276.誰かが欠ける未来へ ◆
真夜中の王立学園。
月も雲に隠れた暗い空の下、北東側防塔の傍に小さな火の明かりが見えていた。
茂みに覆われていた地下への入り口からやっとの思いで這い出した人影は、ぶるぶると震える細い手で重い蓋をなんとか元通りにはめ直す。
ガコンと音が鳴ると同時、蓋の境目はまったく見えなくなってしまった。
『ハァ…ハァ……!ゴホッ、』
波打つ長い髪はフードの下で額や頬に張り付いている。汗が止まらない。
指定された時間にここへやってきた時には、地下への入り口の蓋ははっきり視認できる状態だった。
特殊な魔法で隠されていたのだろうそれを解いたのが誰なのか、今その魔法が復活したのはなぜなのか、考える余裕はない。必要もない。
『う、うぅ……』
火の魔法を消して、女生徒はフラフラと立ち上がった。
肩からかけた鞄の中には、温室の立入禁止区域で育てられていたとある植物が入っている。指定のケースに、指定の方法で僅かだけ採ってきた。大きな鉢植え一つに小さな花が二百近く咲いているのだ、盗られたと気付くのは難しいだろう。
温室内にある鍵のかかった扉はダミー。
実際には立入禁止区域には外から入らねばならず、普段その入口は魔法で隠されている。
――寒気が止まらない。
ゾワゾワと総毛立つような、冷水に浸かっているような心地だった。以前屋敷の使用人に首を絞められた時に味わった感覚にも似ている。
温室の横を通る途中で視界がグルンと回り、少女は足をもつれさせて倒れた。打ち付けた肩や頬が痛む。草と土の匂いは屋敷のそれと少し違う香りで、きっと味も違うのだろうと考えた。拒む事も吐き出す事も許されなかった味と食感を思い出し、気分は最底辺だ。
『ハーッ…ハーッ……』
少女は今や、浅く呼吸を繰り返すだけの生き物だった。
温室を囲むように点々と設置された明かりが、廃棄物のような姿をぼんやり照らしている。
『何だ、てめぇ。泥棒でもしてたのか』
知らない声がした。
滑稽だと笑うような声の主を見上げる事もできない。
誰、と問う前に足音が近付いてきて、少女の横に一人の男子生徒が屈みこんだ。少女のそれと違って汚れていないローブを着て、顔を隠すように襟巻を引っ張り上げている。
深くかぶったフードの内側にある灰色の短髪と、恐ろしい三白眼だけが見えていた。
『動けねぇか?薬でも盛られたのかよ、ックク。』
か細い制止の声を無視して彼は少女の鞄を開け、濃いピンク色の花が入った瓶を取り出す。
中身を知った途端、彼は動きを止めた。
『……シノレネ』
『返して…ください、私…運ばなきゃ……。』
『ちょうど良かったな、マジで。俺もこれが必要なんだよ』
『っ!?』
『まだ行き方調べてるとこだったから助かるぜ。いくら金が良くても、そんなザマになるのは俺は御免だわ。』
『ぅ……』
少女の爪が地面を細く掻いた。
誰かも知らない彼に渡すべきではないとわかっているのに、身体は「動けない」と諦めてしまっている。
足掻いた事などないし、誰かに助けられた事もない。失敗した者として罰を受ける事が決定した、それだけのこと。少女は力を抜いた。
『二つあるし一つ貰ってく。いいよな?別に。』
『……。』
『抵抗しねーのかよ、つまんねぇ…。』
男子生徒は立ち上がると辺りを見回し、自分達以外に人気がない事を確かめた。足先で蹴って少女を仰向けに転がす。
教室の隅で身を縮めていそうな、いかにも気弱そうな顔だった。その割に随分と大それた事をしたものだ。
転んだ拍子に膝近くまで捲れていたスカートから、不健康に細い脚が伸びている。僅かに見えたものにぴくりと片眉を上げ、彼は黙ったまま靴裏でスカートを太ももまでずり上げた。
執拗に刃で痛めつけたような古傷が幾つも幾つも重なってついている。
『………きっしょ』
ぼそりと吐き捨て、蹴り捨てるようにスカートを戻した。
仰向けで暗い夜空を見上げたまま、少女は恥じる様子も傷ついた様子もない。まるで感情など無いかのように無表情だった。全て諦めた顔だ。
『……花使って何する気だったんだよ。』
『…わかりません。……言われた事…した、だけだから……女神様の、役に立つって。』
ぼそぼそと喋る少女の声はかなり聞きづらい。
それでも幾つかの単語を聞き取って、彼は嫌悪の眼差しで顔を歪めた。
『女神サマ?……ハッ、ハハハハ!お前女神教徒かよ!』
奪い取った瓶を手にしたまま、勢いよく屈んで少女の顔を覗き込む。
ろくに意思もなく言われるがまま侵入し、毒に侵され倒れている。彼に毒の知識は無いからわからないが、このまま放置すれば死ぬのかもしれない。望んでやった事ならまだしも、誰かに言われて。
無様だった。
なんて価値の無い人間。
『お前の顔見てるとムカつくわ』
『…よく、言われます。』
『だろうな。女神サマにでも助けてって言ってみたらどうだよ。』
『………。』
『司祭どもの命令で来た女神教の信者なんだろ?お祈りして助けてもらえ』
『……女神様は……私なんて助けない。』
独白のように零した少女の暗い瞳を、彼は冷めた目で見下ろしていた。
襟巻で隠した口元を意識的に蔑みの笑いへ変える。「当たり前だろ」と吐き捨て、立ち上がった彼は今度こそ踵を返した。
『ゴミに救う価値なんかねぇよ。』
足音が遠ざかって消えていく。
少女は自分の意識が落ちて死ぬのをひたすらに待ったが、中々その時は訪れなかった。身体を蝕む毒はもしかしたら、致死性の物ではなかったのかもしれない。
朝になれば誰かは通る。
おそらく医務室に運ばれ、毒という事で薬学教師も呼ばれれば、地下の禁止区域への侵入は知られてしまう。彼が仕掛けた毒のはずだから。
鞄の中身も取り返される。
指示書に記されていた場所まで運ばなければいけないのに。言いつけ通り指示書は燃やしてあるが、失敗は失敗だ。なぜこんな事をしたか少女は問い質される。国が禁止している物なのだ、騎士団が来るのも当然で、沈黙を守れるのかわからない。常々両親から命じられていた「言うくらいなら死ね」を実行するしかないだろう。
自決用の毒は持たされていないから、身体に何かしら損傷を与えて。
どんな道を辿っても、結局少女は死ぬしかないのだ。
与えられた選択肢は一つか二つ、ほんの僅かな距離の回り道をするか否かだけ。
人間誰だっていつかは死ぬのだから、早いか遅いか。少女にはどうでもいい事だった。苦痛と従属の日々が終わるなら、いっそ早めに死ぬのは良い事だとも思える。
動かない身体を蟻が登っていく。
――早く…早く。
誰にともなく、ただ祈っていた。
『おやおや、無いと思ったらこんな所に。』
少女は瞬き、空しか見えない視界の中に人影を探そうとした。しかし誰も見えないまま頭に強い衝撃を受け、ようやくその意識は失われる。
疲れ果てた彼女には、どこか聞き覚えのある声の主を察する事はできなかった。
『さすがホワイト先生、やはり先代と違って罠を仕掛けてましたか。』
男の声が感心したように言う。
普段は魔法で隠されている地下への扉は、強引にこじ開けると管理者に察知される。加えてこの毒では、飛んできた彼から逃げきる事は不可能なはずだ。
――もっとも、今回みたくちゃんとした手順で扉を開けてしまえば、察知される事もないんですけど。まさか私が開け方を知ってるなんて思わないでしょうね。
『フフ……致死毒にすれば良いでしょうに。』
魔法で姿を消したまま、男はくすりと笑った。
若くして薬学の本場ロベリア王国で博士号まで取ったルーク・マリガンだ。即効性の致死毒くらい難なく作れるだろうし、それならこんな瘦せこけたネズミ一匹逃がす事もなかった。
情報は取れなくなるけれど。
万が一禁止区域に挑戦しただけの馬鹿な生徒だったら、それを殺した事になるけれど。馬鹿だったのか誰かに脅されたのか、何か盗む気だったのか、弁明もできずに本人の口は閉じてしまうけれど。
『お優しいですね。』
にっこりと笑って、男は細い指で少女の鞄を探る。
シノレネが納められた瓶は一つだけだった。予備も合わせて二つ採れと指示したのに。つくづく使えない愚図ではあるが、最悪、ヘデラ王国から密輸できない事もない。手数と金と消す人間は増えるけれど。
それも予備いらずで薬ができれば問題ない話だ。
――薬を作るのに約半年、運搬にかかる時間と効果の検証……実際に使うのは早くても来年の二月か三月頃ですね。
男は誰に何が起きるのか知っていた。
その人物を授業で見ているから、あれほどの逸材にそれが起きれば死者が出るとわかっていた。
女神は薬の効果を知らず、「怪我人は出るかもしれない」と言われただけで迷っていたけれど。彼女の力になりたい全ての人間は、そんな事は構わない。怪我は治せばいい、必要な手順であると伝え続ければ、とうに精神が疲弊しきった彼女は頷くしかない。
実際には死者を出せればそれが一番良く、実力から考えれば第二王子だけは助かるとわかっていた。
それでいいのだ。
ゆっくり、しかし確実に進めているこの計画は、第二王子アベルに身近な人間の死を見せる事が目的だった。
険悪とはいえ双子の兄である第一王子、ウィルフレッド・バーナビー・レヴァイン。
次期王妃候補、筆頭公爵家の令嬢シャロン・アーチャー。
七歳の頃から従者を務める理解者の一人、チェスター・オークス。
加えて居合わせる可能性があるのは、平民の友人であるカレン・フルードとレオ・モーリスか。
誰かは命を落とすないしは瀕死の重傷を負うだろう。
いかに剣の天才と謳われるアベルでも、強力な魔法から全員を守れはしない。
彼に魔力は無いのだから。
――失敗したら、それはそれで。《王の器》たる彼の有能さを物語るものとなるでしょう。
『う……』
地面に倒れたままの少女が小さなうめき声をあげ、男は忘れていたとばかり彼女に視線を落とした。ひょいと抱え上げて宣言を唱えれば、男と同じように闇に紛れ、見えなくなる。
『今は眠りなさい。目覚める頃にはお父上から次の指示書が来ていますよ』
まるで良い事のように言われた声を聞く事もなく、少女は気を失ったまま苦しげに眉を顰めていた。
汗と土に汚れた彼女は、翌日の昼過ぎにやっと目を開ける。
男が言った通り短い文章が綴られた指示書が届いており、それは学園を出て勝手に野垂れ死ねという内容で。
失敗した自分には、もし花が減った事に気付かれたら邪魔になる自分には、当然の指示だと思えた。
黙って湯を浴びて傷跡だらけの身体を流し、一着しかない私服を鞄に詰めて寮を出る。逝く場所もわからないまま。
スザンナ・ブロデリック伯爵令嬢は自らの足で学園の門をくぐり、そして二度と戻らなかった。




