248.俺とは違う君
夜。
ようやくたどり着いた窓の内側、綺麗に片付けられた部屋の中では、サディアスが勉強机に向かっていた。肩につかない長さに切られた紺色の髪、水色の瞳に黒縁眼鏡をかけた、いつもの姿だ。
誰もいないのにピンと背筋を伸ばし、どこか憂鬱そうな面持ちで分厚い本の文字を辿り、淀みなくペンを走らせている。
闇に溶け込む暗色のローブのフードを少しめくって、チェスターは窓ガラスを二回ノックした。
「……!」
音に反応して振り返ったサディアスは、相手を見た瞬間に目を瞠った。恐らくリビーが来たと思ったのだろう。チェスターが通ったルートは普段彼女が使っているものだから。
動揺を隠すように眉を顰め、室内に視線をはしらせながらサディアスは立ち上がる。何か呟きながらこちらへ歩いてきて、不服を示すように一度チェスターをじっと睨んでから、ようやく鍵を開けた。
「こんばんは、サディアス君。」
チェスターが浮かべたのは、普段のへらりとした笑みではない。
敵意は滲ませず、目は真剣に、ただ口角を上げるだけの落ち着いた笑い方だ。サディアスは僅かに目を細めて「どうぞ」と呟き、数歩、身を引いた。チェスターが窓枠を乗り越え、中へ入って窓を閉める。
「防音は済ませています。リビーに教わって来たのですね?」
「そう。アベル様に頼んだんだ。入学前に一回…君と話がしたいって。」
「……あちらへ。」
上質な革張りのソファを勧めながら、サディアスの水色の瞳はチェスターのローブの下を探った。腰に帯剣ベルトは見当たらず、太腿に短剣を巻いているわけでもない。少なくとも一見しただけでは、丸腰のようだった。
フードを下ろしたチェスターが座ると、向かいのソファにサディアスも腰を下ろした。二人の間にある低いテーブルの上には燭台と、花瓶には使用人が活けたのだろう花が飾られている。
仮にチェスターが暗器を隠し持っていても、最短で火の魔法を発動できれば、問題なくサディアスが優位をとれる距離だった。チェスターはアベルや騎士達ほど予備動作が速くない。
「それで、話とは?」
「改めて確認しといた方がいいと思ってさ。お互いどういう人間なのかって……二人で話す機会なんかないでしょ、俺達。」
「…なるほど。」
僅かに同意の滲んだサディアスの返しに、チェスターは改めて関係の変化を認識する。
以前のサディアスなら即座に拒否していただろうし、チェスターが茶化さずにこんな話を振る事もなかった。
小さくため息をついて、サディアスは指先で眼鏡をかけ直す。
「私は、少しばかり貴方を知っていると思いますよ。たとえば、殺される事も想定せずにここを訪ねる楽天家だとか。」
「俺もね、君の事ちょっとは知ってると思うよ。そうやって注意してくれるぐらいには、優しいところとか。…黙って利用すればいいのにね。」
付け加えられた言葉にサディアスが眉根を寄せた。普段のチェスターならわざわざ口にしない。
アベルとリビーの伝手で来た以上、どんな事情があってもここで手は出さないだろう――というのは、愚かな考えだ。ここで殺人が起きようとニクソン公爵はいくらでも手を回せるし、無事に部屋を出た後でチェスターの身に何かあっても、サディアスに責任はない。
二人とも、それはよくわかっていた。
「俺の事が嫌い?」
「そうですね。嫌いです」
「正直さ、君の事苦手だったよ。」
「当然かと。」
正面から言葉を交わす。
昔は常に邪魔者を見る目をしていたサディアス・ニクソンは、今はただ平静に、チェスター・オークスを眺めていた。怒りどころか苛立ちもなく、呆れもなく。
一呼吸おいて、チェスターが口を開いた。
「俺はね、サディアス君。ニクソン公爵閣下の事はわからないけど、君がアベル様を裏切る事はないんだろうなって、それは思ってる。あの人が望まないってわかってる事を、君はやったりしない。」
「そんな甘い考えで、あの方の従者をするのですか。」
「でも、そうでしょ?君やリビーさんはアベル様を裏切らない。」
――俺と違って。
声に出したら確実に罵声を浴びるだろう言葉を飲み込み、チェスターは続ける。
「だから君は、嫌っても邪魔でも俺を殺したりしないし、父上を狙ったりもしない。バサム山で何が起こるのかを君は知らなかった。…どうかな。」
「そう聞かれたら誰もが、真実がどうであれ《知らなかった》と返しますよ。」
「うん。それでも……君の口から聞いてみたかったんだ。他の人の目がないとこで、こうやって顔合わせてさ。」
暗殺未遂の件を持ち出しても、サディアスの表情に変化はなかった。
チェスターが現れた時から何を聞かれるかわかっていたのだろう、少しの動揺も見られない。チェスターは一度目を伏せ、改めて水色の瞳を観察する。探るために。
「ニクソン公爵――君の父上は、あの件に」
「火」
チェスターが言いきる前に、サディアスが指を鳴らした。
燭台の火に重なって炎が大きく燃え上がり、すぐに消える。横の花瓶に活けられた一輪だけ火が移り、みるみる黒く萎れて尽きていった。
間近で魔法を使われても立ち上がらず、炎の熱気を受けても逃げなかったチェスターは、答えを求めるようにサディアスを見つめている。
サディアスもまた、その視線を真正面から受け止め――ほんの僅か、眉を下げた。あるいは、少しだけ伏し目がちになったのをチェスターが見間違えただけかもしれない。
「私に聞いたところで何も出はしません。貴方が言った事でしょう、チェスター。私は知らなかったと。」
「……そうだね。ごめん」
焦げた匂いが鼻につく。
サディアスは短く宣言を唱え、風の魔法であっという間に匂いを飛ばした。チェスターがやったら花瓶や燭台もひっくり返っていただろう。微細なコントロールをよく容易くやってみせるものだと、チェスターは心の中で感心する。
「貴方の立場で私を信用する事は、悪手だと思います。」
テーブルに落ちた花の残骸から、目を上げた。
「第二王子派筆頭のニクソン公爵の息子である私が、第一王子の従者になってしまった。オークス公爵の息子である貴方が、第二王子の従者になってしまった。」
「君じゃない誰かは俺を殺すかもって話?」
「貴方が今更死んだところで、私がアベル様の従者になるかは不明です。これまでウィルフレッド様に仕えてきた以上、アベル様に別の者をつける方が自然ですから。……一つ、あり得ない話をしますが」
落ち着いた声で前置きをして、サディアスは淡々と告げる。
「貴方がウィルフレッド様を殺したら、私は確実にアベル様の従者になるでしょう。」
ガタン、大きな音を立ててチェスターが立ち上がる。
血の気が失せた顔を、限界まで見開かれた茶色の瞳を、サディアスは冷静に見上げていた。
「……わかっていますよ。金を積まれようが脅されようが、貴方はそんな事をしない。」
「………。」
唾を飲んだら喉が鳴ってしまいそうで、一言でも返せば動揺の程度を知られそうで、チェスターは黙って椅子に座り直した。
背中を嫌な汗が伝っていく。かつて聞いたシャロンの声が頭に響く。
『ウィルがいなくなってしまったら、私達はどうなると思う?』
「…んな、計画があったって事?」
「違います。ただ、私を確実にその席に据えるならば。……貴方がたを同時に潰す方法を考える者も出るでしょう。」
『そうならないためにも、チェスター。たとえ誰に脅されようと、貴方一人で背負っては駄目よ。』
『…どういう意味?』
『貴方はとても妹思いで、私は味方だということ。』
――父上達が死んだ未来で、俺は…あの叔父上を信じて、ジェニーを人質にとられて……ウィルフレッド様を
「目に警戒が戻りましたね。それで結構」
「っ、俺は――」
「ご存知の通り、五公爵家は慣れ合い集団ではありません。たとえ初代は同じ血を引いたとしても。」
ぴしゃりと言い渡し、サディアスはチェスターの言葉を遮った。
自分と違って家族を愛し、愛され、正しく陽のあたる道を歩いていけるだろう男を見据えて。
「国を守るという目的のために、それぞれが動いています。殿下がたの警護にあたっての協力には賛同しますが……私を決して同志などと思わない事です、チェスター。公爵を疑うのなら、その息子を信じようとするものじゃない。」
「………。」
苦々しく眉を顰めたサディアスを見て、チェスターはふと力なく笑った。
サディアスが訝しげに目を細める。
――それを俺に言うんだから、やっぱり君は信じていい相手だよ。けど、
「サディアス君って、意外と俺を高く買ってるんだね。」
「…何をどうしたらそんな結論が出るのです。きちんと聞いていましたか。」
「君が思うほど立派じゃないよ、俺は。」
「貴方を立派だと思った事はこれまでの人生で一秒たりともありません。」
「はは」
つい笑みが零れると、途端にサディアスの眉が跳ね上がった。
チェスターはごまかすように咳払いし、口元を軽く押さえて一つ深呼吸する。
「わかった。あくまでアベル様達を守るために、協力しようか。」
「えぇ。手を組むだけです」
「うん…それでいいよ。今はね」
「……あまり呑気な事を言うと、本当に引きずり下ろしますよ。」
「それは君の父上にやって。」
からりとした笑みを浮かべて言ったチェスターに、サディアスが動きを止めた。
防音の魔法を張ったのは彼なのに、その視線は改めて一瞬、焦ったように室内を探る。
「君は早めに公爵を継いでよ。そしたら今度こそ、俺の同志になって。王子様達とこの国を支えるためにさ。」
「…本気で言っているのですか。」
「割とね。都合が悪いなら表向きは喧嘩したっていいよ、そういう空気作れるし。――考えておいてくれるかな。学園にいる間にさ。」
僅かに首を傾けたチェスターの目は真剣で、茶色い瞳の中に燭台の灯りがちらちらと燃えている。あれは感情型だと言った父の言葉を思い出しながら、サディアスは深く眉を寄せてテーブルに目を落とした。
「……貴方がそう言い出した事を、覚えておきます。」
「ありがとう。サディアス君」
サディアスは、チェスター・オークスがウィルフレッドを手にかける事などありえないと思っていた。
万一そんな選択肢を出されれば、彼はアベルに指示を仰ぐだろう。黙って手にかける事など考えられないし、第一王子の従者として、自分だって出し抜かれるつもりはない。
「じゃあそろそろ行くよ。」
「……はい。」
チェスターは、サディアス・ニクソンがアベルの意向に反する事などありえないと思っていた。
たとえあの父親に言われたとしても、アベルが望まない以上は直接にせよ間接的にせよ、彼がウィルフレッドを害する事など考えられない。
そう、思っていた。




