283.そういうものよ
手を繋ぐのは初めてじゃないのに、記憶を辿れば今しがた手を重ねたのは私からだったのに、なぜだか心臓がどきどきしている。顔が熱い気がする。
落ち着きましょう、私。……アベルよ?
少しいつもと繋ぎ方が違うからって、ここが鍵のかかった部屋だからって、何だと言うの――だ、誰かに見られたら終わりだわ、私達。だから施錠しているのよね、ええ、わかっ、わかっています。
ちゃんとわかっているわ。
深呼吸して心を落ち着かせ、ちらりと隣を見てみる。
「どうした」と聞いてきた通り、アベルは不思議そうな顔でこちらを見ていた。
頬が赤らんだりなんてしていないし、切れ長の目には動揺もないし、綺麗な瞳に熱がこもってるわけでもない。他意がないと言ったら本当にこれっぽっちもないのだ、この人は。
……わかっておりましたけれどね?
えぇ、私達ってお互いそういう相手じゃないもの。大事なお友達。《未来編》でもずっとそう…わかっているけれど一瞬その、ちょっぴりどぎまぎしただけで……仕方ないわよね、同性のお友達ではないのだから。
で、でも、接触を控えろって言ったのは貴方じゃない!
少し不満に思いながら、でもそれは言わずに……私は、自分より大きな手をそっと握り返した。
このまま――…事件なんて何も起こらず、貴方がいてくれたらいいのに。
「…何か不安でもあるのか?」
私が、貴方の手を握ると安心すると言ったから。
アベルは気遣うような声でそう聞いてくれた。手のひらが温かくて、まっすぐにこちらを見据える瞳が優しくて、見つめていると胸の奥がじんわりする。
「……まずは一年、何事もなく終わってほしい、と…」
いなくならないでほしいと、思った気持ちのままに微笑んだ。
不安が滲んでいただろう私に、アベルは納得したように軽く頷いてくれる。
「初日から襲われては気にもなるか。騎士団の取り調べによれば、連中の狙いは俺とウィルだったらしい。次点でサディアスとチェスターだな」
「反王家の一派という事ね。」
「あぁ。年末にあったちょっとした捕り物の残党だ。今回、誰も手傷を負わせられなければ、お前を攫って人質にするつもりだったと証言している。」
「まぁ……」
怖い、よりは「あの程度で?」と思ってしまった。慢心してはいけないとすぐに反省する。
しかしバサム山の一件に私がいた事は知られていないとはいえ、私自身が多少護身術を既に心得ているとか、アベル達がいなくても護衛が傍にいるとか、考えなかったのかしら。
私の考えが透けて見えたのか、怖がらない事に対してか、アベルはくくっと短く笑った。
「少なくともお前自身に関しては、油断した奴らを馬鹿とも言えないな。その見た目では無理もない」
「この一年ずっと鍛えてはいるはずなのだけど、あまりこう、がっしりとしないのよね。やっぱり無意識に魔力で補助をしているのかも。」
「可能性はある。慣れればある程度消費する魔力が減り、自分で気付きにくくなるからな……俺も軽い強化程度なら、呼吸とほぼ変わらない負荷だ。」
「こ、呼吸……」
それはもう、ほとんど負荷が無いのではないかしら。
アベルの言う「軽い強化」の程度はわからないけれど……流石、私よりずっと長く身体強化を使いこなしているだけはある。
「私、スキルの使い方も練習しているけれど……貴方の域に達せる気はまるでしないわ。」
「俺は恐らく長年の強化で身体が順応し、元の身体能力自体が普通の人間より高くなっている。魔力量も大差あるだろう、その認識は正しい。無理はするな」
「えぇ、もちろん。……私達、結局同じスキルを持っているのかしら?」
「……どうだろうな。俺は違うように思うが……」
アベルは考え込むように視線を前方の壁へ向けた。
繋いだままの手の甲を、彼の指がとん、とんと優しく叩く。
「俺達が眠った一件の原因がわからない内はハッキリしない。あれから特に問題はないのか?」
「何も起きていないわ。お祈りをする時は、念のためこれには触らないようにしているし。」
私はそう言って右手で胸元に触れた。
シャツの下に隠れているけれど、いつも通りそこには石の感触がある。女神祭の夜にアベルがくれた、アメジストのネックレスだ。
「…お前は……本当に、それを気に入ったんだな。」
「魔法学の授業では外しているわ。もし水の魔法以外で守りが発動したら、うまく説明できないもの。」
アベルが魔力を込めたこの宝石には、自分に向けられた攻撃魔法を、相反する属性の魔法で打ち消す効果があった。
水なら私でも再現できるので、自分でやったと言えるけれど……他の属性が発動したら駄目。アベルにしかできないのだから、彼の魔力を隠す以上は、多少の事で露見させてはいけない。
「…どこが良いんだ?アメジストの品質としては、並んだ中でそれが一番では無かったはずだ。」
貴方が私に贈ってくれた事が、一番の付加価値だけれど……それは何度も伝えたし、今は露店に並んでいた中でこれを選んだ理由を聞かれているのよね。
わからないという顔でこちらを見つめるアベルに、くすりと微笑みかけた。
「個人的に、色味が気に入ったの。」
「色?」
「そうよ。最も美しいとされるアメジストの色と、私が身に付けたいと思う色は違っていた、という事ね。」
アベルが眉を顰めて視線を横へ流す。
どんな色だったか思い出しているのでしょうけれど、大事なのは紫の色加減ではなく黒が入っている事。
もっと強くなりたいと願ったあの時の私にとって、身に付けたらきっと心強いと思えた色だ。
誰かをイメージして色を取り入れたら、かなり重い意味を持ってしまう。特に未婚の令嬢と王子では、それがたとえ尊敬や信頼であっても誤解されるのは必至。
でもアメジストは「黒色の宝石」ではないから、たとえこのネックレスを人に見られたとしても、黒を取り入れていると認識する人はまずいないでしょう。選んだ私だけが知る意味だ。
こっそり自分を励ます事ができる物として、「良い品ですね」なんて口にした。
それをまさか、アベルが気にかけて贈ってくれるなんて思わなくて――…あの夜を思い出すと、心がぽかぽかと温かい。
「……何を笑ってるんだ。」
「ふふ、貴方がくれた時の事を思い出して。」
「…忘れろ」
「まぁ。それは無理というものですわ、第二王子殿下。」
ついころころと笑う私を、アベルが渋い顔で見つめている。
本気で忘れてほしいとは考えていないと思うけれど、慣れない事をした、なんて思っているのかしら?
話題を変えましょうと決めて、私は「そういえばね」と切り出した。
「フェルさんの雑貨店で、カレンは髪飾りを買ったみたい。」
「彼女が?」
「えぇ、きっととても似合うわ。」
「去年初めて会った時は、随分と髪の色を気にしていたが……変わったな。」
アベルは感心したように少しだけ頷く。
あら?何だか思っていた反応と系統が違う。
「おしゃれしたカレンは、いつも以上に可愛いでしょうね。」
「佇まいに自信の無さが透けて見えるとは思っていた。見せ方を考えるようになったなら、それは良い事だろうな。堂々としていれば、面倒な輩も少しは減る。」
「……えぇと…」
右手を頬にあてて、私は小首を傾けた。
花のヘアピンをつけたカレンを見て好感度が上がったのは……可愛かったからとか、女の子らしい面を見て意識したとか、そういう事ではないの……?
確かに画面の中で、貴方の立ち絵の表情は変わらなかったけれど。
「何だ。」
「髪飾りをつけたカレンに、変じゃない?って聞かれたら……貴方なら、なんて返す?」
「…俺がか?」
至極不思議そうに聞き返さない!
貴方のアイテムなのよ、あれは……とも言えないので、小さく頷いた。右手を自分の膝に置いて待つ。アベルは一度瞬きしてから答えた。
「別に、似合ってるんじゃないか。」
なんてゲーム通り。
ゲーム通りなのだけれど、私は眉が下がってしまう。女の子が頑張っておしゃれをしたとわかっていて、貴方ときたら……。
「そういうところよ…」
「何がだ。」
「せっかくカレンが勇気を出しているのだから、こう……髪の色にもよく映えてピッタリだとか、少し照れているところもまた可愛いとか、あまりに愛らしいから抱きしめてしまうところだったわ!とか…」
「お前は相変わらずだな。」
アベルが呆れ声で言って、繋いだ手を軽く持ち上げた。
彼の手の甲がとん、と頭に触れる。やめなさいという事らしい。……しまった、つい途中から自分の気持ちを喋っていたわ。
やめますという意思表示で、ソファの上に戻された手をきゅっと握り返した。
去年下町で会った時は、私があんまりカレンを――初対面の女の子のはずである、カレンを――可愛がるものだから、皆には驚かれたし、アベルには「妄信だけはするな」と注意されたのよね。それもまた懐かしい話だ。
「ごめんなさい、つい気持ちが抑えられず……」
「お前も何か買ったのか。」
「私?えぇ、押し花の栞を。」
一瞬見せようかと思ったけれど、見た者に鳥肌と悪寒を引き起こす品なのよね。カレンによるアイテム説明文では、確かあの見た目を「悪い事が起きそう」とか何とか言っていたし。
やめておきましょう、突然そんな物を目にするアベルが可哀想だわ。
「何の花だ?」
「名前は何だったかしら……ちょっと独特な見た目で、珍しい植物なのよ。ホワイト先生がご興味あるかしらと思って。」
「……へぇ。」
あら?
低まった声のトーンに瞬いた。正面の壁を見るアベルの目つきが、なんだか冷ややかになっているような……あれ以来二人が話すところを見なかったけれど、もしかして先生とは不仲なのかしら。
「子爵と仲が良いとは知らなかったな。」
「仲良しという事は無く……薬学に興味があるから、先生ともっとお話しする機会ができたらと思って。」
「ふぅん。入学式の日みたいにならなければいいけどね。」
「先生が落ちてきた時?こちらの心臓がもたないから、確かにあれは繰り返さないでほしいわね……。」
「…違う。距離を詰められるなという話だ。」
眉を顰めたアベルが、少し呆れの混じった声で呟く。
先生がよろめいて、私の後ろにあった木に手をついた時ね。チェスターが言うには、脅されているように見えたとか何とか。
安心してという気持ちを込めて、私は努めて柔らかく微笑んだ。
「心配してくれてありがとう。ホワイト先生は良い人だから、平気よ。」
「……子爵は未だ独身で婚約者もいない。教師とはいえ二人にはなるな」
「誤解を受けたら大変だものね。」
「お前、本当にわかってるか?見られなければ良いという話じゃない」
「もちろんよ。大丈夫」
繋いだ手に右手も添え、胸の前できゅっと包むようにする。視線を上げて、心配そうな金色の瞳を見つめ返した。気にかけてくれるその優しさが嬉しくて、つい顔がほころぶ。
「貴方以外の人と、こんな風に二人になろうとは思わないもの。」
ウィル達や先生とは、こっそり話すにしてもダンが一緒だわ。
よほど何か理由でもなければ、私がわざと男性と二人きりになる事はないでしょう。色々と内緒の話がある貴方だけは、別だけれど。アベルほど安全な人もいない。
「………?」
アベルはどうしてか、言われた意味がわからない様子でぱちりと瞬いた。
小首を傾げて促してみると、アベルもまた少しだけ首を傾ける。言ったら不機嫌になりそうだけれど、こういう時ちょっぴり可愛く見えてしまうのよね…。
「ウィルとは……二人で話さないのか?」
「えぇ。サディアスかダンは絶対にいるでしょう?」
「お前はそれでいいのか。」
「毎日顔を合わせて、沢山お話しできるもの。十分だわ」
「……そういうものか」
「?そういうものよ。」
アベルの前でもかなり話していたはずだけれど、もっと話してると思っていたのかしら?
彼の長い指がするりと動いて、私は両手の力を抜く。もう終わりの時間みたい。完全に離れると思った手は、私の左手を掬うようにして。立ち上がったアベルがこちらを振り返る。
「とにかく、誰が相手でも警戒は忘れるな。」
「はい、心得ております。」
支えてくれる手を頼りに、私は微笑んだ。




