266.皆違って皆良い
緩く癖のついた緑色の短髪にすらりと伸びた長い手足、甘さのある桃色の瞳。
王女が連れ歩く従者として申し分ない美貌を持った青年ラウルは、展望デッキのテーブル席で主と共に勉強道具を広げていた。
放課後にここを利用する者は少なく、他の生徒がいるテーブルまでは距離がある。普通の声量で話しても届きはしないだろう。
「殿下。生きてますか?」
「ふぐぅうう……生きてますわもちろん……。」
ヘデラ王国第一王女ロズリーヌは、開いたノートに両腕をついてガックリと項垂れていた。
艶やかなプラチナブロンドはポニーテールにして大きな白いリボンで結び、一般的な女子生徒よりはどっしり、否、ふっくらした体型の持ち主だ。
ぐぐぐ、と前屈みだった上体を起こし、ロズリーヌは深い溜息を吐く。
「お兄様の勧め通りに法学を取ったものの……良い勉強になるどころかチンップンカンプンですわ……難しい話ばかりで頭から煙が出そう。いえ、もう出ているのでは?」
「何だかんだ優秀な方ですからね、ナルシス殿下は。」
自分の頭の上を手で扇ぐロズリーヌを軽く手伝ってやりながら、ラウルは反対の手で教科書のページをめくった。王族が留学するのだから、他国の法律を学ぶというのは正しい。自国にも活かせる仕組みがあるかもしれないからだ。
ただ、それをロズリーヌの頭脳に期待すべきではないし、実際ナルシスも期待はしていないだろう。妹のためになるかもしれない、というだけで勧めたに違いない。
「えぇ、お兄様ならスラスラと読めているでしょうけれど……うぅ、わたくしには無理です……。」
「成績とか期待されてないでしょうし、いいんじゃないですか?」
「辛辣ッ!」
「それより、ちゃんと寮で生活できてます?」
「問題ありませんわ。まぁ……少し、居心地が悪く思う時もあるけれど。視線を集めてしまうのはどうしようもないですし。」
さして気にしていないらしい主を見つめ、ラウルは目を細めた。頬杖をついたロズリーヌの薄青色の瞳は、少しオレンジがかってきた空に向いている。
同盟国の王女とはいえ、ロズリーヌの見た目や王女らしくない振る舞いを馬鹿にする生徒は多かった。
もっと線が細く姿勢も常に美しく、王女としての威厳に満ちていればそんな事はなかったのだろう。ロズリーヌは長年淑女教育をサボっていたし、以前の傲慢さはすっかり無くなってかなり大らかな性格になっている。多少陰口を言われた程度では相手に詰め寄ったりしない。
その王女の従者だという事で、ラウルにも好奇の目が向けられていた。
剣術や護身術の前後など、どうしてもロズリーヌと離れるタイミングに擦り寄ってくる女子生徒もいれば、あんなのが主で大変だよなと聞こえよがしに囁く者もいる。美味い汁を啜るために王女に媚を売る顔だけの男、とも。
ツイーディアの王子の従者達くらい魔法か剣が、あるいは拳闘ができればそれもなかったのだろう。ラウルは王女に拾われた孤児であって、ヘデラの兵士ではない。
『貴方、果実のような瞳をしていますのね。よく見れば顔もいいわ』
汚い身なりだと眉を顰めた直後、王女はそう言った。
彼女の我儘に大人しく付き合っていれば、望まれるまま分厚い手に唇を落とせば、へらへらと苦笑いしていれば、それだけで城での生活が約束される。料理屋で残飯を恵んで貰っていた頃に比べれば遥かに楽だった。酔っ払いに襲われる事も凍える事もないのだから。
数えきれないほど心の中で罵りながら、毒づきながら、それでもロズリーヌ王女は恩人だった。
「つらくなったら留学やめます?」
「まさか。何事もなければ卒業まできちんといますわ。付き合わせてしまって、貴方には少し申し訳ないけれど。」
「自分でついてきたんだし、学無しが学有りになれるんですから、俺に不満はありませんよ。」
「そう?では二人で穏やかな卒業を目指しますわよっ!」
「了解です。」
ぷにっとした拳を空へ突き上げるロズリーヌに合わせ、ラウルも軽く拳を上げる。
一年前の自分はこうなる事など予想もしていなかっただろう。彼女がロベリア王国へ留学する間は、我儘と金切り声から解放されると信じていた。
――…それはそうと。
「殿下は何で時々、サディアス・ニクソン様を張ってるんです?」
「まぁラウル、前にも言ったでしょう。わたくしはただ見守り隊に所属しているだけですわ。」
「他に隊員がいないアレですね。」
「入ってもよくってよ。」
「遠慮します。」
ラウルはしっかりと首を横に振って断った。
何が悲しくて男を眺め続けなければならないのか。どうせ見るなら可愛い女子がいいに決まっている。
「あのご尊顔を眺めているだけで元気が出るのです…ふふ、うひっ…」
「どの辺がいいんです?俺と全然系統が違うじゃないですか。」
「系統が違う、その通りですわ。皆違って皆良い……ウィルフレッド殿下やアベル殿下も、チェスター様もホワイト先生バージル君シャロン様カレンちゃんレベッカちゃんそれから」
「腹減りましたね。」
「確かに!お勉強も頑張った事ですし、少しくらい……いえ、いいえ、やはり我慢を…」
唇を尖らせてブツブツ言い始めたロズリーヌを横目に、ラウルは開いていた教科書を閉じた。
明るく振舞ってはいるが、ロズリーヌは護身術でだいぶ体力が削れているはずだ。弱音を吐きながらも真面目に授業を受けたのだ、少し褒美があっても良いだろう。
「食堂に寄りますか。喫茶メニューがあるでしょ」
「うぐッ、悪魔の囁き……!」
「行きましょう、殿下。」
「え、本当に行くんですの?待ってくださいな、片さないと…」
ラウルが立ち上がり、ロズリーヌも教科書やノートを閉じた。二人分の鞄をラウルが持ち、歩調はロズリーヌに合わせて歩き出す。
展望デッキから校舎の中へと戻っていく二人を、上階の窓から見ていた者がいた。
「………。」
少しも跳ねのない紺色の短髪、透き通るような水色の瞳はあまり笑顔のない彼の印象をさらに冷やしている。
黒縁眼鏡を指先で押し上げ、サディアス・ニクソンは視線を前へ戻して歩き出した。
周囲に人気はなく、立入禁止の立て札を避けて階段を上っていく。
静まり返った最上階の廊下に明かりはついていないが、まだ外が明るいので窓から差し込む光だけで充分だった。
すっかり薄くなった《生徒会室》の文字を見つけ、サディアスは扉をノックする。
「サディアス・ニクソンです。」
「どうぞ。」
中からは低く冷静な声色が返ってきた。
サディアスは相手を察し、一度瞬いてからドアノブに手をかける。アベルの声ではないという事は、彼はまだ来ていないらしい。
応接用のローテーブルを前に、一人の女子生徒が座っていたソファから立ち上がった。薄氷のような水色の長髪と瞳、高位の貴族令嬢らしい完璧な礼と微笑み。フェリシア・ラファティ侯爵令嬢だ。
そしてもう一人、ストレートの黒髪を短く切った男子生徒は入口からほど近い位置に立っている。踏み込めば彼の剣がこちらに届く間合いだ。凛々しく真面目そうな男前で、服の上からでも身体を鍛えている事がよくわかる。
姉と同じ黒い瞳をサディアスに向け、彼――シミオン・ホーキンズ伯爵令息は、片手を胸にあてて頭を下げた。サディアスは懐かしそうに眦を下げ、僅かに微笑みを返す。
「久し振りですね。フェリシア、シミオン。」
「はい。ご機嫌麗しゅう、サディアス様。」
「ご無沙汰しております。」
旧生徒会室であるこの部屋はもう使われていないが、綺麗に磨かれた燭台には火が灯り、調度品も使用に問題ないよう掃除されていた。
恐らくシミオンがやったのだろうと察し、サディアスは改めて彼に目をやった。二年生とはいえ年齢はサディアスの一つ下だが、あちらの方が背が高いようだ。百七十センチは越えていると思われる。
一瞬だけ物憂げな目をしたサディアスにシミオンが真顔のまま疑問符を浮かべた。フェリシアがこほん、と小さく咳払いする。
「詳細は揃ってからご報告しますが……ロズリーヌ王女は気にかけた方がいいかもしれませんわね。」
「貴女もそう思いますか。…去年とはまるで別人です。改善ではあるのでしょうが、行動に予想がつかない。」
「……俺はまだお会いしてないですけど、授業見学で気絶なさったと聞きました。剣が恐ろしかったとか体調不良とか言われてましたが、実際原因は何だったんです?サディアス様。」
「さぁ。従者以外誰も付き添いませんでしたから。」
「わたくし、ネルソン先生にそれとなく聞いてみました。ご本人は見学でハラハラしたから、とおっしゃっていたそうです。」
シミオンが訝しげに眉を顰めた。
剣術の初回授業といえばクラス分け試験に決まっているが、そこで血が流れたという話は聞かない。
「それほど緊迫する場面というと……誰か愚か者が、レイクス先生に手抜きでもしましたか。」
「王女殿下がいなくなった後ですが、手を抜こうとした者もいましたね。」
「まぁ……それはそれは。」
フェリシアが気の毒そうに細い眉を下げたところで、部屋の扉が再びノックされた。三人の視線が一斉にそちらへ向く。
「俺だ。入るぞ」
「はい」
サディアスが答えるとすぐに扉が開き、アベルが入ってきた。
少し癖のある黒の短髪に切れ長の目、完璧と称される父王譲りの整った顔立ちに金色の瞳。シャツは一番上のボタンだけ外してネクタイは僅かに緩く、腰の帯剣ベルトには兄と揃いの剣が納まっている。我らが第二王子殿下だ。
フェリシアは制服のスカートの裾を摘まんで片足を下げ、背筋を伸ばしたまま頭を垂れて深く腰を落とす。サディアスは片手を胸にあて、シミオンは跪いてそれぞれ頭を下げた。
「顔を上げろ。フェリシアとシミオンは久し振りだな」
「はい。ノーラが遅れているようで申し訳ありません。」
「ご無沙汰しております、殿下。」
「あぁ。あいつなら下で迷っていた、姿は見せておいたからじきに来るだろう」
アベルはフェリシアの向かいのソファに腰かけ、サディアスに軽く手振りをして隣に座っていいと示す。彼が一礼して席につくと、フェリシアもようやく座った。
一人離れた位置に立つシミオンがちらりと部屋の扉を見やる。
「次からは俺が迎えに行きます。」
「やめなさい。」
フェリシアは振り返りもせずにぴしゃりと言った。
そんな事をすればノーラ――というか、それを目撃した令嬢達の矛先――がどうなるかは、火を見るよりも明らかである。
シミオンは納得いかなさそうに眉を顰めたが、アベルが目を合わせて軽く首を横に振ったのでそれ以上は言わなかった。
廊下から小さな足音が聞こえ、だんだん部屋に近づいてくる。
トントン、と弱々しいノックの音がした。
「の、ノーラです。」
「よく来た。入れ」
シミオンが扉へ歩きながらアベルの許可をちらりと目で確かめ、すぐさま開く。
ノーラ・コールリッジ男爵令嬢がそこにいた。
薄茶色のウェーブがかった髪を編み込んでハーフアップにし、そばかすのある頬には軽く白粉をはたき、ちょこんとした鼻に丸眼鏡を乗せている。
階段を上がったせいか疲れた表情だったが、シミオンを見て朱色の瞳が丸くなった。
「シミオン君!久し振り!」
「あぁ。久し振りだ」
「また背ぇ伸びたわね~、あたしと二十センチくらい違いそう。あ、殿下、サディアス様フェリシア様、どうも……すみません遅れちゃって。」
「座れ。」
「失礼しま~す……。」
アベルにフェリシアの横を示されて恐縮しつつ、ノーラはそろそろとソファに座る。
シミオンはアベルが座っている脇に控えるようにして立った。警戒役をやりたがるのはいつもの事だ。彼以外の四人は座った状態で、改めてアベルが全員を見回した。
「報告がある者は?」




