279.お出かけしましょう
「じゃあ今日はここまで~。はい、はい、終わりですよ~(^^*)」
授業終わりの鐘が鳴り、先生が合図のようにパン、パンと手を叩く。
空中にふわふわと浮いていた私は、ふっと息を吐きながら集中を解いた。ほんの二メートルほどだ、訓練場の地面に危なげなく降り立って、押さえていたスカートから手を離す。
少し離れた場所に着地したチェスターが、ひらりと手を振ってこちらに歩いてきた。
「シャロンちゃん、だいぶ滞空できるようになったね~。すごいじゃん☆」
「ありがとう、チェスター。次の課題は移動ね……まだ全然遅いもの。」
「はは……ダン君と比べたら誰だって遅いと思うよ。焦らずにね」
「えぇ。」
ダンは風の魔法しか使えないけれど、規模と出力だけで言えば上級に匹敵する力の持ち主だ。
ただサディアスのように風を刃として撃ち出す事はできないし、目の前に置いた鞄をそっと持ち上げる、などは苦手みたい。鞄が数メートルは飛んでしまう。
周りを巻き込みがちだから、他の生徒と距離を取って訓練場の端で練習していた。
独学で風の魔法を使いながら一人で生きてきたダン。
自分への使い方は十分よくわかっているから、攻撃や移動の加速は先生も褒めていたものの、調整は苦手。ダンいわく「仮想お嬢」らしい人形が、すごい勢いで壁に叩きつけられる所を幾度か見かけた。……危険だわ。
先生も座学でおっしゃっていたけれど、人間という「大きさも重さもあり、扱いに気を付けなければならないもの」を動かすのは、元々使い手に負担がかかる作業なのだそう。誰かを運ぶ際は、抱えたり背負ったりして自分ごと飛ぶ方が楽という事ね。
私は自分で浮く事はできるようになったものの、人を浮かばせる事はまったくできない。調整以前にほんの少しも浮かないのだ。
「終わりだって言いましたよ~。痛い目見たくなければ降りてくださいね~(#^^)」
高く浮いたままだった生徒が数人、先生の声を聞いて慌てて地面へ戻ってくる。
その中には真っ赤な髪の女の子もいた。
少しだけぴょんぴょんとゆるく跳ねた長髪、シンプルな黒のヘアピンとチョーカー。カレンとレオが言っていた平民の少女――レベッカだ。
チェスターとは別方向からこちらに来ようとしていたウィルが、他の生徒達に囲まれている。彼女はその横をすたすたと通り過ぎていった。
私はつい、訓練場の隅へ目をやる。
浅葱色の癖毛を一つ結びにした小柄な男子生徒が、放課後になるからか木陰に座り込んで目を閉じていた。剣術のクラス分け試験で手を抜こうとして、結局上級に回されていた平民の少年――バージル。
今のところ、彼らが話しているところは見た事もない。
ゲームの《未来編》では、レベッカとバージルはコンビの傭兵として動いているのだけれど。
「第一王子殿下、もしお時間がございましたら、わたくしとお勉強を…その、自習室に」
「いいえ!わたくし達と食堂に参りませんこと?是非お話を聞きたいと以前から…」
「女性陣、お困りになっているのかわからないのか!殿下、俺達と国政について語りましょう!父はかねてより…」
ウィルを囲む人達がヒートアップしてきたわね。
訓練場の端からダンが戻ってきて、私はチェスターと一緒にウィルの方へ歩き出した。
ちなみに、ウィルやチェスターは魔法の同時発動とか、できる事の応用を練習している。
私と同じ中級クラスといっても、二人は恐らく来年……遅くとも三年生の頃には、上級へいけるのではないかしら。
「皆、申し訳ないが今日は先約があるんだ。勉強や意見交換であれば、今度サロンで機会を設けようか。俺一人と話すより見識が深まるだろう――二人も、都合が良ければどうかな。」
ウィルの視線を追いかけるように、周りの生徒達がこちらを見る。
私はスカートを摘まんで静かに淑女の礼をし、チェスターは敢えてキザっぽく自分の胸に片手を添え、ぱちんとウインクした。
「もちろんですわ、殿下。」
「俺も喜んで出席させて頂きますよ。」
ダンは黙って控えているけれど、私の礼に合わせて自分も頭を下げてくれている。
姿勢を戻すと、令嬢達がそわそわと互いに視線を交わすのが見えた。チェスターの参加が嬉しいのだろう。
男の子達はそれまで気付いてなかったのか、硬直してこちらを見つめている。よろしくと気持ちを込めて微笑みかけた。彼らは一斉に慌てて姿勢を正す。……私、そんなに圧が強い顔をしているかしら?
「こっ、これはアーチャー公爵令嬢――」
「シャロン嬢、チェスター、俺達はもう失礼しようか。少し時間が押しているようだ」
「そうですねウィルフレッド様。アベル様を待たせるのも、ね。」
一人が挨拶を始めたところでウィルが遮り、チェスターが同意した。女子も男子も皆引き留めたそうな顔だったけれど、アベルの名前が出た途端にきゅっと唇を閉じる。効果覿面だ。
落ち着いた動きで、けれど問答無用にウィルが歩き出して私達も後に続く。さすがにこれで追いすがってくる人はいなかった。
アベルは魔力がない……という事になっているから、魔法学や治癒術で会う事はない。
学園の規定としては、魔力がなくても見学や座学への参加が許されているけれど、それでもアベルは普段いない。
ただ今日はウィルと合流するという事もあって、サディアスのいる上級クラスの見学に行ったそうだ。
憧れのアベルに見られながらなんて、緊張しそうだけれど大丈夫かしら。これも訓練ね…。
私は私でカレンと約束があるので、仕切りとして植えられた木々の向こう、コロシアムへと向かう二人の背中を見送った。
「もう、びっくりしたよ!」
教科書を胸に抱きしめ、赤い瞳をまん丸にしてカレンが言う。
初級クラスも今日は実技だったそうなのだけど、レオの魔法がちょっと暴発したらしい。
「ボンって音がしてね、なんでかレオの顔が煤で真っ黒で、スワン先生がお水を出してくれたんだけど、レオったらハンカチを忘れてて!」
「まぁ……」
「ぶっ、く…ゴホン。グッ……」
廊下には他にも人がいて、ダンが必死に笑いを堪える苦しそうな音がする。
カレンが貸したハンカチは見事に真っ黒にされ、レオは「失敗した」と笑っていたそうだけど、軽い火傷もあったから医務室に行くよう言われたみたい。
「火傷してしまったの?」
「手のひらをちょっとだけ。先生が、ネルソン先生ならすぐ治してくれると思いますって…。」
カレンが自分の手に指で示した範囲を見て、それなら確かにと頷いた。
恐らく今の私でも治せる。上級医師たる叔父様ならもっと早いでしょう。
「跡も残らないと思うわ。」
「そうだよね、うん。スワン先生がすぐ冷やしてくれてたし……レオもね?付き添いとかいーから、って笑ってたし。」
カレンは自分に言い聞かせるように繰り返した。
口元は笑みを作っていても、内心不安だったのでしょう。今のカレンは友達が怪我をするところを見るのも初めてのはず。驚いた事と思う。
待ち合わせ場所で読んでいた本をしまうのも忘れて、胸に抱えたままだわ。午前に授業があった治癒術の教科書ね。まだ座学段階で実技には至っていない。
「大丈夫よ」
小さな背中へそっと手をあてて軽く撫でる。
カレンは確かめるように「大丈夫」と呟いて、ようやく肩の力を抜いた。今気づいたようにはっとして、本を鞄にしまう。
「そ、そういえば……シャロンは、もう街には行ってみた?」
「まだよ。そろそろ行きたいと思っていたところ。」
「本当?じゃあ、あの……私もまだ行ってなくてね?よかったら週末一緒に、お店見たりとか……」
「もちろんいいわ!貴女とお出かけできるなんて……!」
近々そういうイベントがあると知っていたけれど嬉しい。嬉しい!
感極まってつい立ち止まり、カレンの手をぎゅっと両手で包んだ。自分でも顔が満面の笑みになっているのがわかる。こみ上げる幸福感のままに赤い瞳をじっと見つめていると、カレンの頬がみるみる赤くなった。可愛い。
「お嬢、落ち着け。」
「っと……ごめんなさい。」
「う、ううん…」
ダンに小声で諭され、私はカレンを解放した。これでも抱擁を我慢しての事だけれど、ゲームの私はもっと冷静だったわね。再び廊下を歩き出す。
深呼吸して令嬢らしい穏やかな微笑みを取り戻し、鞄のポケットに用意していた物をカレンに差し出した。
「ちょうど、こんな物を頂いたところなの。よければ使って。」
「割引券……?あ、掲示板で見たお店だ。《パット&ポールの何でも雑貨店》…いいの?」
「もちろんよ。」
「じゃあ貰うね。ありがとう、シャロン。」
「掘り出し物が見つかるといいわね。」
にこにこしているカレンに癒されながら、私達は待ち合わせを決めた。
土曜と日曜は学園の授業がないけれど、私は午前中いっぱい王妃教育を受けねばならない。
ウィル達も王子として別室で授業があるし、チェスターとサディアスも公爵家の長男として、いずれ国の中枢に関わる者として特別授業が入っている。
だから休日のイベントは大体午後に発生するのだ。
「レオはもう街に出てみたらしいんだけど、ご飯が美味しい喫茶店があるとかで…」
一生懸命話すカレンを微笑ましく眺めながら廊下を歩く。
雑貨店のパットとポール兄弟は、ゲームではスチル画像を納めたギャラリーの案内役もしていたから、私にとっては馴染みがある。今世ではようやくの初対面ね。
サディアスルートにしか登場しないノーラの実家が経営していたとは、前世では知らなかったけど。確かにカレンからすれば、ユーリヤ商会のトップがコールリッジ男爵だとか、知り合いでもないノーラの家の名前とか、わからないものね。
それから、恐らくはホーキンズ伯爵家のクローディア様が営んでいる占いの館。
他にも市場、オペラハウス、本屋に喫茶店……気になるところは色々ある。今のところはまだ、入学の日に少しだけ広場を見たくらいだもの。
ここ一か月はまずメリルのいない生活に慣れる事と、学園内の場所を把握する事に使ってしまって――…。
「……?」
一人の男子生徒が、腕組みをして廊下の壁に寄りかかっている。その目は明らかに私へ向けられており、はたと目が合うと彼は白い歯を見せて笑った。
何かしら、しきりにウインクしているわ。
「シャロン、知り合い?」
「…どなたかはわかるけれど……」
カレンに小声で答えながら、私はひとまず会釈を返した。ウインクしていた彼は顔を真っ赤にして頷き、かと思えば背を向けて走り去ってしまう。
王都に屋敷を持つ貴族の次男――とはいえ、私とはろくに話した事がないはずだ。
「誰かと勘違いなさったのかしら……?」
「俺ら三人揃ってて間違えねーだろ。」
「うん、今のは絶対シャロンに向けてだったよ。」
確かに薄紫の髪で帯剣している令嬢なんて私だけだし、カレンの髪色は唯一だし、ダンは私より二十センチほど背が高い。他にこんな三人組はいないでしょう。
でも本当にあの方にウインクされるような覚えはないのよね。
そういえば、とカレンが視線を宙へ投げる。
「昨日は別の男の子がシャロンに話しかけてきたよね。あの、ちょっとおどおどしてる…」
「えぇ、覚えているわ。」
すみません、と呼び止められたものの、暑そうに顔を赤くして汗を流してきょろきょろしていて。ダンが「お嬢様に何か。」とにこやかに聞いたら逃げてしまった。
あれも何の用だったのかわからない。
「お嬢サマはお美しいですから、知らぬ間に誑かしてしまわれたのでは?」
ダンがいい笑顔と作った声で何か言っているけれど、本当にまったく心当たりがない。
私は首を傾げるばかりだった。




