242.どうしてくれる?
「……女神像、なのか……?」
呟いたのはヴィクターさんだった。
勿忘草が咲き誇る広場の地面は柔らかく、吹き込む風がさわさわと花を揺らしている。その中央には確かに女性の石像があった。
長い髪をポニーテールに結い、右手には抜き身の剣を手にし、切っ先は下へ下げ、まるで旅人のようにローブを羽織って立っている。
その背後、同じ台座の上には二つの影があった。
女性よりも背の高い、恐らくは男性と思われる石像。三人はそれぞれ別の方向へ身体を向けている。あの夜の私には見えなかったものだ。
ダンがぼそりと呟く。
「女神像ってのは、女二人じゃなかったか?」
「えぇ、基本的にそのはずだけれど…」
「すっ――素晴らしぅわぶッ!!」
両腕を広げて駆け出そうとしたギャビーさんが急に躓いて、うつ伏せにビタンと倒れ込んだ。ものすごく痛そうな音だ。
どうやら地面に空いていた穴に片足を突っ込んでしまったらしい。子供が滑り込めそうな大きさだわ…たぶん、私があの時落ちた穴ね。
大丈夫ですかと声をかけるより早く、荷物を下ろしたヴィクターさんが慌てて駆け寄った。
「何をしてるんですか、貴方は!」
「痛い!けどそれはどうでもいいや、女神像!ねぇ、騎士を連れた女神像なんて初めてだよ!!これは絶対に描かなきゃ!!」
体はうつ伏せのまま目をきらきらさせているギャビーさんの右脚を掴んで、ヴィクターさんが怪我の状態を確かめようとする。
転んだ時の角度的に、たぶん挫いていると思う。骨折までいっていなければいいのだけれど。
「護衛騎士くん、いくらボクでも近付かないと見えないよ!離してくれないかい!!」
「勝手に動かないでください、怪我が悪化します!内部の損傷ですから、そう簡単には治癒が…」
「そんなの後でいいよ!」
「ちょっと待ってください!こらっ…あぁもう!這いずるな!この馬鹿ッ!!」
ヴィクターさんがとうとうギャビーさんを小脇に抱え上げたけれど、それはそれでジタジタと両手両足を振り回し……挫いた足はさすがに動かしちゃ駄目だと思うわ!?
「ギャビーさん、右足を動かしては駄目です!」
「でもシャロン!ボクは女神像を見にここまで来たんだ!!」
「わかったわかった、向こう連れてってケガ診りゃいいだろーが。」
ダンが背負っていた荷物を置き、呆れたように言った。
ヴィクターさんが運ぶ横からギャビーさんの両膝あたりを抱え、二人体制で広場の奥へと出発する。
アベルはキャスケット帽を脱いで、ヴィクターさんが下ろした荷物に乗せた。
洞窟は外よりもひんやりして、天井の穴から差し込む太陽光も、降り注ぐ範囲は限定的だ。ギャビーさんはどの道しばらくここにいるだろうと、私も帽子をとった。風が髪を流していく。
勿忘草の外側を回って石像の奥へ向かう三人の方からは、ギャビーさんの嬉々とした声が聞こえてくる。
「…ここでも見るとは、思わなかったな。」
呟いたアベルの横顔を見つめて、「そうね」と微笑んだ。
こんなところに勿忘草が群生しているなんて、私も予想外だった。むしろ、誰かが石像周りにあえて植えたのかしら、とすら考える。
「私達も行きましょう?」
せっかくなら近くで見てみたい。数歩進み出てアベルを振り返った。
私を見た彼はどうしてかほんの僅か目を細め、頷くように瞬いて歩き出す。
お花畑に近付いてみると勿忘草は割と好き勝手に咲いていて、一人ずつなら合間を縫って進む事ができた。
天井から降ってきたのか元からこの洞穴にあったのか、時々石が落ちていて踏みそ
「あっ。」
気をつけなければと思っていたのに、ふと顔を上げて石像との距離を確かめた途端、見事半端に石を踏みつけてしまった。バランスを崩したものの、すぐ後ろにいたらしいアベルが抱き留めてくれる。
「ありがとう。」
「気をつけなよ」
「はい!」
目的地に着いたからと言って、気が抜けてしまっていたかもしれない。キリリと表情を引き締めて頷き、歩みを再開した。
あまり近いと全体像がわからなくなるから、私達が立ち止まったのはお花畑の途中だ。女性の石像の裏側、男性二人がよく見える位置。
ギャビーさん達は石像回りを一周したらしく、離れた場所で手当てをしている。
その二人は確かに、騎士だった。
険しい表情で前を睨む短髪の男性は、剣先を地面について柄に両手を重ねている。にやりと口角を吊り上げて笑う男性は腰の鞘に剣を納めたまま、柄に片手を添えていた。こちらは長い髪を後ろで一つにまとめている。
どちらも女性の石像と同じようにローブを羽織り、その下には騎士服を着ている。もちろん、ツイーディアの王国騎士団とは違うデザインだ。
「……?」
石像を見上げたまま、私は少し首を傾ける。
こちらの石像は絶対に初めて見たというのにどうしてか――妙な既視感があった。
剣を持ったポニーテールの女性の石像、それは間違いなく月の女神様。
お顔立ちも王都の広場や教会で見た物とそんなに変わらないと思う。ギャビーさんほどの記憶力はないから、ちょっと不安だけれど。
そしてそんな彼女と共に騎士がいるならば、ツイーディア王国の始祖であるエルヴィス・レヴァイン様と五人のご兄弟――現代にも血筋が残る五公爵家の初代様、のはずだ。
口元に軽く拳をあてるようにしながら、私は眉を下げる。
「どうして二人だけなのかしら。女神様といるなら六人のはず、よね。」
「理由はわからないが…恐らくはエルヴィス・レヴァインと、レイモンド・アーチャーだろう。」
アベルが初代様の名前を言う。
どうなのかしら。確かに今でこそ、国王陛下の右腕と言えばアーチャー公爵家だし、ここはうちの領地だけれど。
「特務大臣という職は、当時まだなかったのでは…」
「君は公爵を継いでない。」
ぱち、と瞬いた私に、アベルが「そういう事だ」と続ける。
私が知らない、公爵になった者には知らされる歴史があるという事ね。
お父様なら知っているのだろう。
…お父様?
既視感の正体にようやく気付いて、私は頬を緩めた。
「なんだか見た事があると思ったけれど…アベル、左のお方、私のお父様に似ていない?」
「そうか?」
真っ白な石像と実際の人物とでは、重ねるにもちょっと難しいけれど。
肩についた御髪をもう少し切って前髪の分け目を変えたら、結構似ているんじゃないかしらと思う。若い頃のお父様はこんなお顔だったのでは、なんて。
「きっとこちらがレイモンド様ね。」
「好きに思えばいいけど…代々同じ顔だったわけではないでしょ。」
「お父様が先祖返りなのかもしれないわ。」
「その予想で言うと、こちらがエルヴィス様という事になるけど……」
どうしてか眉を顰めて、アベルは長髪の男性の石像を眺めている。
レイモンド様よりは細身だけれど、堂々とした姿は己の強さへの自信が見てとれた。
「何か思うところが?」
「……笑い方がジークハルトに似てる。」
「…んっ、ふふ。本当ね。」
まさにその通りだと気付いて、思わず声に出して笑ってしまう。もしかして顔立ちも似ているのでは。
アベルは私を見やり、ふと力を抜いてゆるく微笑んだ。
「君が公爵に似てるなどと言うから、気付いてしまった。どうしてくれる?もう、そういう風にしか見えない。」
「まぁ、どうしましょう。ふふ」
「ふっ…くく、見れば見るほど似ているな。参った。」
「いつか、二人にここへ並んでみてほしいわね。」
「歴史家が混乱するぞ。」
「それはそれで楽しそうだわ。」
勿忘草の花畑で、私達はくすくすと笑い合う。
アクレイギア帝国の皇子殿下がツイーディア王国の始祖様にそっくりだなんて、誰もが仰天してしまう事だろう。まだ、この石像がお二人だと確定したわけではないけれど。
「これから先お祈りをする時、この場所を思い出しそうね。」
天高くから降り注ぐ光、作られてから時は経っただろうに、今もなお真っ直ぐ立ち続ける三つの石像。風に柔らかく揺れる青い花畑――隣には、貴方がいて。
金色の瞳は私を見て、そして視線を下げる。
疑問に思うと同時、自分が胸元を片手で軽く押さえたのだと気付いた。無意識にネックレスに手をやっていたらしい。指先にはフリルの下、確かに石の感触がある。
アベルが瞬いた。
「まさかな」とでも思っていそうな、自己完結の顔をしないでほしい。
ちょっぴりしゅんとして、私は石像に目を戻してしまった彼の袖を引く。
「…私、大切にするって言ったわ。」
ぽそ、と呟いた。
充分に距離はあるけれど、それでも決して他の皆に聞こえないように。
「いつも使ってるとも言ったでしょう?」
アベルは僅かに目を見開いていた。
そんな、信じがたい事を聞いたような顔もしないでほしい。きゅ、と眉根を寄せる。
「…いい加減、ちょっぴり怒るわよ。」
「なっ……」
「学園にだってつけていきますから。」
「は?いや、それは――」
「私のだもの。」
囁くような小声で、けれどしっかり意思を伝えたくて、彼の指先を握った。
狼狽えた様子のアベルと目を合わせて、少し首を傾ける。
「…だめ?」
まさか学園に持っていくのを否定されると思わなかったから、自然と少し眉が下がった。
これまで通り貴方から貰ったとは言わないし、制服なら外目に触れないし、そんなに困るならパーティーではつけないのに。
アベルは小さく息を呑むと、思いきり眉を顰めて目をそらす。
「……シャロン。」
「はい。」
「わかったから、一度待て。離せ」
…軽く振りほどく事だってできるのに、私が離すのを待ってくれるの。……もう。
反対にぎゅっと手を繋いだらどうするだろうと、頭の片隅でちょっぴり考えながら、大人しく指を離した。アベルが一歩離れ、顎に手をあてて何か考え込む。
なんとなく、いつか王都の山で見た光景が重なった。
あの時は、近付こうとしたら後ずさりされてしまったのよね。
『…アベル、今私が走り出したらどうなるか』
『本当にやめろ。少し待て』
今の私が同じ事になったら、頬を膨らませて追いかけていたかもしれない。
……いえ、さすがにそんな子供っぽい事、しませんけどね?しませんけれど!
「…うん、わかった。」
アベルが一つ頷いてそう言った。
本当にわかったのかしら、この人は。
「護身用なのは確かだから、好きに使うといい。」
「え?…また、込めてくれていたの?」
これこそは絶対的な秘密なので、でも聞きたくて、私は唇に手をかざしながら一段と小声で聞いた。ハッキリ言わないけれど、もちろん魔力の話だ。
アベルは「うん?」と僅かに眉を顰めた。
私がそれを知っていたとでも思っていたのかしら。魔力を込め直してくれたのだとしたら、もちろん私の部屋で会った時でしょう。でも目に見えないのだから、言ってくれないとわからない。
護身用ってそういう意味よね。
ハッとして、私はアベルを見上げた。
「あの効果を目的につけてると思っているのなら、貴方ちょっとズレているわ。」
「……、そうか。」
「そうよ。もう……私の好きにさせて頂きます、第二王子殿下。よろしいでしょうか?」
少し眉を吊り上げて聞くと、瞬いて軽く頷いてくれたけれど。
アベルはやっぱり、よくわかっていない顔をしていた。




