246.無意味でもない
「どうかしたの。チェスター」
安物のローブのフードを下ろし、第二王子アベルは落ち着きはらった様子で聞いた。
城の裏門に着いて馬車を降りたばかりの所へ、彼の従者であるチェスター・オークスが全力疾走してきたのだ。膝に手をついて呑気に息切れしている様子を見るに、急ぎの報告があるわけでもないらしい。
チェスターはウェーブがかった赤茶の髪を、左右に編み込みを作って後ろへ流していたが、走ったせいで見事に乱れていた。軽く手櫛で整え、普段は優しげな垂れ目に恨みを滲ませ、茶色の瞳で己の主を見上げる。
アベルは相も変らぬ完璧な美貌で従者を見下ろした。
少し癖のある黒の短髪、形の良い眉に切れ長の目。陽の光を反射して煌めく金の瞳には、睫毛の影がかかっていた。区切りのように一つ深呼吸をして、チェスターは曲げていた背を伸ばす。
「――お帰りなさいませ、アベル様。俺達を心配させたご自覚は?」
「ない。何の話?」
「もー……。」
がっくりと肩を落とし、チェスターは深くため息をついて額に手をあてた。
城門の警備を務める二番隊の騎士達が、きょとんとして二人を見比べている。アベルと共に帰ってきた護衛騎士ヴィクター・ヘイウッドも、簀巻きになった画家を小脇に抱えたままチェスターを見やった。
「何も血文字で返事書くことないでしょ……びっくりしたんですけど。」
「あぁ…あれか。インクがなかっただけだよ。返事を書いてる時点で無事じゃないの。」
「そ、そうかもしれないけどさぁ!今は俺も自由が利かないんですから、ただ待ってるのはほんと心臓に悪いっていうか…そもそも、インクが無いなんて事あります?」
アベル達が向かったのは特務大臣の領地であり、宿はアーチャー公爵の別邸が提供されたはずだ。客人、それも王子に対してペンとインクをケチるわけもない。
城ではなく騎士団本部に足を向けながら、アベルが答えた。
「湯浴みをしていたところだったからね。」
「上がってからじゃ駄目なんですか、それ。」
「バターフィールドの鳥を連れ込んだら、何かあったと触れ回るようなものでしょ。」
王国騎士団十三番隊の隊長、バターフィールド。
《使い魔》のスキル持ちとして最も高い能力を持つと言われる男だ。今回アベルのもとに騎士団長ティム・クロムウェルからの報告を届けたのも、彼の生み出した大鳥である。
チェスターは「そうだった」と呟いて眉を下げた。
「距離的にでかいのが行きましたよね。確かに目立つけど、うぅぅん…だからって簡単に血を使わないでもらっていいですか。」
「善処するよ。」
「…言っとくけどウィルフレッド様もお怒りでしたから、そのつもりで。」
「……わかった。」
アベルが眉を顰めたのを見て、チェスターは小さく肩をすくめる。やはり兄の叱責が一番堪えるのだろう。隣を歩きながら、うっすらと汗の滲む自分の顔を手で仰いだ。
「にしても、女神像はすぐ見つかったんですね。」
「あぁ。予想以上にシャロンの記憶が頼りになった。」
「へぇ~、俺も行きたかったな。」
きっとニコニコしていたのだろうシャロンの顔を思い浮かべながら言う。
アベルがどんな変装をしていたのかは知らないが、恐らく満面の笑みを浮かべたギャビーも一緒で、ハラハラした顔のヴィクターがついている。
――う~ん、見てて楽しそう。
「ギャビーさん、大丈夫でした?」
「ひとまず心配はない。短期間ではあったけど、ヘイウッドも扱いに慣れたみたいだ。」
「なるほど、確かに慣れたっぽいですね。」
チェスターは苦笑いで同意した。
出かける前には「ウェイバリー殿、お待ちを」などと声をかけていたはずが、さっきは問答無用で簀巻きにして運んでいた。真面目なヴィクターが客人扱いを止める程度には、色々あったのだろう。
「こちらに変わりはなかったかな。」
「はい、魔獣の件以外は。サディアス君が公爵に呼び出されていたらしいので…ちょっと、そこが心配ではあります。」
「そうか……。」
顎に軽く手をあて、アベルは金色の瞳をチェスターとは反対方向へ流す。
直接様子を見に行った方が早くはあるが、果たしてそれが正解なのか。一年前と比べて、双子の王子とその従者達の関係は確実に変わっていた。
「……アベル様。相談があるんですけど」
迷うように言い淀み、チェスターが呟く。珍しく笑みは消えていた。
アベルは視線で続きを促す。
「俺、サディアス君と真面目に話してみたいんです。」
アベルの従者になりたがっていた、第二王子派筆頭であるニクソン公爵の子息。
公爵には黒い噂が絶えず、サディアス自身は当然第一王子派にも接触している。近くで見るとアベルに協力している事は明らかで、オークス公爵の息子でありアベルの従者の座を奪ったチェスターをいつも睨んでいた。
「お互い家の事もありますからなかなか本音では話してくれないでしょうし、ギャビーさんと何があったか聞き出す気はありません。でも……派閥以前に貴方がたを守る者同士として、ちゃんと信用できる相手だって確かめたい。学園に行く前に。」
公爵によく似て笑いもしない彼は、冷徹な性格なのだろうとぼんやり考えていた。
目的のためなら、アベルのためなら手段を選ばない。他の人間はどうでも良い、そんな風に見えていた。しかし――
『私に言いたい事があるなら言ってください。貴方らしくもない。』
『…咳が出るからさ。うつるから寄るなって、目の前で言った人がいて。』
『うつるものではないという事は、貴方や公爵が生き証人でしょう。』
『君の言う通り、ろくに同行はしてない。用事を請け負う事もあるから接触はするけどね。』
『私なら、弟がどうなろうとアベル様の傍にいたでしょう。――ですが、貴方は…そうするのでしょうね。』
――俺が真剣に話す時、君はちゃんと向き合ってくれた。考えてみれば俺だって、ニクソン家に弱みを見せたらいけないって、壁を作ってへらへら笑ってたんだ。軽薄で不真面目な奴だと嫌われてもそれでよかった。構ってる場合じゃなかったし、学園に行ってもそうだろうと思ってた。
「この状況で、俺とサディアス君が人目無しに会うのは厳しいってわかってます。それでも……一度だけでも、一対一で話してみたいんです。どうにかなりませんか。」
癖で苦笑いを浮かべてしまいそうなところを堪え、チェスターは問いかける。軽い気持ちで言っているわけではないのだ。
アベルは数秒考えてから足を止め、口を開いた。
「リビー。」
「はっ、ここに。」
「うわっ!」
呼ばれた瞬間にシュタッとどこからか降り立ったリビーに、チェスターが肩を揺らした。いつの間に、と疑問に思うところだが、考えてみれば彼女がアベルの出迎えに来ていないはずがない。
顔の下半分を隠す黒い布の上、ぎらぎらとした目は今日も今日とて第二王子への忠義に満ち溢れている。漆黒の長髪を後ろの低い位置で一つに縛り、前髪には金色のヘアピンを二本差していた。
「サディアスの部屋への行き方を教えてやれ。」
「承知致しました。」
――リビーさん、サディアス君の部屋に行く事あるんだ。なるほどね……スキルもあるし、当然の橋渡しか。
「ありがとうございます、アベル様。」
チェスターが片手を胸にあて丁寧な礼をすると、アベルは僅かに目を細めて聳え立つ王城を仰ぎ見た。表面化するものもしないものも、ここには数多の思惑が潜んでいる。
「…そう簡単ではないだろうが、無意味でもないはずだ。好きに話してみろ」
「――はい。」
◇
「ただいま戻りました、ウィルフレッド様。」
「お帰り。…ふふ、ご苦労だった。ヴィクター。」
普段より幾分か眉を顰めている護衛騎士に、第一王子ウィルフレッドはつい頬を緩めた。
後ろで一つに結った金髪は艶やかで、優しく細められた目の中には青い瞳がある。僅かな荒れもない滑らかな白い肌、優美に整った目鼻立ちはまるで絵本に描かれる白馬の王子そのものだ。
「ウェイバリーの護衛は大変だったかな。」
「あれにしょっちゅう付き合っているのかと思うと、フラヴィオ・テートに同情します。」
残念ながら俺ももうじき仲間入りですが、とは心の中に留め、ヴィクターが言う。護衛対象であるウィルフレッドが王立学園に通う間、彼は画家ガブリエル・ウェイバリーの監視につく事になっていた。
浮かべた笑みをおさめ、ウィルフレッドは軽く顎に手をあてる。
「彼はどうだった?アベルの事をシャロンに黙っていられただろうか。」
「お二人の見立て通り、問題ありませんでした。言動は一風変わっていますが、こちらが言い方や接し方を理解すれば、意外にも御しやすい所があるかもしれません。」
「そうか……ならよかった。あれほど才ある者もそうはいない。消したくはないからな。」
「もっとまともであれば、騎士団にと言いたかった所です。彼の記憶力は異常ですから……いくらでも使えたでしょう。」
「クロムウェル団長も同じ事を言っていたよ。まぁ、無理だろうけれど。」
騎士にならずともせめて協力者に、城勤めにと喉から手が出るほど欲しい能力ではあるが、王家を相手にしても畏れない奔放さは手に負えない。本人もそんな仕事をするより自由に女神像を描いていたいだろう。
ウェイバリーの事はひとまず問題ないとして、ウィルフレッドは再びヴィクターに視線を寄こした。
「アベルも戻ったんだろう?」
「はい、すぐ本部へ向かわれました。画商との面談もありますが、先にクロムウェル団長に会いに行かれたかと。」
「魔獣の件か……あの血文字は何だったんだ?君がついていながら。」
「それがご入浴中に届いたらしく、インク代わりだと……私も手紙が来た事と内容は伺っておりましたが、血で返事を書かれたとはつい先程知りました。治癒を請け負った時は「切った」としか仰らなかったもので……。」
「まったく…」
妙に楽しそうな騎士団長ティム・クロムウェルに見せられた手紙を頭に思い浮かべ、ウィルフレッドは小さくため息を吐いた。インクがなければ血を使えばいい――なんて発想をする王族がどこにいるというのか。緊急事態でもないのに。
「後でよく言っておかないとな…。女神像はこれまでと違っていたとの事だけど。」
「はい。月の女神様と見られる女性と共に、騎士が二人。同じ台座に三体の石像がありました。」
「騎士……二人という事は、エルヴィス様とアーチャー家の初代か。」
名前は確かレイモンド様だったなと、ウィルフレッドが言う。
ヴィクターは一瞬迷ってから口を開いた。
「アベル殿下もその見立てでしたが…アーチャー公爵家は、その当時から王の右腕を務めておいでだったのですか?初代騎士団長はニクソン家だと記憶しておりますが……」
「騎士団長はそうだな。」
一つ頷いて、ウィルフレッドは窓の外に目を移す。
薄青い空には白い雲が浮かんでいた。
「きっとエルヴィス様は、ご兄弟の中でもレイモンド様と仲が良かったのだろう。――あぁ、やはり俺も行きたかった。建国の騎士と共にある女神像など、是非とも見たい。」
「護衛を増やしても難しい話ですね。貴方は一度、あの山で遭難しているので…。」
「小さい頃の話なのに……いや、わかっている、無理なのは。アベルが羨ましいな……ウェイバリーが絵を描いたら、俺も見せてもらいたいものだ。」
「………。」
ウィルフレッドの横顔を見つめ、ヴィクターは音もなくため息を吐く。
アーチャー家は当時から王の右腕だったかと、その問いの答えをウィルフレッドは推測の形でしか返さなかった。ならばそれ以上聞くべきではなく、聞いても無駄だろう。
「あぁそうだ、リラに連れて行く騎士の件…やはり反対されたよ。宰相殿が言うには、アベルの護衛騎士二名が揃うのは俺に不都合なのだそうだ。ふふ、なんだか滑稽だな。俺はまったくそうは思わないのに。」
王族が入学する際には、近衛である一番隊から数名が学園都市リラへ異動する。信用を得た騎士が近場にいた方が良いとの考えからだ。
元はヴィクター・ヘイウッドとリビー・エッカートの二名が決まっていたが、急遽ヴィクターをウェイバリーの見張りにつける事にしたため、選定が見直されていた。
「セシリアは気にせず配して良いと言ってくれたけど、まだ子供も小さい。俺のせいであまり一緒にいてやれなかっただろうし、やはり彼女には王都に残ってほしい。」
「…ウィルフレッド様、」
「大丈夫だ、ヴィクター。君をウェイバリーの監視につけるのも、セシリアを連れて行かないのも、きちんと考えての事だ。感情論だけで言っているわけではないよ。」
連れて行く騎士はあくまで《学園都市リラ》に滞在する。
チェスターやサディアスのような従者とは違って、共に学園へ入るわけではないのだ。候補者は今、宰相監視のもと選ばれている。
「――たまにはお爺様らしく、俺達の判断を信用してくれても良いと思うんだけどな。」
ぽつりと呟いて、ウィルフレッドは苦く笑う。
十三年近く生きていても、本人にそう呼びかけた事は片手で数えられる程度だった。




