人の名前があまりに予想外で、アベルは聞き返した。
「たまたま、伯爵が剣の設計図を手に入れたという話を二人が聞いていた。…王立図書館の閲覧制限の場だ。」
アベルの視線から疑問を察し、ウィルフレッドは場所を補足する。
貴族が内密な話をする場所であり、その二人が一緒にいる可能性のある場所。アベルがなるほどと頷く。
「それを聞いて……その、俺が屋敷に行った。」
「は?」
「…だから、伯爵の屋敷に行ったんだ。俺が飛び出したものだから、二人もついて来てくれて。」
呆れた様子のアベルから目をそらし、ウィルフレッドは偽物の剣に目を落とした。
無策過ぎると思われたのだろう。それは実際その通りなのだが、アベルは笑い出した。
「っははははは!」
「わ、笑わなくてもいいだろ!」
「もっと、何ていうか…よほどの物証か何かがあって、突きつけに行ったわけではないんだ?」
「なかったさ!ただもう、居ても立っても居られないというか、まぁ、その…腹が立って。」
苦々しい顔で言うと、アベルはようやく少しずつ笑いをおさめた。口元はまだひくついているが。
何せ、ウィルフレッドが貴族の屋敷に乗り込んだのだ。それも「腹が立った」なんて、王子にあるまじき理由で。
「豪快だね、ウィル。かっこいい兄を持って僕は幸せだよ。」
「お前!それ絶対に思ってないだろう!」
「ははは。…それで?素直に引き渡したとは思えないけど。」
大丈夫だったのか、と。
静かに目で問うたアベルに、ウィルフレッドは眉尻を下げた。
「戦闘にはなった。ほとんどはサディアスが魔法で脅して戦意喪失させてくれて…俺が剣を奪おうとしている隙に、シャロンが人質に取られた。首にナイフをあてられて…少し皮膚が裂けていた。彼女はすごく怖かったはずだ。」
当時を思い出し、ウィルフレッドは拳を固く握りしめる。話を聞くアベルは眉一つ動かさなかった。
「俺は何もできなかった。サディアスが魔法で不意打ちしてくれたお陰で解放され、そこでアーチャー公爵が助けに来てくれたんだ。」
「公爵が?」
「あぁ。俺を追って図書館に来たヴィクター達と合流したみたいで。」
ウィルフレッドが視線を後ろにやり、ヴィクターとセシリアが頷く。
なぜ話に二人が登場しないのか疑問に思っていたアベルは、呆れ声で聞き返した。
「…ウィル、君彼らを置いてったの?」
「………うん。」
「僕じゃないんだから…」
「お、お前がそれを言うのか!?第一、城内にいるよう騎士団長から言われていたんだ。一緒に連れていったりしたら命令違反だろう。」
「うーん…そうだね。」
護衛対象を完全に見失うのと、命令違反のどちらが重罪か?
一瞬では決めかねて、アベルは曖昧に頷いた。
「大体、お前こそもっと普段から護衛騎士を連れて行動しなさい。なぁリビー?」
「はっ!?そ、そ、いえ、ぁアベル様のご意思が優先ですので!」
急に話を振られ、内心「もっと言ってください」と念じていたリビーは動揺して激しくどもった。
その心情をなんとなくは察しているアベルが、苦い顔で腕組みをする。
「……とりあえず、クロムウェルに声をかけようか。」
完全に話題をそらしただろうという視線に気づかないフリをして、アベルは立ち上がる。
「いきなり陛下の前で報告では可哀想だからね。」
「そうだな。行こう」
ウィルフレッドも剣を手にして立ち上がり、護衛騎士達もそれに続いた。
伯爵邸から戻った騎士達の報告は既に届いており、蒼白な顔をしたクロムウェル騎士団長はウィルフレッドを探す途中で彼らと鉢合わせる事になる。
その第一声は、
「ディ…ディアドラ様にお手数をかけたというのは、本当かな……?」
まさに消え入るような声だったという。
◇
赤茶色のふわりとした長髪を指先で弄び、少女はため息をついた。
今日も今日とてベッドから降りる事はままならず、窓の外は夕暮れから夜の闇へ変わろうとしている。
長年治らぬ病に苦しんでいるが、こうして身を起こす事ができる事だけはまだ幸いで、本を読んだり、刺繍をしたりして暇を潰す事ができてはいた。
だが、それもいつまでなのだろう。
「…お兄様……」
帰ってこない人を思うと、自然と気持ちが暗くなった。
こうなると明るいはずの部屋までどんよりと曇って見えるし、侍女が部屋に飾ってくれた花もどこか色あせてみえる。そんなわけがないのに。
廊下が騒がしい。
複数人が話しているけれど、内容までは聞きとれない。
彼女がぼんやりとそう思っていると、部屋がノックされた。
「ジェニー、俺だよ。入っていいかな。」
「お兄様!?どうぞ!」
待ち望んでいた人の声に、ジェニーは目を輝かせて返事をした。
扉はすぐに開いて、彼女と同じ赤茶色の長髪を後ろで一つにまとめた、穏やかな垂れ目が特徴の兄が入ってくる。
「ただいま~!」
「お帰りなさいませ…!」
まるで太陽がここに現れたかのような兄の笑顔に照らされ、ジェニーは祈るように両手を胸の前で合わせた。
こんなに素敵な事があるのなら、今日の最初からもっと笑顔で過ごせばよかったと後悔する。
「どうなさったのですか、手紙ではしばらく戻れないかもと…」
「それがね~聞いてよ!問題になってた件を、ウィルフレッド様がぱぱっと片付けてくれてさぁ。城中の皆で驚いたんだけど、お陰で俺も帰れたってわけ。」
「そうなのですね…!さすが第一王子殿下ですわ。」
何よりも、しばらく家に帰れないはずだった兄を帰してくれた事が嬉しくて、ジェニーは思わず手放しで第一王子を褒め称える。
けれどすぐにハッとして、首を横に振った。
「あ、あの、アベル様だって!」
「大丈夫だよ、ジェニー。わかってるから。」
優しく頭を撫でてくれる兄にほっと安堵の息を吐く。兄は第二王子の従者をしているのだ。
優しい兄に限ってそんな事ないだろうとは思うけれど、もし第一王子ばかりを褒めていたら、兄も少しは気を悪くするかもしれない。
家族と使用人にしか会えない生活が長いジェニーにとって、兄に嫌われる事は本当に恐ろしかった。
「しかもね、ウィルフレッド様が解決したその場に、サディアス君とシャロンちゃんもいたらしいんだよ!そうなった経緯は全然知らないけどさ。」
「シャロン様が?」
ジェニーはつい顔を顰めた。
サディアス・ニクソン様はウィルフレッド第一王子殿下の従者だ。一緒にいるのは当たり前だが、なぜそこにアーチャー公爵のご令嬢がいるのか。
それは以前から知識として知っていた名前であり、時折兄から聞く名前であり、最近は見舞いに来たいなどと抜かしていたというご令嬢だった。
――そんなの絶対に、お兄様が狙いじゃない!
ジェニーは憤慨して断ったのだが、兄はどちらかと言えば会ってほしい様子で苦笑いしていた。兄の頼みは聞きたいけれど、兄に言い寄る女の子なんて視界に入れる事すらしたくない。
でも。
「…第一王子殿下と、サディアス様と、シャロン様が…その件を解決してくださったの?」
「そうなるかな。細かい話はわからないけどね。」
「……そうなのですか。」
唇をつんと尖らせて、ジェニーは俯いた。
ベッドに腰かけた兄が優しく頭を撫でてくれる。
「お兄様、私…皆様に会えたら…いえ、嫌がられましたら、もちろんいいのですけれど……」
「本当?ウィルフレッド様達は連れ出せるかわからないけど、シャロンちゃん喜ぶよ。」
「……お兄様が早く帰っていらしたのが、皆さまのお陰なのでしたら。」
兄の服をきゅっと掴み、優しい茶色の瞳を見上げる。
「オークス公爵家の娘として、きちんとお礼を申し上げなくては。」
「うん、ありがとう。…偉いね、ジェニー」
穏やかな微笑みを向けられて、胸の中からぽかぽかと暖まるような気がしてくる。
一週間ほど両親が公爵領に行ってしまう事が決まっていたので、今回兄が帰れないという手紙を受け取った時は本当に悲しかったのだ。今は目の前にいてくれる事が嬉しくて、目を細めて笑う。
「――ッ!けほっ、こほ」
「ジェニー!」
「けほっ、ケホ、ッう」
「大丈夫?水…ゆっくり、落ち着いて」
急に咳き込み始めてしまい、兄が慌てて立ち上がってサイドテーブルの水差しを取る。背中を支え、水を注いだグラスを近づけてくれた。
「ごめ、なさっ、コホッコホ」
「大丈夫だから。ね…大丈夫だよ。」
兄が心配そうに顔を歪めているのがつらくて、涙目になりながらジェニーは水をゆっくりと飲んだ。喉を湿らせ、咳が少しずつおさまるのを待つ。
「…ごめんね、俺がちょっと話し過ぎた」
「!そんな事ないわ、お兄様」
ジェニーは慌てて否定した。ずっと自室のベッドで過ごす生活は、何よりも誰かと話す時が一番楽しいのだ。
兄は笑ってくれたが、先程までより少し暗い笑顔だった。
――あぁ、お兄様
じわじわと重くなる自分の病を、兄の笑顔が陰っていく事を、ジェニーは悲しく思う。
また後で来るよという言葉は嘘ではないにしろ、扉を開けて出て行く兄を見送るのは、寂しくてつらい。
――お兄様。どうか、どうか私を、




