243.ガブリエル・ウェイバリーの欠望 ◆
『すっ――素晴らしい!!』
両腕を広げ、目を輝かせてギャビーが駆け出していく。
『ねぇ、騎士を連れた女神像なんて初めてだよ!!これは絶対に描かなきゃ!!あぁあーもうテンション上がっちゃうなぁ!!』
ぴょんぴょん飛び跳ねながら叫ぶ彼の背を見送るアベルの横で、息を切らしていたシャロンがへたりと座り込んだ。
帽子をとって膝に置き、こくこくと水筒の水を飲む。
しばし動けないだろうと察して、アベルは傍らに腰を下ろした。
『大丈夫?』
『えぇ……ごめんなさい、貴方に背負ってもらったりもしたのに、こんなざまで…』
『気にしなくていいよ。体力がもたないのを承知で頼んだんだ。無理をさせてすまない』
『いえ…私が行くと言ったんだもの。本当によかった、見つけられて……』
安堵のため息を吐いて、シャロンはちらりと後ろを確認する。
そちらには三人が通ってきた洞穴があるだけだ。
途中ほとんど真っ暗になってしまった時に光の魔法を使ったのも、途中までアベルの姿を変えていたのも、アベルに隠密で同行している騎士だという。
『……本当に、いらっしゃるの?』
内容をぼかしてシャロンが聞くと、アベルはギャビーが女神像に夢中でいる様子を見やってから、短く首を横に振った。
どちらもアベルがやった事だと理解し、シャロンは眉尻を下げる。
『危ないわ。閣下が亡くなってしまったばかりなのに、貴方を守る方がいないなんて……』
『君も知ってる通り、今騎士団は忙しい。人を割く余裕はない…僕の護衛なんて、余計にそうだろう。』
『……どういう事?』
王子につける護衛は決して「余計」ではないはずだ。
元から任命されているだろう二人の護衛騎士すら連れずに、アベルはギャビーとたった二人でやってきた。そんな状態でよく王都を出る許可が下りたものだとシャロンは思う。漂った沈黙に負けずに見つめていると、やがて諦めたようにアベルが口を開いた。
『僕が見誤ったんだ。胸騒ぎはしていたのに…対策を怠ったせいで多くを喪った。』
なぜそんな事を言うのか、シャロンにはわからなかった。
まさかオークス公爵夫妻が殺された朝、増援を送る指示が出された場にアベルがいたなど知る由もない。
ただその悔恨の滲む声を聞いて、彼女は微笑む事はせずに真っ直ぐ――正面からアベルを見据えた。
『何があったのか知らないけれど……貴方、神様じゃないのよ。何もかもわかるわけないでしょう。』
『――…。』
アベルが目を見開く。
もちろん、自身を神だなどと思った事もなければ、シャロンがそう勘違いしたはずもない。
ただの人間には、事象の全てを先読みする力は無いのだと、彼女は至極当然の事実を言っただけだった。
それなのに衝撃を受けたのは、「当たり前」の枠組みに自分を入れていなかったから。他者より優れた能力を持つ自覚があったから。
『…わからなければいけないと……思っていたかもしれない。…驕りだな、それは。』
独り言のように呟いて、アベルは目を伏せた。
シャロンはそんな彼を見つめ、ゆっくりと口を開く。
『貴方はとても優秀な方。色んな事ができる分、力を持つ者として、王子として、求められる結果も果たしたい責任もあるのでしょう。』
もちろんそれは立派な事よと言いながら、彼女は自然な動作でアベルの手を握った。金色の瞳が自分に向くと、柔らかく微笑んで言葉を続ける。
『けれどどうか、抱え過ぎる事のないように。貴方を支えたいと思う人が、力になると言ってくれる人がいるのだから。私も、ウィルも、お父様も騎士の方も……それに、ふふ。帝国のジークハルト殿下も、かしら。』
『…お前の、ジークに対する警戒の無さは何なんだ。』
『流れる噂よりは、悪い人ではなかったでしょう?ちょっと自由だけれど――あぁ、そうだわ。』
シャロンは立ち上がり、アベルの手を引いて青い花のもとへと歩いた。
白く細い手を伸ばし、小さな花弁に触れて振り返る。
『もしかしたらご存知かしら。この花はね、勿忘草というの。』
『……変わった名だ。』
『元になった逸話があるそうよ。名前のままに、花言葉は…』
《私を忘れないで》。
風に揺れる青い花畑を背に、彼女は花がほころぶように優しく微笑んでいた。
アベルの手を、まるで大切なもののように握って。
『ね?貴方を想う人達の事を、どうか忘れずに。自分のせいだなんて一人で抱え過ぎたら駄目よ。』
『…別に、忘れない。』
『存在だけの話じゃないわ。貴方が守ろうとしてくれるように…そうね、非力だけれど私だって、支えになれたらと思っているの。その気持ちまで全部、貴方がつらい時にこそ思い出してほしい。』
未来の王妃殿下は、深い慈愛の心でアベルを見つめている。
すぐに振りほどけるだろうか弱く細い手指で、支えになりたいと言う。
『どうか少しでも、一緒に背負わせてね。貴方が抱えるものはきっと、とても重たいから。』
『――…覚えておく。』
深く思考するようにゆったりと瞬いて、アベルはそう返した。
シャロンは微笑みで喜びを示すと、凛々しく立つ石像へ視線を向ける。こちら側を向いているのは女性の石像だけで、後ろの二つはよく見えない。
『…近くで見てみるか。』
『えぇ。』
やはり気になっていたのだろう、シャロンの返事はすぐだった。
手を解いた二人は勿忘草の合間を縫って歩みを進める。アベルはシャロンの後に続き、よろめいて倒れかけた彼女を抱き留めた。
『ありがとう。』
『…気をつけなよ』
『はい。』
にこりとして頷き、シャロンはアベルと共に石像の裏手に回る。
女性の石像とはそれぞれ違う方を向いて、けれど同じ台座の上に、二人の男性の石像があった。シャロンはじっと見上げたまま、ゆっくりと首を傾げる。
『どうして二人だけなのかしら。女神様といるなら六人のはず、よね。』
『理由はわからない。恐らくはエルヴィス・レヴァインと、レイモンド・アーチャーだ。』
『特務大臣という職は、当時まだなかったのでは…』
『君は公爵を継いでない。…そういう事だ。』
明言しないアベルに瞬きながらも、シャロンは納得した様子で頷いた。公爵家に生まれていようとも、後継者でなければ知らされない情報というものもあるのだ。
そしてふと、頬を緩める。
『なんだか見た事があると思ったけれど…アベル、左のお方、私のお父様に似ていない?』
『そう?』
『きっとこちらがレイモンド様ね。』
『好きに思えばいいけど…代々同じ顔だったわけではないでしょ。』
『お父様が先祖返りなのかもしれないわ。』
『その予想で言うと、こちらがエルヴィス様という事になるけど……』
長い髪を後ろで一つに括った男性の石像を見ながら、アベルは眉を顰めた。シャロンがぱちりと瞬いて聞く。
『何か思うところが?』
『……笑い方がジークハルトに似てる。』
『…っ、ふふ。本当ね。』
思わず笑ってしまったシャロンを見て、アベルはふと力を抜き、ゆるく微笑んだ。
『君が公爵に似てるなどと言うから、気付いてしまった。もう、そういう風にしか見えない。』
『私もよ。ふふ、どうしましょう。』
『ふっ…くく、見れば見るほど似てるね。』
『いつか、二人にここへ並んでみてほしいわね。』
『歴史家が混乱する。』
『それはそれで楽しそうだわ。』
勿忘草の花畑で、二人はくすくすと笑い合う。
胸元で軽く手を握り、シャロンは目を細めてアベルの横顔を見つめていた。
もう、その彼女は死んだけれど。
『本当にひどい最期だった。』
ズリ、ズリ、荷物を引きずりながらギャビーは歩く。
真っ暗な洞窟を揺らめくランタンの灯りが照らしていた。前方が少し明るくなってきたから、目的地はもうすぐだ。
『どうしてああなってしまったんだろうね、まったく。君達はどうしてこうなってしまったんだろう。ボクにはよくわからないよ。』
ぶつぶつと零しながら、一つきりになった瞳で前を見て。
時折、へぶしとクシャミをしながらギャビーは歩く。
『ちょっと寒いなぁ!いくら春でも夜はダメだってシャロンが言っていたけれど、本当にそうだったんだね。』
彼の声を聞いているのは、隣を歩く白猫だけだった。
あるいは、この世界に神などという存在がいれば、聞こえていただろうか。
三人の石像は今も変わらず、青い花に囲まれていた。
月明かりに照らされた姿は白く冷たく、美しい。
荷物を地面に下ろして、身軽になったギャビーは石像の奥側へと回り込む。長髪の男の石像の正面だ。青い花に踏み込まない距離で、ちょんと座る。
ギャビーの記憶が色褪せる事はない。
今でも鮮明に思い出せた。
『ねぇ、第二王子くん。あの時君は、ちゃんと笑えていたじゃないか。』
吹き込む夜風がさわさわと花を揺らしている。
城を出てから立ち寄った僻地の墓所には、ここに咲いているものと同じ青い花が供えられていた。少し日数が経ったであろうそれを誰が置いたのか、ギャビーは知らないけれど。
『ねぇ、シャロン。この花が枯れていないなら君はどうして、』
ぱくんと、口を閉じた。
死んだ人間に祈っても言葉を吐いても質問を投げても、返ってきやしないのだ。普通は。
長い睫毛を伏せて、困ったものだよね、とばかり首を傾ける。
『勘弁しておくれよ。ボクは忘れられないんだからさ。』
白猫が青い花畑を駆け回り、石像の台座に跳び乗った。
まるで三人の仲間ですと言わんばかりにすまし顔でおさまっている。ギャビーは欠伸を一つして、立ち上がった。
『ただの天才画家だからね。』
ズリ、ズリ。
降り注ぐ月明かりの下で、揺らめくランタンの灯りに照らされ、ギャビーは歩く。
数の減った指で荷物を解いて、がたん、かちゃりと音を出す。
『一度見たものは決して忘れない。』
白いキャンバスをイーゼルに立てかけ、ガチャガチャと絵の具の瓶を並べ、使い古したパレットを取り出して。
薬指と親指で筆を握った。
ざぁ、と色がはしる。
『真実の写実画家、ガブリエル・ウェイバリー!それがボクだとも。』
全ては頭の中に残っている。
どこに何色があり、陰影の曲線はどうだったか、空気は、風は、音は。
筆はよどみなく進み、止まる事がない。完成図は頭の中に刻まれている。
月が沈み太陽が昇る頃まで、彼は描き続けた。
『女神は確かに存在して、願うならば何か叶えようかと言った。真実だと思うかい?』
頬に絵の具のついた顔で、ギャビーは寝転がったまま聞く。
完成した絵を前に、誰かが膝をついていた。
『たとえあの日に戻れたって、ボクにできる事は何もないのさ。だけど――』
涙が落ちる音か、嗚咽か、憎しみか後悔か、自己嫌悪か?
その時、画家の耳には何が聞こえただろう。
膝をついたあなたは男か女か。
ゆっくりと上半身を起こして、ギャビーはその人に微笑んだ。
『君はどうだろうね?』




