270.神と呼ばれた人
神話学。
それはかつて実在した「女神」と呼ばれる二人の女性と、六人の騎士が残した伝説を学ぶもの。
国史の内容と重なる部分があるので、どちらも受けると絡めて覚えやすい――と私は思うのだけど、ダンなんかは「覚える事が増えるだけじゃねーか」と不満そうだし、必修ではないのでカレンやレオは授業をとらなかった。
この国に「女神」の存在を知らぬ者はない。
女神像は各所にあるし、本を読まなくても教会に行けば学ぶ事ができる。彼女達は、初代国王陛下と共に戦った偉人なのだと。
教会は入学前の子供が通える学習所でもあり、魔力鑑定の場だ。孤児院を併設している所もあって、管理できるのは神殿都市で資格を取った人だけ。
学園で神話学を教えるグレン先生もその一人。
「武に長けた月の女神、治癒の魔法に優れた太陽の女神。彼女らの協力無しでは、建国にもっと時間がかかっていたか……あるいは、ツイーディア王国は生まれていなかったかもしれませんね。」
背中まで真っすぐに伸びたブロンドベージュの髪、菫色の瞳。
口元には穏やかな微笑みを浮かべて、グレン先生は教室を見回した。今日はウィル達が私と同じ列に並んで座っていて、それをなぞるように視線が動く。
「皆さんご存知の通り、六人の騎士……初代国王陛下と五公爵の血は、現代まで続いています。ツイーディア王国が今も大国として名を馳せているのも、各家が代々国に貢献し支えてきたことが大きいでしょう。」
何人か、チェスターの方を見やった人がいる。
二月にあったバサム山の一件は、狙いがあくまで公爵夫妻だった事から「お家騒動」とされているけれど、もう一人のダスティン様が行っていた違法薬物の製造等は別問題だ。領地の一部を国に返上したり大金を支払ったり何なりと、民からの信用や名誉も含めてオークス家はかなりのダメージを負った。
それでも処分としては軽い方だろう。
ダスティン様の捕縛にはチェスターの貢献があったし、元々閣下も彼の罪を捜査中だったそうだから。何より、二重人格という事でダスティン様本人の処分が確定できていない。
「学園の校舎は六角形に作られ、敷地を囲う外壁には六つの側防塔がありますが、それは初代学園長であるアンジェリカ・ドレーク様が依頼した設計です。自身を含めた六人の騎士になぞらえたものとされており――」
グレン先生はにこやかに語りながら、黒板に綺麗な文字を足していく。
月の女神様、太陽の女神様、アンジェリカ様。神話学でよく登場する女性といえばこの三人だ。
「当代のドレーク公爵――学園長先生も女性ですが、初代のアンジェリカ様も兄弟の中で唯一の女性でした。彼女の母は神秘の国――君影国の出身とされ、扱う武器も剣ではなく刀だったそうです。たとえば、こんな話があります……」
始まった話を既に家庭教師から習ったものと察して、私はグレン先生をじっと観察する。ゲームの《未来編》で、降りしきる雨の中、グレン先生は歪んだ笑みを浮かべていた。
『サディアス・ニクソンがアベル殿下を殺し、貴方が生き残った時……一体、どれほどの民が絶望したかわかりますか?命を絶った者がどれだけいたか……ご存知ないでしょう。』
【 隣に立つウィルの肩が少しだけ震えた。皆を次々と失ったあの頃の記憶は今も、私達の心を強く縛っている。――やめて、それ以上言わないで。学園長先生を手にかけた貴方の言葉なんか、聞く必要ない。ないのに…… 】
『貴方は望まれて王になったのではない。レヴァイン家の血を持っているだけです』
【 雨の音が、自分の心臓の音がうるさいのに、笑顔の消えた彼の声ははっきりと聞こえた。 】
『ご自分でわかっているでしょう。あの日、炎に貫かれるのは貴方であるべきでした。アベル殿下こそは真に王となるべきお方だった。星に例えられる歴代王家の中でも、彼ほどの器を持つ者はいなかった……』
【 ウィルを知らないくせに。どれだけ傷ついたか、どれほど背負ったか、どんなに苦しんでいるか、血の滲むような努力も何も、知らないくせに。アベルが死んでしまった事は、誰よりもウィルが一番、自分を責めているのに。グレン先生は――グレンは、憎々しげにウィルを睨みつけて叫んだ。 】
『貴方が死ねばよかったんです!そうすれば全てが上手くいっていた!!』
【 黙ってと、人を殺すような人に何がわかるのと、叫ぼうとした私をウィルが制止する。 】
『グレン。あの日アベルに救われた俺だからこそ……あいつの分まで全力でこの国を、民を守らねばならない。わかっているだろうが、犯罪者を逃すつもりはないよ。かつて教えを受けた相手だとしても。』
『私を捕えるつもりですか?はは…やってみるといい、お飾りの国王陛下。久し振りにお教えしますよ、貴方がどれだけ無能なのかをね。』
教壇に立つグレン先生の穏やかな微笑みを見ていると、前世の記憶にある立ち絵が間違いのように思えてくる。今のところアベルを優遇する素振りもウィルを冷遇する様子もないし、このまま良き先生でいてくだされば、何も問題はないのだけれど。
「アンジェリカ様は隻眼だったと多くの書物が語っていますが、私が知る限りでは片目を失った理由を書かれたものはありません。生まれつきか、病か、エルヴィス様達と生き別れた際に何かあったのか……君影の血を引く事から、神話学者の中にはアンジェリカ様を専門に研究する者もいるくらいです。」
君影国といえば、アベルと会ったお姫様はアロイスを見つけられたのかしら。
ゲームのシナリオ通りなら、初夏の頃には学園の外壁近くで登場イベントがあるはずだけれど……今はどこにいるのだろう。
神出鬼没な自称「謎の男」で、君影のお姫様の「兄」であり、カレンと攻略対象に助言をくれるお助けキャラ。長い黒髪に銀の簪、顔の上半分を覆う猫面。さすがに普段からそんな格好ではないでしょうけれど。
「建国の騎士――エルヴィス・レヴァイン様と共に戦ったご兄弟の一人、アンジェリカ様。彼女が作ったこの王立学園には、過去を紐解く《何か》が残されているのではないか?いつの時代も、それを探すのは生徒のロマンですね。学生だった頃は、私もよく夜中に……いえ、この話はやめておきましょう。」
グレン先生はくすりと笑い、「学園長先生の拳骨は痛い、とだけ。」なんて仰った。
意外とヤンチャな学園生活を送っていたのね。
「興味や疑問のあるものは、自分の目と足で確かめに行く事をお勧めします。探した先に必ず答えがあるとは限りませんが、それもまた人生というもの。ルールを破るか否か、諦めるか別の方法を探すか?怠惰も研鑽も、視野を狭くするのも広く持つのも、皆さんに許された自由なのです。」
持ち手用に巻いた布ごとチョークを置き、教壇に立てかけていた杖を手に取る。
教室の生徒達全員を見回して、グレン先生は一度だけ床を突いた。
「月の女神も、太陽の女神も、貴方がたに《かくあれ》とは言いません。彼女達は人々に規律を与える神ではなく、周りから神と呼称された人間に過ぎない。」
女神教という単語はなく――口の悪い方が、熱心な方に悪い意味で言う事はあるようだけれど――ツイーディア王国に国教はない。
事実として建国の立役者である女神様と六人の騎士は尊崇されているものの、それは民の義務ではないし国が定めたものでもないのだ。
神父や司祭など教会に勤める方は神話学者という面が強い。
「私達と同じはずのただの人間が、人ならざると言われる程の力を発揮して女神と呼ばれたのです。ならばいずれ、彼女達のような力を有する者が新たに生まれる事も……あるかもしれませんね。非常に素敵な事だと思います。叶うなら、私が生きているうちにそんな存在にお目にかかりたいものです。」
教壇に広げた教科書へと視線を戻して、グレン先生はそう締めくくった。
最後の言葉はあえて、生徒の誰をも見ないようにして言った――そんな気がした。
人ならざる力。
私は意識して先生を見つめたまま、決して《彼》に目をやらない。
全属性に等しく適性を持ち、尋常でない量の魔力を有し、女神に愛されたとまで言われる力を持つ人。
ウィルが王になった未来では、魔法を使える事すら知られぬまま終わったはずの人。
先生が敵になった未来で、魔力量なんて知られなかったはずの人。
『真に王となるべきお方だった。星に例えられる歴代王家の中でも、彼ほどの器を持つ者はいなかった……』
さすがに……考え過ぎね。
数秒目を閉じて、私は可能性を切り捨てる。
グレン先生がアベルの魔法を知っているはずがない。
万が一知っていたとしても、彼が敵になるのは何年も先のこと……アベルを喪わなければいいだけ。私は最初からそれを前提にしているもの。ウィルもアベルも死なせない。
「では今日はここまで。続きはまた次回と致しましょう」
先生が言い終えると同時、授業終わりの鐘が鳴った。
カレンは寮に戻っているかしら。レオは身体を動かしたいと言っていたから、そちらに付き合っているかもしれない。
最初の選択となる「皆とお茶会」イベントで、カレンはサディアスを選んだ。
四月ももう終わるから、恐らく次はカレンが誰かをティータイムに誘える定期イベントが起きるでしょう。
ゲームでは制限があって、まだウィル、アベル、サディアスの三人は誘えないはず。ウィルは次回から、後の二人はさらにその次にならないと誘えない。
だから今回はチェスターか私か…
「きゃあ!」
教室の出口に向かう途中、そんな声が聞こえて振り返る。
金髪をサイドテールに結った令嬢が、壁際の棚に飾られた花瓶に近付こうとして躓いたらしい。彼女は慌てたのか手をわたわた動かして、陶器の花瓶を殴りつけてしまった。ひゅーんと私目掛けて飛んでくる。そんな事ってあるのね。
ダンが前に出て危なげなく花瓶をキャッチした。
転ばずに済んだらしい令嬢――キャサリン・マグレガー侯爵令嬢が、涙目で駆けよってくる。
「も!申し訳ございませんわ!大丈夫でしたかシャロン様、あぁお付きの方に水が!」
「私は大丈夫ですわ、キャサリン様。落ち着いてください」
一歩横にずれたダンを見上げてみると、確かに手と胸元が濡れていた。
花を落とす事なく花瓶を受け止めたけれど、中の水にまで意識がいかなかったのね。ランドルフが見ていたら「まだまだ詰めが甘い」なんて言いそう。
「危うくお怪我をさせてしまうところでしたわね。何かお詫びを…今はこれくらいしかございませんが」
「これは……」
キャサリン様が差し出してきたのは、《わりびき券》と拙い字で書かれたチケットだった。ダンは花瓶を元の場所に戻し、ややしかめっ面で手を拭いている。
「街の雑貨店で使えるそうですわ。ユーリヤ商会のお店ですからきっとご興味頂ける物もあるかと……もしよろしければお使いください。」
「まぁ…ありがとうございます。」
「小さな子が「特別に」と言ってくれたものですから、他の方には内緒ですよ?」
『…という事ですから、もしよろしければいらしてください。ふふ……シャロン様だけの特別ですから、内緒ですよ。次回の目玉はウェイバリーの新作だそうですわ。では、ご機嫌よう。』
何だかデジャヴが……。
去年はエクトル・オークションズのチケットをくださったのよね。
ただ、確かに…そういえばなぜかシャロンは割引券を持っていた。
来月の「シャロンとお出かけ」イベントで、カレンと一緒に街へ行く事になる。
細かすぎて忘れていたけれど、確かに、なぜか持っていて主人公にくれる。
こんな経緯で手に入れていたのね……




