259.フェフェリ
フェリシア・ラファティは侯爵令嬢である。
腰まで伸びた長い髪と瞳は薄氷のような水色で、今年十四歳になる年頃ながら、身体は既に女性らしい輪郭が整っている。美しくあろうとする努力は彼女を裏切らず、白くきめ細やかな肌にほっそりとした手足、潤った唇は僅かに微笑むだけで数多の男子生徒を陥落させた。
「久し振りね、ノーラ。」
「ですね~!お元気そうでよかったです、ほんと!」
満面の笑みで答えたのはノーラ・コールリッジ男爵令嬢だ。
ウェーブがかった薄茶色の髪を編み込んでハーフアップにし、そばかすのある頬には軽く白粉をはたいてある。丸眼鏡の中にある瞳は朱色で、仕草にはあまり令嬢らしさが感じられない。
ここは王立学園女子寮、西棟。
お金がかかる代わりに部屋が広く、貴族令嬢向けに様々なオプションのある棟だ。一般生徒が入る東棟と同じく自由に使える調理室やランドリーもあるものの、自分で使う令嬢はあまりいない。
ゆえに、二人は西棟の中でも隅っこにある第三調理室で密かに会っていた。
「男爵は元気にしているの?先日、父の領地から珍味を買い取ったと聞いたけど。」
「あの奇妙な干物、フェリシア様のとこからだったんですか……元気ですよ。娘としては、ちょっとお腹を絞ってほしいです。」
「相変わらずなのね。……貴女、入学して楽しみな事はある?」
「え?そうですね…リラ自体初めてなんで、まずは街巡りですかね。今年から店引き継いだ人がちゃんとやってるかも気になるし…」
ノーラの父親、コールリッジ男爵が運営するユーリヤ商会。
その店舗の一つが学園都市リラにもあるのだが、切り盛りしていた女店主が産休を取る事になり、少し前から人を入れ替えたのだ。
王都で拾った流れの行商人フェルと、これまた王都で第二王子殿下が拾い、ノーサム子爵家に放り込まれた幼い兄弟。父親は「大丈夫だ」と笑っていたが、ノーラはちょっと不安だった。能天気なのだ、全員。
「学園には?会いたい殿方とかいないのかしら。」
「殿方?強いて言うなら、剣術と格闘術の先生を結構楽しみにしてたんですけど…」
「レイクス先生ね。」
「えぇ。ゲート通った後でもう会えたんですけど、思ったほど…いえ、引き締まった筋肉にも良さはあります。ただあたし、もりもりっとこう、見るからにっていう太ましさがいいんですよねぇ……。」
悩ましいとばかりにもにゃもにゃと眉を顰めている。
そう、ノーラが求めているのは多くの女性にモテモテのイケメン細マッチョ――ではない。ゴリマッチョである。
街を歩く際にはこちらに勤めている騎士達のチェックも怠らないつもりだ。
「…じきに会うでしょうけれど、シミオンも元気にしているわよ。」
「へっ?あぁ~シミオン君!そっか、会えるんですよね。」
どうやら、ホーキンズ伯爵令息の事は忘れていたらしい。
共に幼い頃事件に遭った彼の顔を思い浮かべ、フェリシアは心の中でため息を吐いた。
――…可哀想な男。
会いたい殿方を聞いて挙がる名前が、一応は友人であろうシミオンではなく、よりによってレイクスとは。伝えないでおいてやる事が優しさかもしれない。次回の剣術上級クラスが荒れる。
「クローディア様も街にいらっしゃいますもんね。挨拶行かなきゃな~」
あっという間に、シミオンではなくその姉の話に移ってしまった。
クローディア・ホーキンズ伯爵令嬢は、今リラの街で占いの店を開いている。
自身のスキル《先読み》を活かしたもので、既に目ざとい女子生徒の間で口コミが広がりつつあった。魔力を使い切れば終わり、かつ店主が猫のように気まぐれなものだから、開店時間がまちまち。そんな店で見てもらえるレア感もまた、女心をくすぐるらしい。
何かあった場合の連絡方法を簡単に教え、フェリシアはノーラを先に退室させた。
ラファティ侯爵家は古くから血筋を守ってきた貴族。反対にコールリッジ男爵家は当代が爵位を金で買った。この友人関係はあまり大っぴらにできないのだ。
少し時間を置き、フェリシアは西棟の談話室を覗く。
新入生と在学生が入り乱れ、挨拶を交わしているようだ。フェリシアも幾度か会話を挟みながら、目当ての人物がいない事を確認して階段を降りる。
東棟と共有である一階の談話室へ行こうとすると、生徒達がひそひそ囁き合いながら一人の背中をチラチラ見やっていた。
入学式で王子の一列後ろ、本来は五公爵家しか許されない席次に座っていた生徒だ。それも、筆頭公爵家の令嬢であるシャロン・アーチャーよりも上座に。
緩く巻いたプラチナブロンドのポニーテールに大きな白いリボン、美食家という噂を体現したようなむっちり加減。
ヘデラ王国第一王女、ロズリーヌ殿下が大きな柱の陰に隠れ、談話室をこっそり覗き込んでいる。
他の令嬢達が遠巻きで困惑の視線を送っていた。
――…何をなさっているのかしら、あの王女殿下は。
周囲の令嬢から「フェリシア様がいらしたわ!なんとかしてくださるわ、きっと!」という気持ちのこもった視線が刺さる。
少々気の強いフェリシアは、矢面に立ちたくない令嬢達が勝手に背中へ隠れようとする事も多かった。
もちろん由緒ある侯爵家の者として、謂れのない糾弾を受ける下位の令嬢など見かけた際には、割って入る事もやぶさかではないのだが。
ひとまずロズリーヌに気付かれぬよう少し距離をとって通り過ぎてみると、どうやら視線の先にいるのはシャロン・アーチャー公爵令嬢のようだ。
今しがた寮へ着いたところなのか、玄関ホールへ続く扉の傍で白髪の女子生徒と話している。ロズリーヌはそれを見ている。…見ている。
「ふひゅー…すひゅーっ、ふひゅー……」
フェリシアは瞬いた。
王女殿下は走ってきた後なのだろうか。なぜ興奮したように呼吸音を漏らしているのか。
これ以上考えても無駄と思い、相手を驚かさないよう歩いて視界に入りながら目線を誘導した。ロズリーヌがフェリシアに気付き、自分に用のある誰かだと慌ててこちらに向き直る。
「フェッ!?フェフェリ…ッ!?」
途端に目玉が飛び出るのかと思うほどカッと目を見開き、ロズリーヌは裏返った声を漏らした。ぱむ、とふっくらした手で口元を押さえ、薄青い瞳でじろじろとフェリシアを眺める。
ほんの一瞬呆気にとられたフェリシアだが、ここでポカン顔を晒すほど愚かではない。令嬢らしい優美な微笑みを浮かべたまま、静かに淑女の礼をした。
――名前を呼ばれたかと驚いてしまったわ。殿下が私をご存知のはずがない。
「初めてお目にかかりますわ。ラファティ侯爵が長女、フェリシアと申します。殿下、どなたかに御用がおありでしょうか?お困り事があれば伺いましょう。」
「は、ぁいえ……」
――フェリシア・ラファティですわーっ!アベル殿下のルートでカレンちゃんが誤解する相手!人気のない時間帯に中庭の木陰で超☆接☆近しておきながら、アベル殿下だけは絶対にあり得んと言っていた、あの!!理由は何なのですかと問いたい!過去に何かあったんですの!?ねぇ!!
喉元まで出かかった叫びをなんとか飲み下し、ロズリーヌは口角を上げて微笑んだ。王女として軽く礼を返し、明るい声を出す。
「ほほ…お気遣いありがとう。何でもなくってよ。」
「そうでしたか、失礼致しました。」
柱の陰からツツ…と移動を始めたロズリーヌに、フェリシアは柔らかい仕草で頭を下げる。ではこれでさようなら、の意である事はロズリーヌにも十分に伝わった。
これ以上理由もなく居続ける事はできなくなったのだ。
まさかシャロンとカレンを遠目から眺めるためだけに居ましたとも言えず、ロズリーヌは結構な人数が後ろから自分を見ていたらしい事に今更気付きながら、そそくさと階段を上がっていった。
――さて。
フェリシアは視線を戻す。
ロズリーヌが声を上げた時点で、シャロンもこちらを見たはずだ。一学年上の、それも平民との交流を好まない友人が来ている事に気付いただろう。
白髪の女子生徒は東棟へ行くようだ。小さく手を振って彼女を見送り、シャロンはくるりと振り返った。フェリシアが目を合わせて微笑むと、会釈を返して歩いてくる。
「こんにちは、フェリシア様。もう一年振りになりますね。」
「えぇ、お久し振りですわ。シャロン様」
花咲くような笑顔を懐かしく思いながら、フェリシアは西棟へ上がる階段を手で軽く示した。シャロンも共同談話室にはもう用がないらしく、頷いて一緒に歩き出す。
「お会いできるのを楽しみにしていました。よろしかったら、わたくしの部屋にお茶の用意があるのですが。いかがかしら?夕食にはまだ時間がありますし。ふふ」
「まぁ……よろしいのですか?嬉しい。フェリシア様が選ばれた物なら確かですもの。」
二人は淑女の手本のように麗しく、穏やかに話しながら階段を上がっていく。それを通りすがりの令嬢達がぼうっと見つめていた。
フェリシアの案内で彼女の部屋に着き、扉を閉める。
内鍵をかけると、二人同時に肩の力を抜いた。
窓の外に見える空はややオレンジがかってきたものの、まだ明るい。室内灯が必須というわけではなかったけれど、フェリシアは魔法で壁かけ燭台に火を灯した。
「王女殿下が貴女達を見ていたわよ。何かあったの?」
どうぞ座って、と手で椅子を示しながら言う。長い付き合いの友人だ、二人きりで敬語を繕う必要はない。シャロンは軽く頷いて素直に腰かけた。
「わからないわ。事前に殿下達と一緒にご挨拶をしたけれど、なんというか…少し、独特なお方みたいなの。」
「悪意があるかは知らないけど、気を付けた方がいいわよ。向こうがどういうつもりでいても、他国の王女に目を付けられるなんて。」
「そうね……」
言い知れぬ不安に包まれながら、シャロンは困り顔で相槌を打った。
学園長室で深々と頭を下げて謝ったロズリーヌ、ゲームと違って入学式でも大人しくしていたロズリーヌ、物陰からカレンをじっと見つめていたロズリーヌ。
彼女は一体、何を考えているのだろうか。
よく磨かれたティーテーブルには、白いレースをあしらったクロスが敷かれている。街で人気の菓子店から買い付けたクッキーを皿に並べて出しながら、フェリシアはシャロンの向かいになるよう天蓋付きのベッドに腰かけた。
「シャロン様は、婚約のお話はまだ特に?」
「えぇ。個人的には、少なくとも今年は考えるつもりもなくて……。」
「殿下達は?去年から交流があるでしょう」
「お友達として仲良くさせて頂いているわ。…フェリシア様だから言うけれど…きっとお二人共、私を選ばないと思うの。」
「まぁ……」
意外な返答に戸惑ったフリをして、フェリシアは内心こめかみに手をあてた。
狩猟や女神祭など、ちらりちらりと聞こえる話に良しと頷いていたけれど、実際はこんなものらしい。
――シミオンといい、黒髪の男はそういう呪いでも持っているのかしら。いえ、殿下の場合は本当にその気がない可能性もあるけれど。
フェリシアはかつて、第二王子アベルから命令を受けた。
シャロン・アーチャー公爵令嬢の友となり、その人柄を見つつ、茶会などで令息に絡まれる事があれば助けるようにと。
きっかけがその命令だった事を除けば、フェリシアはまったくの本心でシャロンとの付き合いを続けてきた。彼女の友人であるためには、何の我慢も演技もいらなかったからだ。
アベルは時折フェリシアに「問題ないか」と聞いてくるくらいで、自分ではシャロンに会っていないらしかった。去年までは。
「…そうなのね。ただもし王女殿下が王子妃の座を狙っているのなら、間違いなく貴女が邪魔だわ。あの様子では大した事はできないと感じたけれど……」
王子妃を狙うのはロズリーヌだけではない。
貴族令嬢はできるだけ高位の家に嫁ぎたいのだ。本気で恋していても、そうでなくとも。王子とその従者――公爵令息を含めた四人を射止めるには、明らかにシャロン・アーチャーが邪魔だった。婚約するのは誰か一人だとしても、他の三人が彼女に惚れ込まないとも言い切れない。
しかし相手は公爵令嬢、下手を打てば自分達が危険だ。
誰かの威光を笠に着るなら、あの少々抜けていそうな、けれど権力のあるロズリーヌ王女がぴったりだろう。複数の令嬢が結託して動くと何事も厄介になってくる。
「本当に、気をつけるのよ。何かあったら第二王子殿下に相談しても良いと思うわ。騎士団とも関わり深いと聞くし…恐ろしい噂ばかりだけれど、貴女がお友達というくらいだから良い方なのでしょう?」
「――えぇ、そうね。困った事があれば相談してみようかしら。」
「それからクローディア様の弟。シミオン様とはわたくし、授業でよく会うのよ。彼も力になってくれるでしょうから、覚えていて。」
「ありがとう、フェリシア様。ふふっ、優しい人ばかりで、私は恵まれているわね。」
いつの間にか眉根を寄せて話していたフェリシアは、ふわりとしたシャロンの笑顔に瞬いた。
気をつけろと言っているのに、貴女と友達で嬉しいとばかり嬉しそうに微笑んでいる。心の中で盛大にため息を吐いた。
――これだから、この子は。
フェリシアはぎゅっと唇を引き結ぶ。
そしてよく似合っている髪飾りを落とさないよう、気を付けて彼女の頭を撫でた。




