285.少々目に余る
ブラックリー伯爵領にてオオカミの魔獣が確認された。
昨年の狩猟や三ヶ月前の王都襲撃に比べれば非常に少ない数だが、街道で馬車が襲われたのだ。目撃談によれば狙いは明らかに馬車を引いていた馬であり、標的に最も近かった御者も重傷を負った。
護衛を連れていなかった一行が命も荷物も失わずに済んだのは、伯爵が街道に配置していた騎士が叫び声を聞いて駆け付けたからだ。
「……厄介だな。」
騎士団詰所の一室。
ティム・クロムウェルの報告を読みながら、アベルは長い脚を組み替えて呟いた。
報告書を届けた女性騎士リビー・エッカートは、内容が目に入らぬよう彼の正面側に距離を取って控えている。久し振りに会えた主君の姿を目に焼き付けつつ、疑問を口にした。
「魔獣の討ち漏らしはなかったと聞きましたが…」
「これまでと比べて数が少な過ぎる。狙いが飢えを満たす餌だった事も踏まえると、そのためだけに《ゲート》を使って送り込んだとは考えづらい。」
既に野生化しブラックリー伯爵領に住み着き始めているか、あるいは付近に魔獣を生み出す拠点が存在し、そこから脱走した個体に遭遇したのか。
それらの痕跡が見つからなかった場合、伯爵がグルだという噂をする者も出るだろう。元から、実力でのし上がった彼を良く思わない貴族も多いのだ。
さらに問題なのが、かの領地はアクレイギア帝国との国境にあるということ。
今後帝国側に発生した場合はこちらが送り込んだと言われ、発生しなかった場合は帝国が差し向けたと騒ぐ連中が出るだろう。そういった諍いそのものが目当てで伯爵領を選んだか、単に本当の居場所を知られないために、騒ぎになりそうな場所を選んだか。
「しかし魔獣が帝国側に出たからと言って、責められる謂れはあるのですか。こちらは定期訪問の際、第一皇子に情報を渡しています。」
「自国内で発生した害獣を押さえられず、他国にまで被害を及ぼした…でも何でもいい。歴史の中にはさして理由もつけず開戦された例もある。」
ぱらりとページをめくり、アベルの目は報告書の文字を辿っている。
「現皇帝が攻めてこないのは、単に総力戦になれば勝てる見込みがゼロだからだ。もしもの話だが……帝国と真反対のロベリア・ソレイユ側で魔獣が大量発生した場合、ツイーディアはどうしても戦力を分散、消耗せざるをえない。開戦しても最後はこちらが勝つだろうが――…。」
アベルは言葉を切り、遠くを見るように窓の外へ視線を投げた。さきほどシャロンを抱えて飛んだ空、島を囲む海の向こうを思って嘆息する。
憂いの影がある金色の瞳を見つめ、リビーもまた追うように窓越しの青空を見つめた。城は、騎士団は、大騒ぎしているところだろうか。
「ただ、遅かれ早かれブラックリー領に出る可能性が高いとは、とうに想定されていた事だ。」
「…そうなのですか。」
「陛下をはじめ、上層部の殆どがそう考えていた。女神祭の少し前だったか…伯爵からもちょうど要請があり、追加人員を手配済みだった。その成果があったのは不幸中の幸いだな」
報告書に挟まれたロイからの封筒を机に置き、アベルは淡々と言う。
アベルは十番隊長アイザック・ブラックリーを師としているが、その父親であるブラックリー伯爵には一度も会った事がなかった。
今年四十七歳になる伯爵は元々庶民で、王立学園を卒業後すぐに辺境へ赴いたらしい。確かな実力と人柄は先代伯爵にも認められ、子を亡くしていた伯爵の説得により養子となって爵位を継いだのだ。その際には王都へ来て国王ギルバートから直接労いの言葉も掛けられたそうだが、アベルが生まれる前年の話である。
「ケンジットはどうしている?」
「昨日は上機嫌でした。……カワイイ銀髪のお嬢さん、とやらに半年振りの再会をしたと。」
リビーは記憶を辿るように首を捻り、一つ頷いてから報告した。
フレームレスの眼鏡をかけた軽薄そうな同僚が笑顔で脳内に出てきたが、心の中でシッシッと手で掃っておく。そんな顔より目の前のご尊顔である。
「銀髪で半年振りというと、ディアナ嬢か…」
ため息混じりに呟いたアベルの表情には、僅かに呆れの色が見えた。
ディアナ・クロスリーは昨年王子達の狩猟に参加し、途中までアベルに同行した令嬢だ。儚げな雰囲気の美少女が第二王子を選んだ事に、周囲は本人でなく家の意思だろうと囁いていた。
体力がもたなかった彼女がコテージへ戻る選択をした時は、護衛のためにケンジットが送っていった。
ディアナは先日も裏庭で上級生に絡まれていた。
狩猟以前にも催しで幾度か顔を合わせていたアベルは、少なくとも彼女の知り合いではある。しかしカレンが無謀にも飛び出そうとしなければ、あの程度で仲裁に入るつもりはなかった。
恐らく放っておいてもディアナは頑としてついていかなかったし、絡んでいた男子生徒が面倒になって立ち去る可能性の方が高いと考えたからだ。
「あの者の職務態度に思う所はありますが、すべき事はしているかと。このひと月に学園都市で発生した主だった事件については、こちらにまとめております。」
「わかった。ありがとう」
リビーが差し出した書類を受け取り、アベルは読み終えた魔獣の報告書の上にそれを重ねた。今はロイからの封筒を開いて資料を読んでいる。喜びを嚙みしめるようにぎゅっと目を閉じたリビーの事は気にせず、辿った文字列に眉を顰めた。
――神殿都市では行方不明者が出たか……。
平民向けの学校に通う男子生徒が姿を消したらしい。
ツイーディア王国では魔力持ちならお金が足りずとも国の援助を受けて王立学園に入れるが、魔力があっても地元の学校を選ぶ子供や、大神殿への参拝目当てにサトモスの学校に入学する者もいる。
ただ、それらは親の意向であって本人は嫌がっており、反発して脱走するなどというケースもあった。
資料の終わりには、ついでのように「姫君も元気です」と書き添えてある。君影国のエリと従者のヴェンは、未だサトモスで人探しをしているようだ。
ある程度探して会えなかったのなら、まず「もうサトモスにはいない」と思っていい。
ひと月もしたら別の街を探すだろうとアベルは考えていたのだが、強情なエリがこだわっているのかもしれない。
「…我が君。伺いたい事があります」
「何だ」
リビーの声色に普段とは違う緊張が混ざった事を認識しつつ、アベルは短く許可した。資料に目を落としたままの彼を見つめ、リビーは口を開く。
「アーチャー公爵令嬢は、学園では如何様に過ごされていますか。」
「…特に変わりないが。」
「差し出がましいのですが……街で見かけ、少々目に余るかと。」
アベルが視線を上げる。
そこにリビーを叱責するような色はなかったが、彼女は無意識の内にさらに背筋を伸ばした。何を見たのか言えと促されているのだ。
「護衛のダン・ラドフォードも連れず、男子生徒と二人で歩いておりました。」
「………。」
「随分と仲が良いようで、距離も近いというより最早無く。」
「それは今日の話か?」
「はい。」
アベルは開いたままの資料を一度だけ指で叩いた。
何と返したものかと迷ったのもつかの間、違和感を覚えて眉を顰める。
リビー・エッカートともあろう者が、フードをかぶった程度でアベルだとわからないはずがない。
「…詳細は。」
「フードをかぶり正体を隠す風ではありましたが、堂々と男子生徒の腕にしがみつき、もたれかかるように擦り寄っていました。」
「彼女がか?」
「はい。特務大臣の娘とはいえ、かような振る舞いを続けるのであれば――…、いかがなものかと。」
途中に挟んだ一呼吸で、リビーはかなりの罵詈雑言を飲み込んだ。
言えば流石にアベルが不快を示しただろう。
シャロン・アーチャーとの初対面、リビーは「主君に手間をかけた令嬢」と認識した。
狩猟の時、命懸けで救われた彼女が心からアベルを心配し、少しでも役立とうとしているのを見た。それを好きにさせてやっている主君の姿も。
女神祭でもアベルは彼女の危機に駆け付けた。夜会では二人は良い仲だと噂になったらしいとも聞いた。
ダンと共に、副団長レナルド・ベインズに挑む真剣な表情を見た。
チェスターも加えた四人でバサム山へ向かい、彼女の存在は戦況にかなりの影響を与えた。
アベルだけではない。リビーもまた、シャロンに一定の信を置いていた――なのに。
なのにあの娘は、誰とも知れぬ少年の腕に娼婦の如く絡まって笑っていたのだ。
アベルを侮辱された気がして、共に戦った相手と認めていたのに、裏切られた気がして腹が立った。すぐにでも拘束して問い質してやろうかと思った。
ギリギリで思いとどまれたのは、ここでアベルに会えるとわかっていたからだ。
到底許せなくとも、何より大切なのは主君の意思。
まずは真実を知ってもらわねばならない。幸いにも、アベルはリビーを「見間違いだろう」などと切り捨てる事はなかった。
「今日の、いつどこでだ。」
「二時間ほど前、オペラハウスの裏通りにて。宝飾店から出てくるところを見ました。」
アベルは軽く頷く。
もしそれがシャロン本人だった場合、そこから男子生徒と別れ、ダンやカレンとは雑貨店で現地集合だったのなら辻褄は何とか合うだろう。
カレンに過保護な彼女の事だ、学園から三人で一緒に行きたがりそうなものだが。
「宝飾店か……何か買わせた様子だったか?」
「男子生徒の目と同じ色の宝石がついた、首飾りを……少々、襟元を寛げて見せていたように記憶しています。」
「ふっ…首飾りね。」
アベルは鼻で笑い、さも楽しげに口角を上げる。
会話は聞こえたのかと問えば、リビーは逡巡してから紙にさらさらと書きつけた。少し眉を顰めているところを見るに、あまり気分の良い内容ではないのだろう。アベルは差し出されたメモを受け取った。
『ありがとう、こんなに素敵な贈り物を…とっても嬉しいわ。』
『よ…よく似合ってる、シャロン嬢…』
『ふふっ、今はどうか……名前だけで呼んで?』
『……シャロン』
『なぁに?』
『そ…そんなにくっついたらその、む…むむ…』
『む?』
『何でもないっ!そのままでいい!』
なぜかメモを握り潰してやろうかという考えが頭をよぎったが、アベルは冷静なので力を込める事はない。
これも証拠の一つだと心の中で呟き、静かに机へ置く。
大事なのは、シャロンを知っているリビーが「本人だ」と認識した事だ。背格好はもちろん、声色までそっくりでなければそんな事は起こらない。
「リビー。お前が見たアーチャー公爵令嬢だが」
「はい。」
「制服姿で下はスカート、帯剣はしていなかった。違うか?」
「……?その通りです。」
なぜそんな当然の事を聞くのか。
僅かに首を傾げたリビーを横目に、アベルはくすりと妖艶に笑った。




