252.「たった一年」の始まり ◆
――すごい人だったなぁ……。
躓いた所を王子様に助けてもらったとか、貴族の女の子達を敵に回していそうだとか、そういう事も頭から吹き飛んでしまいそうな濃さだった。
寮へ案内してくれるという先生に続く列の最後尾で、私は配布された学園の地図を見ながら歩く。
校舎から西側に出たら、今通っている石畳の道から行けるのは……真っすぐが教会で、右が女子寮、左は男子寮だから私は行かなくて…
『あっ。』
風が吹いた途端に地図が飛ばされてしまい、私は慌てて石畳から芝生へ足を踏み入れる。迷子になるし貴族の女の子に睨まれるし、すごい人はいるし、今日は厄日なのかもしれない。
追いつきそうで追いつけなくて、結構走ってしまった。
戻る頃にはまた誰もいないかもと焦りながら、教会の角に引っかかった地図をようやく捕まえた。
ドカッ!
『っ!?』
曲がった先の壁に何かがぶつかったみたいで、思わず肩が跳ねる。
おそるおそる角の向こう側を覗くと――
『終わりかな、先輩方?』
抜き身の剣を手に、笑う人がいた。
周りには上級生らしき男子生徒が十数人も倒れている。たった一人立っているのは、少し癖のある黒の短髪に、金色の瞳をした男の子。
整った顔で意地悪く笑って、地面に這いつくばる人達を見下ろしてる。……教会の敷地だよね、ここ。一体何をしてるんだろう。
『ぐ…くそっ!』
彼の背後で、うつ伏せに倒れていた一人が片手で剣を振りかぶった。投げるつもりだ!
『あ、危な――』
私は悲鳴のように声を上げたけど、黒髪の彼は飛んできた剣をあっさり叩き落してしまった。小さい子に棒きれでも投げられたのを払うような、雑な動作だった。
そして唖然として動けずにいるその生徒の肩に、靴裏をとんと乗せる。剣をしまわないまま。
『吠えるなら、相手をよく見る事だね。』
『……っ!』
上級生らしき生徒は口をぱくぱくさせている。
ついその光景から目を離せなかった私を――それはもう唐突に、黒髪の彼が振り返った。
『で、君は何。』
『ぅわあ!』
つい叫んでしまった口を手で押さえて、私は数歩後ずさる。立ち去った方がいいのか話を聞いた方がいいのかわからない。
彼は剣を鞘に納めながらこちらへ歩いてきた。倒れてる人たちと違って息切れもしてない。私の前に立って、じろりと見下ろした。め、目が怖い…。
『逃げないんだ。意外だな』
『あ、あなたは…?』
『アベル・クラーク・レヴァイン。君も新入生?』
こくこくと頷く。
睨まれているわけじゃないのかもしれないけど、目力がすごくて気圧されてしまう。
『私はカレン・フルード……あれ?レヴァイン?』
そんな家名をついさっき聞いた気がして、首を傾げた。王子様がそう名乗ってなかったかな。
彼は可笑しそうに口角を上げる。
『ふっ、くく……一応、第二王子だ。』
『だ――第二王子!?』
きゅっと首を絞められた気分で、私は反射的に自分の両頬に手をあてた。持ったままだった地図がぱしんと頭にあたる。いつの間にかローブのフードが脱げていた事に気付いて、急いで深くかぶり直した。
『結構悪名が通ってると思ってたけど、自意識過剰だったみたいだね。』
『うっ、いぃいえ…私がその、知らなくて……えっと、これは何があったの…ですか?』
『見ての通りだよ。』
あちこち痛そうにしながら、上級生達は落とした剣を回収して逃げるように去っていく。足蹴にされた人なんかは怒りで顔を真っ赤にして、逃げながらもアベル様を涙目で睨んでいたけど…後でやり返しに来たりしない?大丈夫なのかな。
鞘に納めた剣の柄に片手を乗せて、アベル様は頷くように瞬きした。
『学園内において、帯剣している者同士の野良試合は認められてるんだ。』
そういえば、入学案内に書いてあったかも。
物騒に思えるけど、仲の良い友達同士なら練習でやるのかな…くらいに思ってた。つまりアベル様は、あの人達と試合をしたんだね。
『まぁ、僕にはあまり関わらない方がいいんじゃないかな。色んな意味でね。』
『わ、わかりました。』
さっきは女の子達から怖い目で見られてしまったし。ウィルフレッド様は学友と言ってくれたけど、平民の私が近付いていい人じゃないんだろうな。
『早く戻りなよ。』
『はい、失礼します。』
頭を下げて、私はその場を離れた。
…当然、寮へ案内してくれるはずの先生も、ついていく生徒たちもいなくなっている。
石畳の通路に戻った私は、地図に目を落とした。
大きな荷物はあらかじめ寮に運ばれてて、今日は初日だから授業もない。私は晩ご飯までに女子寮にたどり着けばいいし、校舎は複雑そうだったけど寮への道は割と単純だ。迷う心配はないと足を踏み出した。
校舎の外周をぐるりと囲む石畳の道から、煉瓦で舗装された道に入る。
きちんと手入れされている生垣や丸い草むらを眺めながら歩いていたら、道の真ん中に一人、女の子が立っていた。
背中まで伸びた髪はきれいな薄紫色で、派手過ぎない白い花の髪飾りがよく似合っている。きっと貴族の方なんだろう、佇んでいるだけで気品が感じられた。制服が新しいように見えるから、私と同じ新入生かな。
風が彼女の髪を揺らしている。日焼けのない白い指で髪を耳にかけて、ふと、私に気付いた。
『あ!えっと…!』
じろじろ見ちゃった、あの子からしたら完全に怪しい人だ。
私は慌てて言い訳を探したけど、彼女はふんわりと微笑んでこちらへ歩いてくる。優しそうな瞳は髪と同じ薄紫色で、お肌は白いのに不健康さはなくて、つやつやした唇は小さくて桃色で…
ぜ、絶対に貴族のお嬢様だ……!
入学式の前に会った貴族の女の子達を思い出したけれど、あの中に見かけた覚えはない。目の前で立ち止まった彼女は、私を近くで見ても嫌な顔はしなかった。
『こんにちは、カレンさん。』
『えっ!?』
どうして知っているのかわからなくて、素っ頓狂な声が出る。
私が目を丸くして見つめると、彼女は悪戯が成功した子供みたいに笑った。
『私はシャロン。よろしくね。』
ちょっぴりおどけた様子で、シャロンさん?は自分のスカートを摘まむフリをして、にこりと首を傾ける。思ったより気さくなお嬢様みたいでほっとした。「よろしくお願いします」と言いながら頭を下げたけど、あれ?私もスカートを摘まむフリをした方がよかったのかな。
焦りながら顔を上げた私に、彼女はさして気にした風もなく話を続けた。
『入学式の前、第一王子殿下のいらっしゃるグループに会ったでしょう?私もあそこにいたの。』
『ご、ごめんなさい。気付かなくて…』
『いいの、当たり前だわ。私は待つように言われて先頭に留まったから、貴女からは見えづらかったでしょうし。…ふふ、校舎は道が多くて迷ってしまうわよね。』
シャロンさんはそう言って、ちょっぴり困ったように笑う。
私が握りしめたままの地図を見て、何か気付いた顔で道の先へと歩き出した。
『女子寮はこっちよ。』
『ありがとうございます。地図が風に飛ばされて、はぐれちゃって…』
『そうだったのね。――道理で…』
『わ!』
ついていこうとしたらまた強い風が吹いて、私は咄嗟に目を瞑る。
シャロンさんが何か呟いた気がしたけど、風の音で聞き取れなかった。とりあえず、また飛んでいかないよう地図を畳んで制服のポケットに押し込む。
顔を上げると、シャロンさんも立ち止まって私を待ってくれていた。慌てて歩き出す。
『すみません、待たせちゃって…』
『大丈夫よ。……敬語も、無理しなくていいの。私達は同級生でしょう?』
『えっ、いいの?』
反射的にそう聞いちゃったけど、駄目に決まってる。社交辞令だ。はっとして両手を横に振った。
『じゃなくてその、私は平民だから。シャロンさんは貴族の方…ですよね?』
見た目からしてそうだけど、王子様と一緒のグループにいたって事は確定でお嬢様だ。
シャロンさんは何て事ないように「そうね」と頷いた。
『同級生とはいえ、貴族同士は家の関わりで色々あるけれど……もし貴女さえよかったら、普通のお友達のように気軽に話してほしいの。そうやって話すお友達が少ないのよ。』
『普通の、お友達……』
どうしよう。友達はいませんって言える空気じゃない。
私がすっかり困った顔をしているからか、シャロンさんはシュンと眉を下げた。
『迷惑、だったら…いいのだけれど……。』
目が悲しそうに潤んでいて、心臓がぎゅんとした。そ、そんな顔をされたらとても断れないし、私だってお友達は欲しい。ぶんぶんと首を横に振った。
『め、迷惑なんて事ないよ!私でよければお友達になってください…!』
『まぁ!ありがとう、嬉しいわ。カレンと呼んでもいいかしら?私の事はシャロンと。』
『う、うん。』
すべすべの手に自分の手をぎゅっと握られながら、本当に私でいいのかなと思ったけど…平民から貴族になった家なんかは、割とそのあたりが緩い事もあるって聞いた。
もしかしたらシャロンさ……シャロンは、そんなに爵位が高くない家の生まれなのかもしれない。きっとそうだ。
『寮の中では別れてしまうけれど、一階に共同の談話室があるの。見かけたら声をかけてもいい?』
『もちろん!でもその……私といると、目立つかもしれないけど……』
『どうして――あぁ…』
不思議そうに私を見たシャロンの視線が、髪へ移る。口元が苦く引きつっちゃいそうだ。
『とても綺麗な髪だものね。』
『――…、え?』
『確かに皆見てしまうかも。瞳も珍しいワインレッドで、とっても素敵。』
こんな色の私にそんな事を言うシャロンを見て――私は、以前会った男の子を思い出した。彼もこんな風に微笑んで、私の髪を褒めてくれたから。
――君の髪はとても美しい。俯く必要はないと俺は思うよ。
たった一度会っただけの、名前も知らない男の子。
彼がいなければ、私は今日ここにいる事もなかっただろう。シャロンにも、会えなかった。
『……えっと、ありがとう…?』
どうしていいかわからなくて、しどろもどろになりながら呟く。
顔が真っ赤になっているかもしれない。何か別の話題をと、私は口を開いた。
『しゃ、シャロンはその…おうちは…?私は、フルードって、いうんだけど。』
家の名前を聞くだけなのに、めちゃくちゃな聞き方になっちゃった。うぅ…十歳いかない子供だってもう少しまともに聞けるんじゃないかな。
シャロンは微笑ましそうにニコニコしてる。…いたたまれない。
『アーチャー家よ。』
『へぇ、そうなんだ…!』
一生懸命私もニコニコした。顔が赤くたって全然恥ずかしくない!って自分に言い聞かせながら。
聞いておいて何だけど、家名だけを聞いても私にはさっぱりわからない。
爵位があるのは知ってるけど…公爵が一番上で、侯爵、伯爵、子爵、男爵……だったかな?そのあたりを間違えると怖いから、貴族の子と話すなら気をつけなさいってお父さんが言っていた。
『もし貴族の生徒との間で困りごとがあったら、言ってね。』
『困りごと?』
首を傾げたけど、すぐに王子様に助けてもらった時の、女の子達の怖い顔を思い出す。もしかしたら本当に困った事になるのかもしれない。わざと転んだわけじゃないのに……。
『えぇ。困るどころか、怖いと感じる事があったら……その時は迷わず私の名を出して。』
『そんな事したらシャロンに迷惑がかからない?』
『大丈夫よ。少なくともこの国の――賢明な貴族の子なら。そこで引くはずだわ。』
シャロンはふんわりと微笑んでいる。
家名を出す事で、「お互いの親に話が行く前にやめましょう」って意味になるのかな?そうだとしても、私の家じゃないんだし、気が引けるなぁ……。
う~んと唸っていたら、シャロンは「あくまで、もしもの話よ」と笑ったけど。
名前を出していいなんて……私が悪い子だったらどうするんだろう。シャロンはもしかしたら箱入り娘で、あんまり人の悪い気持ちを知らないのかもしれない。心配になってきた。
『シャロン、もしもの話でも気を付けた方がいいよ。私が悪用したらどうするの?』
『貴女が?しないと思うけれど。』
うぅ!なんて純粋な目をしてるんだろう。初対面なのに!心配だよ余計に!
『どうしてそんなに信じてくれるの…』
『ふふっ、貴女なら大丈夫って思えるからよ。』
『でもだって、ほら。私が名前を出して、もし相手が、えぇと……一番上の、公爵家の人だったらどうするの?』
『大丈夫よ。私が公爵家だし、』
え?
『オークス公爵家のチェスター様とも、ニクソン公爵家のサディアス様ともお友達なの。』
え?え??
『お二人とも話の分かる方だから、何も問題ないわ。』
『――…そ、そんな……』
今日聞いた名前ばかりだ。
驚き過ぎて言葉の出ない私の手を引いて、シャロンは「ここが女子寮よ」と笑っている。
入学初日から、とんでもない人達と知り合ってしまったみたい……。
何だか、今までの自分とは全く違う人生に迷い込んだ感覚で。
卒業までの四年間、私はここでシャロン達と過ごしていくんだけど……後から思えば、全ては一年生の時だった。
人生全部を振り返ったらたった一年と言える時間が、日々が。
私達だけじゃなく、この国の《未来》を大きく…そして決定的に変えてしまうだなんて――……この時の私には、わかるはずもなかったんだ。
これにて幕間終了となります。
第二部開始までしばしお待ちください!




