261.駄目だろうか
王立学園の授業には、必修科目と選択科目がある。
全員が必修となるのは《国史》、平民は加えて《生活算術》を、魔力持ちは《魔法学》を取らなければならない。
選択科目はいくら取っても構わないし、年度の途中から取りたくなったら応相談で、取っていない授業の見学に行っても良い。邪魔をしなければ。
今は《魔法学》の授業中であり、生徒それぞれの威力、コントロール精度などを鑑みてクラスは上級・中級・初級に分かれている。
肩を越す長さの白髪を二つの三つ編みに結い、カレン・フルードは赤い瞳を教壇へ向けていた。隣の席にはこげ茶の短髪にバンダナを巻いた、自称騎士見習いのレオ・モーリスが座っている。座学が苦手な彼は落ち着かない様子で琥珀色の瞳を泳がせていた。
二人とも魔法はまだまだ初心者なので、ここは初級クラスである。
後ろの方の席でヘデラ王国のロズリーヌ王女殿下が二人をポカンと見つめているが、気付いていない。
――レオとカレンちゃんが知り合うのは、来週のはずですわよ…?カレンちゃんの隣の席はシャロン様がいるはずなのに、どうしていないんですの?まさか中級クラスに?
「殿下、口。」
「はっ!」
隣に座った従者からボソリと注意され、ロズリーヌはそっと両手で顎を押し上げた。
「皆さんも、《宣言》という言葉を一度は聞いた事があると思います。基本的にはこの単語こそ、魔法を使う時の一言目です。」
教壇に立つのは、入学式で生徒を案内していた気弱そうな若い女性――スワンだ。
胸の下まである金髪を左右で太い三つ編みにし、身体の前側へ流している。私服だろう長袖のカーディガンに踝まであるシフォンスカート、頭には白いカチューシャをつけ、目はアーモンド形で瞳は茶色。細い眉はちょっぴり困り気味に下がっていた。
教卓の上には空っぽのコップが一つ置かれている。
「魔力や知識が必要なのはもちろんですが、発動したい魔法……生み出したい物をきちんとイメージできるかどうか、そこがとても大切です。だからこそ、イメージをより強くするために声に出します。こんな風に――宣言。私の両手の中に、このコップに入るほどの水を出してください。」
スワンが教卓の上で何かを支えるように両手を開くと、空中にごぽりと水が現れた。生徒の幾人かは驚いた様子で息を漏らし、スワンはコップにその水を注ぎ入れる。
「使う本人がきちんとイメージできていれば良いので、宣言に使う言葉は自由で構いません。ただ皆さんはまだ使い慣れない方も多いでしょうから、まずは《最適》の属性の簡単なものから、教科書の通りに練習していきます。――実践はまだですから、今は宣言を唱えないでくださいね。」
初級とはいえ、レオのように幾度かは自分で発動した事のある生徒もいた。彼らはこの辺りは知っている内容とばかり、ぼんやりと話を聞いている。
黒板に宣言の基本構成が書かれ、スワンが解説していた。カレンは自分の認識と合っているかをゆっくりすり合わせながら、ふと隣を見る。レオの目がほとんど閉じかけだ。
「――ですから、最初に《宣言》と言う事は自分にきっかけを覚えさせる事でもあり、絡繰りで言うスイッチの役目を――」
スワンの瞳が教室を見回し、レオを見て止まる。
カレンは咄嗟に机の下でレオを蹴った。「ふぐっ」と小さく声を上げて目を覚ましたものの、話を続けるスワンは涙目で声が少し震えている。すぐ起こせばよかったと後悔しつつ、カレンは教科書に目を落とした。
「――ただ、なぜ《宣言》なのでしょう?」
湖面に石を投げるように、それまでと少し違う声色で疑問が投げられる。生徒達は自然とスワンの方に目を向けた。
「魔法を使うきっかけの言葉なら、魔力よ!と呼びかけたって、開始!と言ったって、属性を言う事自体をスイッチにしても、良かったと思いませんか。」
カレンは瞬き、ついレオと顔を見合わせる。他の生徒も同様だった。確かにそうだとは思うけれど、なぜかは知らないし、わからない。
「これは初代国王陛下――エルヴィス・レヴァイン様の時代には、既に決まっていたと言われています。どうしてなのかは先生にもわかりません。……教科書を見て、私の宣言を聞いて、随分長いなと思った子もいるでしょう。あのお手本をどう縮められるかは貴方がた次第であり、それは自分の放つ言葉にどんな意味があるのかを、きちんと考える事でもあります。」
ちょっぴり気弱に眉尻を下げたまま、スワンは微笑んだ。
「次回からは少しずつ実践に移ります。回答を求める事はありませんが、宣言という言葉がなぜ選ばれたのか…ちょっとだけ、考えてみてくださいね。」
その後の《生活算術》も終えるとようやく昼食の時間になり、カレン達は食堂へ向かった。
食堂は三階層に分かれていて、一階は平民向け、三階は貴族向けの食事しか出さず、二階はどちらも用意がある。貴族に見られながら食べたくない、平民と同じ場所で食べたくない、といった声と食堂の混雑回避を兼ねての構成だ。
無料で食べられる品ばかりだが中には追加料金が発生する物もあり、その場で払うか後日家へ請求を回すかである。
各階とも長テーブル席の他にテラス席の円卓、予約も可能な個室は階が上になるにつれ、数が多く設えてあった。
「うわぁ…すごい人。そっか、上級生も使うんだもんね。」
「だな。シャロン達は二階の個室を取ったって話だったけど……個室ってあの奥の方か?先に飯選んだ方が良いかもな。」
「うん」
新入生自体は珍しくもないだろうに、カレンの白髪と赤い瞳にあちこちから視線が突き刺さっている。顔を顰める者、ひそひそと囁き合う者、小声で笑う者、苦い顔で目を逸らす者、様々だ。
カレンは気にならないフリをして背筋を伸ばし、レオと共に歩いていく。
「取りすぎじゃない?」
「めっちゃ腹減ったんだって…」
皿に山盛りのトレイを両手に持ち、二人は個室が並ぶ食堂の奥へ向かった。
カレンはもちろんトレイ一つだけで、野菜やチーズを挟んだサンドイッチにあっさりめの魚介スープ、飲み物は水とシンプルだ。レオには考えられないメニューである。肉が無い。
「それ、足りんのか?俺の肉ちょっとやろうか?」
「え?大丈夫だよ、ありがとう。」
「そっか……お、ダンがいる。って事は絶対あそこだな!」
「う、うわぁ……そうだね。」
レオが言った通り、個室だろう扉の一つの脇にダンが立っていた。
きちりとネクタイを締めて制服を着ており、アーチャー家で仕込まれたのだろう見事な直立姿勢だ。短い灰色の髪に黒い瞳の三白眼、百八十センチ近い身長、腰のベルトには剣の代わりにガントレットを納めたケースを左右に下げている。
中に誰がいるか、周囲の生徒達は皆知っているのだろう。ダンが守る個室を中心とした野次馬の半円が形成されていた。ダンの心中は「うぜぇ」であろうとレオ達は確信する。
明らかに無理だろうに諦めきれないのか、愛想笑いを浮かべた令嬢が数名近付いていったが、ダンに同じく愛想笑いで帰されていた。
「ねぇレオ……私達、今からあの部屋に入るの?」
「おう。はぁ~、たぶんアベル様もいるんだよな……緊張してきた。」
「え?レオはシャロンとも会うし、慣れてたりしないの?」
「あの人は別だって!剣振ってる奴なら全員憧れてんだから。」
「そうかなぁ……。」
カレンが呟いたところで、ダンがこちらに気付いた。
見張りの如く立っていた彼が二人に会釈する事で、周りの目が一斉に向く。衣擦れの音がザッ!と音を立てるほど一糸乱れぬ動きだった。
思わずびくりとし、カレンはシャロンの言葉を思い出す。
『もしかすると、私達といる事で貴女に嫌な感情を抱く人もいるかもしれない』
レオとカレンを見た生徒達は、相手が平民らしいと感じたのだろう、トレイの内容からも確信したのだろう、殆ど全員が「どうしてあいつらが」という驚きと怒りの形相に変わっていった。
怒りや妬みの視線の中、カレンはレオと共にダンの前までたどり着く。
――こ、怖すぎるよ…!よかったレオがいて、一人じゃ絶対無理!よかった、本当によかった!!
「ダン、悪ぃ。待たせたか?」
「こちらのクラスが早めに終わっただけですので、お気になさらず。」
笑顔で答えたダンに、レオはぞわりと鳥肌が立って顔が引きつった。
ダンは涼しい顔で扉をノックし、二人の到着を告げて主の許可が出てから開く。カレン、レオ、ダンの順で中へ入った。
「いらっしゃい、二人とも!」
きちんと扉が閉じてから、シャロンが顔を綻ばせて二人を席へと促す。
中は小さなサロンのようになっていて、四人席のテーブルが二つ余裕で入る広さがあった。シャロンとダンの席があるテーブルにトレイを置き、カレン達はもう一つのテーブルからこちらへ来た二人に向き合う。
「久し振りだね、レオ。カレン。」
「お、お久し振りです……」
カレンは緊張しながら震え声で返した。
入学式では新入生代表として登壇していた、金髪碧眼の第一王子だ。隣には紺色の髪と水色の瞳をした、黒縁眼鏡の男子生徒が立っている。
「改めて――俺はウィルフレッド。ウィルフレッド・バーナビー・レヴァインだ。こちらは従者のサディアス。」
「……サディアス・ニクソンと申します。」
「はい!よろしくお願いします!」
レオが勢いよく直角九十度に頭を下げ、カレンはびくっとしつつもそれに倣おうとした。ウィルフレッドが慌てて手振りで止める。
「待ってくれ。俺はできれば人目のない時だけでも、以前みたいに普通に話してほしいんだが。」
「えと、でも王子様だし、ですし……」
どうしようかと視線を彷徨わせたカレンはアベルと目が合い、彼からもそう聞いていたと思い出した。従者だというサディアスはしかめっ面だが、反対するでもなく沈黙を守っている。
「その王子サマ本人が言ってんだからいいだろ、なぁ?ウィルフレッド様。」
「あぁ。是非とも。」
「ダンお前、よくそんな…」
「何だよレオ。うちのお嬢に気安く口利いといて、王子は無理か?あ?」
「ん゛~……」
すっかり頭を抱えたレオをからかうように肩を組み、ダンがにやにやと煽っている。
カレンは、なかなか頷かない二人にしゅんとした様子のウィルフレッドを見てしまった。目が合うと、第一王子殿下は切なげに眉尻を下げてこちらをじっと見つめてくる。
「駄目だろうか……?」
「うぅっ……!」
絵に描いたような美男子の懇願は眩し過ぎた。
咄嗟に胸を押さえたカレンの反対の手を、シャロンが握る。彼女は何も言わなかったが、どうか叶えてあげて、と幻聴が聞こえた。薄紫色の瞳は潤んでおり、カレンの心臓がぎゅんと音を立てる。
「うぅぅうう…わ、わかったよ……」
「本当か?ありがとう!」
「よかったわ、ありがとう!カレン」
途端にニコニコと心から嬉しそうな笑顔を咲かせる二人を、アベルとチェスターは席に座ったまま眺めていた。否、見ているのはチェスターだけで、アベルは物音一つ立てずに食事を進めている。
「あの二人に迫られて落ちない人って、あんまいなさそうですよね。アベル様、どうです?」
「……駄目なものは駄目だ。」
「あらら。」
その後レオの「様付けだけは許してください!違ぇ、許してくれ!」という願いが聞き届けられ、ようやく全員着席する事ができた。
お行儀が悪かったらごめんねと断って、カレンはサンドイッチを食べ始める。
「気にしないで、ここには叱る人なんていないもの。」
「ありがと……ねぇ、シャロン。気になってたんだけど、剣を持ち歩く事にしたの?」
カレンもシャロンも制服はスカートを選んでいたが、シャロンの腰には帯剣ベルトがあり、まだ新しく見える美しい剣が納まっていた。彼女の物だと示すように、柄の部分に薄紫色のアメジストが嵌め込まれている。
「えぇ、入学式では控えたけれど。」
「帯剣してたら、授業じゃなくても試合を挑まれちゃうって話じゃなかった?」
「私の場合それはあまりないと思うわ。剣はね、もしもの時すぐに貴女を守れるようにと思って。」
「わ、私!?」
カレンは驚いてシャロンに聞き返したが、彼女は当然のように軽く頷いた。
筆頭公爵家の令嬢が帯剣して学園に来ている。
剣など振れそうにない外見で、しかし帯剣する以上は剣術も修めるつもりなのだろうと、貴族の生徒間では今朝からかなり話題に上がっていた。王都から来た一部の生徒は特に、彼女が王国騎士団副団長、ベインズ卿の教えを受けたという話も知っている。
「私は体術の授業も取るつもりだけれど、カレンは?」
「……護身術を、その。一応取っておこうかなって。」
「まぁ!とても良い事だと思うわ。」
「前にシャロンが言ってたでしょ?私は自衛の術がないから、レオと違って招けないって。」
えへへ、と苦笑するカレンの言葉に、シャロンは僅かに目を見開く。
『カレンに遊びに来てもらう事は、僕の長年の夢なのですが…貴女の身の安全を考えると、止めておいた方がいいんです。』
「卒業したら絶対にお招きするわね……!」
「う、うん!」
自衛できるようになろうと、前向きに考えてくれているのだ。感激に打ち震えながら、シャロンはハンカチをそっと目元にあてた。




