282.奇妙な感覚
「急げば店に入る前に追いつくと思う。」
そう言って、アベルは雑貨店を出てすぐに歩き出した。シャロンは遅れないよう早足になりながら手を伸ばす。
「走ってはいたけど、カレンの方はそうもたな――…」
「あのっ」
くん、とローブの袖を引かれ、アベルが振り返った。シャロンが足を止めたので、自分にも止まってほしいのだろうと察して立ち止まる。
彼女はどうしてか自信のなさそうな目でアベルを見上げ、言い淀むように小声で呟いた。
「忙しい……?」
「急いではないけど。」
「それなら少し、話せないかしら。」
「…何かあったのか?」
声を低めて聞き返し、シャロンの肩を軽く押して道の端へ寄る。通りに背を向けるようにしていれば、傍からは男子学生が二人いるとしか見えないだろう。
シャロンは首を横に振って否定した。
「そういうわけではないの。」
なら何だ、と言わんばかりにアベルが瞬く。
まったくピンときていない彼の顔を見てしゅんと視線を下げ、シャロンはぽつりと零した。
「だって貴方……全然、私と話してくれないわ。」
数秒、沈黙が流れる。
アベルに心当たりがないわけではなかったが、シャロンの長い睫毛が薄紫の瞳に影を作り、細い眉はじっと耐えてきた事を初めて吐露したかのように下がっている。僅かに震えた声には寂しさが滲んでおり――総合的に言って、そんな様子で指摘される事だとは認識していなかった。
なぜそんな顔で言われるのかわからない。
アベルはしかし、すぐに思考して答えを導き出した。実の弟に素通りされて悲しんでいた様子や、「仲良しでいるのはだめかしら」などとシュンとしていた事を思い出せば明白だ。
彼女にとって自分は、義理の弟であり友人なのだから。
それにしてもやや過剰では――と僅かに思うのは、単にアベルの感覚よりシャロンの方が情深いせいだ。
「必要以上に避けたつもりはなかったけど。」
「貴方はそうでしょうし、本当にそれとなくだったから、他の人もあまり気付いていないと思うけれど。」
「君からすると違うって事?」
「…この一か月、貴方は廊下を歩く時だって絶対に私と並ばないようにしていたし、話は短く終わらせて、あまり目も合わせず、ランチもティータイムも必ず離れた席を選んだわ。」
「……まぁ…そうだね。」
ざらりとした漆喰の壁を見ながら記憶を辿り、アベルは肯定した。
基本的に男連中と話し、要件は端的にして雑談せず、わざわざ眺めるような事はせず、同じテーブルにつくとしても必ず間に人を入れた。
言ってしまえば「それだけ」だ。
「もう夜にお話はできないし……アベル。」
名を呼ばれ、金色の瞳をシャロンに向ける。
彼女は心細そうに目を伏せて胸元で手を握り、桃色の唇で呟いた。
「ずっとこのままなの……?」
――傷付けたかもしれない。
その一言が浮かんだ瞬間、アベルは衝撃のあまり目を見開いた。罪悪感と後悔が重くのしかかる。
シャロンを傷付けるつもりなど一切無く、兄と彼女が正式に婚約する頃に自分との噂が残っていてはならないと、良かれと思っての事だ。やり過ぎだとは今この瞬間まで思いもしなかった。
動揺して視線は道行く人々や建物に向き、背中を冷や汗が伝う。
こちらを注視する者はおらず逃げ道が十通り以上ある事を確認し、アベルは一呼吸の間に冷静さを取り戻した。
シャロンはそもそも、「急いでないなら少し話せないか」と聞いてきたのだ。
「嫌な思いをさせたなら悪かった。今……お前が良いなら、話す時間はある。」
「本当?」
顔を上げた彼女となんとなく目を合わせず、アベルはどちらへ歩こうか考える風を装って視線を横道へ投げる。通行人には第二王子と公爵令嬢だとはバレていないようだった。
「…移動するか。」
頷いたシャロンを先導して横道に入る。
完全に人目から逃れたタイミングでアベルは姿を消す魔法を使った。その事を彼女に伝え忘れたが、黙ったまま振り返り抱え上げようとすれば、状況は察したらしい。シャロンも大人しく腕を回した。
剣が加わってもまだ軽いと頭の片隅で思いながら、アベルは地面を蹴る。
建物より高く飛ぶと、遠い港の向こうに島を囲む大海原が見えた。
シャロンが思わず感嘆のため息を漏らす。王都がある陸地はここからでは見えなかった。それほど遠くに来ているのだ。
二人は市場の上空を通り、噴水広場までやってきた。
少し過ぎれば、ダンとカレンが向かったであろう大きな二階建ての喫茶店がある。掲げた看板に《都忘れ》と書かれているのを見て、シャロンは瞬いた。王都ロタールで行った店と同じ名前だ。
アベルは入口に向かわず、店の裏手側から直接二階のバルコニーに降り立った。
戸惑うシャロンに気付いていないのか、慣れた手つきで安全に彼女を下ろして扉の取っ手――は掴まずに、壁に彫られた植物の葉の一つを回転させる。ガチャン、と音がした。
扉を開けて中の部屋へシャロンを通し、自分も入ってからアベルは扉を閉める。
街中の、それも広場にほど近い市民向けの喫茶店にしては豪華な内装だった。既に来た事があるアベルは迷いなく室内を突っ切り、部屋の真反対にあるもう一つの扉に鍵を掛ける。
廊下へ続く扉とバルコニーへの扉、どちらからも同時に施錠の音がした。
これで心おきなく話ができる上に、終わればシャロンはすぐにダン達と合流できるだろう。アベルは一つ頷いて振り返ったが、シャロンはきょとんとした顔でソファの横に突っ立っていた。
「何してる。座っ…」
ローブのフードを下ろしながら言いかけたアベルだが、そこではたと原因に気付く。
自分はたった今、問答無用で連れ込んだ部屋の鍵を閉めたのだ。シャロンからすれば軟禁である。
屋根上や路上で話そうというのもおかしいかと、合流の事も考えてここへ連れてきたわけだが、少々浅はかだったかもしれない。
絶対に誤解が生じないよう一歩後退して扉に背をつけ、アベルはあくまで冷静に説明した。
「……鍵をかけると、外から見た時に使用中だとわかる仕様になってる。誓って他意はない。」
「え?えぇ…もちろんわかっているわ。絡繰りに驚いて…ここは使って良い部屋なのね?」
「空いていれば。」
「そう……」
やけに豪奢な調度品を見回しながら、シャロンはローテーブルを挟んで向かい合う二人掛けソファの片方へ上品に腰かけた。薄紫の髪を隠していたフードを下ろすと、柔らかい微笑みを浮かべて左隣を手で示す。
「ね、貴方も。」
警戒も恐怖もないリラックスした表情を見て、アベルも知らず強張っていた肩の力が抜けた。
――そうだな。ウィルを通じて義理の弟になる俺を、今更お前が疑うはずもない。…いや、疑うぐらいであるべきだが。
「あぁ…」
短く返して促されるままソファに座ると、アベルは自然と緊張が解けたようにふっと息を吐き――誰もいない向かいを見て、瞬いた。
――なぜ、俺は隣に座ったんだ。
考えるまでもなくシャロンに促されたからだが、違和感がなくて気付かなかったのだ。
話したかったらしい彼女の声は弾んでいる。
「アベルはパットやポールとも知り合いだったのね。」
「…あの二人はノーサム子爵の養子だ。」
「道理で…」
目を丸くして頷くシャロンの横で、アベルは今からでも席を移るべきか考える。
施錠された密室に二人。
互いにまったくそういう気持ちも可能性も危険も微塵も無いという信頼関係があってこそだが、それでも隣というのはよくないだろう。話すだけなら向かいで十分だ。
「そうだわ、裏庭で貴方がカレンを助けてくれたと聞いたの。私からもありがとう。」
アベルはタイミングを逃した。
ありがとうと言いながら身体ごと少しこちらへ向き直ったシャロンが、ソファの座面に手をついたのだ。たまたま右手を置いていたアベルと小指が触れ合う。今席を立ったらそれこそ「避けた」ように思われるだろう。
「…別に…」
シャロンを無視もできず視線を合わせる。
それだけで嬉しそうに目を細めた彼女は、やはり既にアベルを家族扱いしているのかもしれない。ウィルフレッドとの正式な婚約もまだだというのに。
穢れのない澄んだ薄紫の瞳に、不吉な影のように黒髪が映り込んでいた。
シャロンは不思議そうに小首を傾げ、アベルはその仕草で、自分がついじっと彼女を見つめていた事に気付く。
「なぁに?」
「…確かに……お前をこうして見るのは久し振りかもしれないと、今思った。」
「まぁ……ふふっ。気付くのがちょっぴり遅いわ、アベル。」
花がほころぶように柔らかく、シャロンが笑う。
すぐ隣でその笑顔を見つめたまま、アベルは傍目からわからない程ほんの僅かだけ首を傾げた。
――彼女は今泣いていないのだから、俺が頬に触れるのはおかしい。横髪をよけてやる必要もない。
そうしても恐らくシャロンは拒まないだろうが、やる意味がないのだ。
奇妙な感覚の理由がわからず、よく磨かれたテーブルに視線を落とした。
「でもよかった。そう思うのは私だけかと思っていたから……だって、カンデラ山に登ってからまだひと月ちょっとでしょう?」
「そうだな。顔は合わせていたし、久しいという程じゃない。」
「えぇ、そうなの。…なのに「久し振り」で、少し寂しくて……今こうして話せている事が、とても嬉しいのよ。」
微笑む彼女の手が自分の手に軽く重なり、アベルは「また癖が出ている」と心の中で呟いた。他人に見られていない以上は、無理に引き剝がす事もないのだが。
手の甲がじわりと温かい。
アベルは二人の間で重なる手を見下ろし、するりと手のひらを上へ向けた。
シャロンの細い指がアベルの指の間にすとんとおさまる。それをわざわざ直す意味もないと、そのまま軽く握った。互いの指先が絡まる。
「お前はいつだったか、こうしたら安心すると言っていたが……それもわかるかもしれない。」
治癒の能力が高いせいで無意識に治しているのか、シャロンの手は美しいままだ。
マメもささくれもない滑らかな肌を、親指の腹で一度だけなぞった。
「俺の隣にいるなら、何かあっても守ってやれる。」
目を離せば檻に入れられ、人を助けようと自分が落ち、他国の王子に絡まれ、果ては暗殺者と戦い出すとんでもない令嬢なのだ。
未来の国のためにも兄のためにも、すぐ守れるよう目につく場所にいさせるのが一番に決まっている。
四六時中とはいかないものの、少なくとも手を繋いでいるこの時は確実にアベルが傍にいて――守れるはずだった。
そう考えれば、安心するという言葉に共感も納得もできる。
アベルより細く柔らかな白い指を、確かめるように握り直した。
自然と深く指を絡める事になり、手のひらがぴったりと合わさる。両手でやったら取っ組み合いのようだなと思いながら、アベルはふと視線を上げた。彼女にしては静か過ぎる。
シャロンは完全によそを向いていた。
彼女が顔を向けた先、バルコニーに続く扉は固く閉じたままだ。なんだと言うのか。
「……どうした。」
「何でもないです……。」
なぜか小声のシャロンに敬語で返され、アベルは至極不思議そうに首を傾げた。




