268.私は知っている
「…つまり、この薬は馬鹿でも作れるという事だ。」
薬学の教科書を片手に、ホワイト先生は黒板を一度叩いた。
広い教室の中、ダンは私の隣で渋々ノートを取っている。一列前の少し離れた席にはカレン、別方向にはウィル達が座っていた。レオはこの授業は取っていない。
それから、わざわざ今振り返ったりはしないけれど……後ろの方の席にはロズリーヌ殿下もいらっしゃったはずだわ。
「塗布できる状態まで擦り潰せば良い。非常時で道具が無い場合は歯でも構わないが、飲むなよ。強烈な苦味があるためまずありえないだろうが、大量に飲むと――…」
教壇に立つ先生は今日も赤いレンズのゴーグルをつけていて、さらさらの短い黒髪は右の前側と左の後ろ側だけ、まばらに白い。後ろの方の席では生徒が声を潜めて話している。
「先生、今日もお美しいですわ……あんな物外して頂けないかしら。」
「マリガン公爵家といえば、王妃殿下の御実家ですものね。本当、ため息が出るような美形ですけれど…目つきが、ほら、第二王子殿下みたいに怖くって……」
「わたくしは髪色が無理ですわ。なぁに?あの白いところ…染めているならわけがわかりませんし、自然にああなったのなら気味が悪い……」
教壇から遠いから、小声なら聞こえないと思っているのでしょう。
先生はどうか知らないけれど、少なくとも私の席までは聞こえているのに。
他の人に気付かれない程度の動作で、私はダンと目を合わせてちょんと後ろの方を指差した。
ダンは「面倒」と「嫌」が混ざった顔をしたけれど、おしゃべりしている彼女達の方を少し振り返り、薄く作り笑いをして人差し指を唇に近付ける。
私は知らぬ存ぜぬで板書を続けていた。話し声はぴたりと止まったので、これでいいでしょう。……ちなみに貴女達、この距離だとたぶんアベルには聞こえていたわよ。
「上手い下手は別として、魔力持ちには治癒の魔法がある。だが日頃から魔法頼りでは、魔力が切れた時に何もできないと覚えておけ。」
先生は「マリガン先生」と呼ばれる事も、「リリーホワイト子爵」と呼ばれる事も好きじゃない。宰相であるお父様――マリガン公爵と合わないのだ。
公爵は王妃殿下のお父様、つまりウィル達にとって「母方の祖父」にあたる人。
夫人に先立たれてしまった公爵と、後妻との間に生まれたのがホワイト先生。なので異母兄である次期公爵や王妃殿下とは、結構歳が離れている。
そう。先生はまだ二十三歳と若いけれど、家系図上はウィル達の叔父様なのだ。
入学式の日にアベルを「前に会った時は赤子だった」と言っていたのも、ただの教師なら生まれたばかりの王子に会えるわけがない。先生が王妃殿下の異母弟だからこそだ。
「何もかもを魔法には頼るな。多少の怪我なら知識が助けになる。……次のページを開け」
教科書をめくりながら、私は教壇に立つ先生の姿を眺めた。あのまばらに色が抜けた髪は、幼少期に目の前で母親を亡くした事が原因だ。
対外的には先妻と同じ病死とされているけれど、ゲームでの先生は《未来編》で、カレンにだけは真実を教えてくれる。
『五歳の時だ。母はおれを殺そうとしたができなかった。先代国王…ギルバート陛下が、魔法で守ってくれたからだ。ならば自分が死ぬと言って、あの女は』
自ら命を絶った。
理由は、先生の髪が黒くて――瞳が赤いから。
それだけが問題だった。
産んだ赤子を見た途端に彼女は泣き叫んで暴れ、虐待の恐れがあると隔離された。先生の面倒を見たのは乳母や使用人、異母兄姉、そして当時王太子だったギルバート陛下。
五年経ってだいぶ精神状態も落ち着いた公爵夫人は、直接会って謝りたいと申し出た。
ホワイト先生は久し振りに、ご自身の記憶では初対面でお母様に会い――殺されそうになった。謝りたいという言葉は嘘。
彼女はただ、殺したい相手に円滑に近付く必要があり。そして母子であるという事は、殺意を隠して会うのにちょうどいい関係だった。
『その時聞いた言葉を今も覚えている。大騒ぎだったから、他は誰も聞いていなかったろうが。』
『……なんて、おっしゃってたんですか?』
『《私は知っている》』
ひょっとしたらそれは、《先読み》のスキルによるものだったのかもしれない。
赤く血に濡れた唇で、彼女は先生に呪いをかけた。
『《黒髪赤目の男が無辜の民を殺す。やがてその髪は白く染まり、数えきれないほど殺すでしょう》』
それがお前だと言わんばかりに、幼い先生の目を見つめて。
『《私は、知っている。》』
幼い先生は、「殺す」という言葉を知らなかった。
目の前の女性が「母親」と言われても、初めて見る「知らないひと」だった。
何を言っているのか、わからなかった。
それでも耳に残った言葉は頭から消えず、やがてマリガン家の「仕事」を知る。家を継ぐのは兄だけれど、少なくともあれ以来白くなった髪は、母の予言通りだと。
実際にはもう一人、中ボスとしてカレン達が戦うヴェンも、黒髪赤目なのだけど……彼に会うまでは、先生は自分以外の「黒髪赤目の男」を知らない。無辜の民を殺す理由なんて自分には無いとわかっていても、母親の言葉は重石となって残り続けた。
そして、先生のルートにはもう一つ予言が出てくる。
ゲームのサブタイトルである――《凶星の双子》の予言が。
「今日はここまでだ。」
授業終わりの鐘が鳴ると、先生は教科書を閉じてそう言った。
ウトウトしていたらしい数人が急いで板書を再開する。もう放課後だし、慌てなくても清掃員が来るまで黒板もそのままでしょうけど。
これが国史や魔法学中級の先生だと、鐘が鳴り終わったらご自分で消してしまうのよね。
「マリガン先生ぇ~、この薬なんですけどぉ」
「わたくしもこちらがわかりませんの~」
「ホワイト先生と呼べ。語尾は伸ばすな。どれだ」
教科書やノートを鞄にしまいながら、私は女子生徒に囲まれた先生へ目を向けた。板書する生徒の邪魔にならないよう、黒板からは少し離れた位置だ。
周りに人がいないタイミングで、先生には色々と聞きたい事があるのだけれど……椅子に座ったまま雑談を始めた生徒もいるし、授業終わりは無理ね。
「お嬢、どうする?」
ダンが私にだけ聞こえる声量で呟いた。
私は小さく首を横に振る。周囲に邪推されるわけにもいかないので、研究室か温室かで何とか捕まえるしかない。
「あッ」
小さな悲鳴が聞こえてそちらを見ると、ロズリーヌ殿下がペンを取り落としてしまったようだった。あのまま転がったら私達の方に来そうね。
拾って差し上げないと――と思いきや、殿下の靴先がペンをカツンと蹴った。方向転換したペンはよく磨かれた床を滑り、教室を出ようとしていたウィル達の方へ向かっていく。
最初にアベルが振り返り、それに気付いた他の三人も振り返ったところで、ペンはサディアスのブーツの踵にぶつかった。
彼は自然とペンが来た方向を見て持ち主を察し、少し跳ね返ったそれを拾い上げる。ここまでは聞こえないけれど小声でウィル達に断りを入れて、三人は殿下に会釈してからサディアスを残して出て行った。
私がロズリーヌ殿下に視線を戻すと、彼女は驚いたのかあんぐりと口を開けている。ダンが小さく咳払いした。さては笑いそうになったわね。
「殿下、口。」
「はっ!」
ロズリーヌ殿下がびくりと身体を揺らし、両手をそっと顎に添えて押し上げた。サディアスが歩いてくるのを見て悲鳴を漏らす。
「ひぇ!?あ、あぁぁいえそんな!捨て置いてくださいましそんな!あの!そんなペンはペンでございますので!!」
「殿下、意味がわかりませんよ。」
従者――ラウル・デカルトという名前だったはず――が冷静に突っ込みを入れている。
ホワイト先生はいつの間にやら立ち去られたようで、教室には生徒もそんなに残っていない。遠巻きに好奇の目で見ている人はいるけれど。
殿下の前に来たサディアスは、困ったように微笑んでハンカチに乗せたペンを差し出した。
とんでもなく綺麗な営業スマイルだわ。
「ご迷惑でしたか?」
「とんでもないですむしろご褒美ですわ!!一生大切に致します!!!」
ものすごい大声!
「殿下、耳壊れます。」
ダンも私もびくっとしてしまったけど、その大声を真正面から浴びたサディアスは微笑みがほんの僅かひきつっただけだった。それもすぐに戻る。
ロズリーヌ殿下はぶるぶる震える手をゆっくり、かなりゆっくりと伸ばすので、デカルトさんが先に受け取ってしまった。殿下がポカンとして彼を見上げる。
「ありがとうございます、サディアス様。うちの殿下が大変失礼致しました。」
「お気になさらず。…王女殿下」
「ヴァイッ!!」
「……何か御用やお困りの事があれば、どうかお気軽にお申し付けください。私にできる事があれば、ご協力致しますので。」
「う゛っ……サディたッ、ぁ…サディアス様、ありがとうござみまむま……」
ものすごい緊張の仕方だわ。
殿下のふっくらした頬を汗が滝のように流れ落ちていく。サディアスは笑顔を保っているけれど……反応に困っているわね、あれは。
私がダンに目配せして一緒に立ち上がると、サディアスの水色の瞳がこちらを見る。それに気付いてか、細かく震えていたロズリーヌ殿下の瞳もきょろりと私を見て――目を剥いた。な、なぜ?
にこりと微笑みかけたけれど、殿下は硬直している。
会釈やご挨拶をしようとしても目を逸らされてしまう事が多かったのは、やはり意図的に避けられていたのかしら。初めてお会いした時、ウィル達に対しては「できるだけ視界に入らない」なんて仰っていたけれど。
サディアスが薄く笑みを浮かべて「あぁ、これはシャロン様」と半歩引く。殿下が震えとも会釈ともつかない動きをして、私はひとまず会釈を返されたと受け取る事にした。
「こんにちは、殿下」
「眼福満腹ですわ……」
殿下はスッと目を閉じ、両手で顔を覆い俯いてしまわれる。どうしましょう。
あまりこう近くで見る機会がなかったけれど、デカルトさんは割と目が笑っていないのね。遠目なら、気さくに微笑んでいるように見えたのに。
「殿下、それ反応に困りますよ。」
「っ失礼しましたわ!わたくし大丈夫です、ペンも家宝として賜りましたしお腹いっぱいですの!」
「ますますわけわかんないです。」
「ふふっ。」
まるで前世で見たテレビのコントのようで、つい頬がゆるんでしまった。拾ったペンを他国の王女様に「家宝」と言われる事態に、サディアスが困惑のあまり真顔になりかけているわね。
殿下は顔を上げて胸の前で両手をぎゅっと拳にされていて、なんだかほほえましい。
「失礼致しました、お可愛らしくてつ――」
「こここちらこそですわ~!今わたくしが見た光景を絵画にして殿下にプレゼン…何でもないですわ。おほ、おほほほ」
口の横に手の甲を添え、ロズリーヌ殿下はごまかすように笑った。
えぇと、私達三人を絵画にして……ウィルかアベルにプレゼンをする?それは一体何が起きているのかしら。不思議な提案をされる方ね。もしくは私、今なにか聞き違いをしたかしら。
少しだけ頭を傾げてしまったけれど、「何でもない」とおっしゃるからには私も微笑みを崩さず頷いておく。デカルトさんがぺこりと礼をした。
「申し訳ありません。うちの殿下少し、錯乱癖がありまして。」
「何て事言うんですの、わたくし王女でしてよ!?お、お二人共違うのです、緊張してしまうだけなのですわ。もう視界に入らないので許してくださいまし!!」
「いえ、その…」
サディアスは小さく苦笑し、黒縁眼鏡を指で押し上げた。殿下が口元を手で押さえて「生!」と小さく叫ぶ。……なま?
「先日お会いした際もそう仰っておりましたが、なぜ私共の視界に入らないと?」
「ご、ご迷惑とお目汚しですので……」
「そのような事はありませんよ、殿下。同じ学園へ通える事も、こうしてお会いできる事も大変光栄です。どうか、目汚しなどと仰らないでください。」
錯覚かもしれないけれど、サディアスの周りにきらきらした光が見える。
《学園編》に入った事による仕様なのか、それともウィルと一緒にいるうちに習得した技…なのかしら。
「ふぐぅ……わ、わかりましたわ……視界に入っても大丈夫だと、心得ておきます。」
プルプル震えながら、それでも殿下は頷いてくださった。
よかった。これできっと私も、目を逸らされる事がなくなるでしょう。
殿下の性格がゲームとかなり違うのは、やっぱり従者の存在?
シナリオに出なかっただけで「実はいた」という事も考えたけれど、でもゲームにはいたはずの取り巻きモブ令嬢ABC――名前も顔もわからない――を全然見かけなくて、代わりにあの人がずっと一緒にいるんだもの。
「よかったですね、殿下。」
「はい……これからはわたくし、視界の隅に生えている雑草になりますわ…」
……本当に、すごい変わりよう……。




