240.本当にあっち ◆
『ウェイバリー。』
ぱちりと、ギャビーは目を開く。
片方真っ暗で片方真っ白とは、奇妙な視界だった。
青緑の瞳を声のした方へ動かすと、寝転んだ自分を見下ろす男の姿が映る。白いのは天井と壁だけだったらしい。
久し振りでも変わらないしかめっ面に、思わず笑みがこぼれた。
『ボクの事はギャビーと呼んでくれ、第二王子くん。忘れてしまったのかい?』
初めて会った頃まだ少年だった彼は、今や随分と背が高くなった。
少し癖のある黒の短髪や堂々とした立ち姿は変わらない。
ただ、まるで星のようだった金の瞳は、しばらく前に城で会った時と比べても昏くなったように思えた。ギャビーには絶対的な記憶力があるため、それは色味と関係のない事だと理解しているけれど。
『すまなかった。お前が囚われていると、先に知っていれば…』
『何で謝るのかなぁ。ボクにはわからないよ。』
『発見が遅過ぎた。その欠損はもう……治らない。』
『コレ?医者にも同じ事を言われたけどね。片っぽは見えるし、生きて筆が持てれば問題ないよ。歩けるようにもなるらしいし。なのに君はどうして、そんな顔をするのかな。』
ツイーディア帝国の若き皇帝陛下は、僅かに目を伏せて沈黙した。
上半身をヨイショと起こしたギャビーの足元では、使い魔である白猫が老いのない姿で丸まっている。空腹に気付いて、ギャビーはサイドテーブルの見舞品からクッキーを摘まみ上げた。
数の減った指で器用に包装を破く。
『……なぜ、描かなかった。』
混沌とした声だった。
疲れと、嘆きと、諦めと、疑問と、怒りと、数えきれないほどの感情がないまぜになったその声は、この部屋にギャビーしかいないからこそだろう。
きょろりと皇帝に視線を戻し、ギャビーはクッキーを咀嚼して飲み込んだ。
『描いてほしかったのかい?』
金色の瞳に憎悪が滲む。
ギャビーに対してではなく、けれどその心に根強く残っているであろう、憎しみが。ほんの一瞬だけ歯を食いしばり、荒ぶる気を抑えつけるようにゆっくりと、彼は口を開く。
『……あいつは、お前が殺されるくらいならば、それを選んだだろう。』
『そうだね、彼女はそういう子だ。』
死に様を。
受けた屈辱を。
あの日そこにあった、悍ましい光景を。
皇帝に届けてやれば楽しいだろうと、かの男は言った。
描けばいくらでも金をやると、描かないならば全て奪うと、そう言った。
見たくも聞きたくもなかったギャビーを押さえつけ、目を閉じてもこじ開けて、忘れるという事ができない人間に、強制的に覚えさせた。
『でもボクには関係ない。彼女が何を望んだかなんてね。』
『…相変わらず、死を恐れないな。』
『ボクが一番怖いのは、女神像を描けなくなる事さ。』
『指を失っても死んでも、描けないだろう。』
脅されても拷問を受けても身体の一部を失い続けても、ギャビーは決して頷かなかった。保護された時には傷口の化膿に加え、飢餓状態に陥ってさえいたのだ。
それでも描かなかった。
『あの光景を描いたら、ボクは女神を描く資格を失うよ。』
思い出したくなくても、ちらと考えただけで鮮明に蘇る。
自分の力ではどうにもならないと知っていたから、ギャビーは、彼女達を助けようとはしなかった。見るのが嫌で聞くのが嫌で、抵抗はしたけれど。
結局は――
シャロン・アーチャーが壊されて死んでいくのを、眺めていた。
『君はどこまで知ってるんだい?』
『…遺体の状態は、口頭で報告を受けた。』
『そっか。』
見られたい姿ではないだろうから、きっとそれでよかったのだろう。
ギャビーは布団の下でもそりと足を動かした。痛い。
『治ったらどこへ行こうかなぁ。とりあえずフラヴィオのお墓にケーキでも差し入れようか。あぁ…シャロンのお墓もできてたりする?』
『現場付近に建てられている。』
『そうなんだ。じゃあそこも行こうかな。後でカンデラ山にも寄って…その時にはまた、見頃かもしれないね。』
無邪気に笑うギャビーを、皇帝は唇を引き結んで見下ろしている。
「また」が示す過去の光景は、彼の記憶にも残っていた。
何年も昔の、もう霞んで消えてしまいそうな、儚いものではあったけれど。
それでも確かに、
覚えていた。
◇ ◇ ◇
空は快晴。
太陽の下であれば、気温もそうつらくない春の日だ。
「絶好の登山日和だとも!!」
木漏れ日の下で、テンションが上がっているのだろうギャビーさんがくるんとその場で回転し、両腕を広げた。なんてウキウキとした笑顔なのかしら、私の心も浮き立ってしまう。
「ふふ、頑張りましょうね!」
「もちろん!見つかるまで帰らないさ!」
「…それは駄目ですけれど…。」
日が落ちる前に屋敷まで撤退してくれなければ困る。
ヴィクターさんが引きずってでも連れ帰ってくれるでしょうから、たぶん大丈夫、かしら?首を傾げながら呟くと、私の横を歩いていたダンが苦い顔でギャビーさんを見やった。
「おい、アイツずっとあの調子なのかよ。こっちが疲れる。」
「見守っておきましょう。くるくるして崖から落ちてしまわないように…」
「ありえそうで怖いですね。」
軽く頭を横に振りながら言ったのはヴィクターさん。
万一を考えて各自携帯食料と水はウエストポーチに持っているけれど、昼食や補給用の水は彼とダンが分けて背負ってくれていた。ギャビーさんに預けるのはあまりに怖いし、私やアベルに持たせるのは気が引けたのだろう。
「お嬢、やる気出し過ぎて後半バテんなよ。」
「そうね、気を付けるわ。」
と言いながら、気合を入れ直すようにぐっと拳を作ってしまった。
ダンが片眉を吊り上げて無言の圧力をかけてくるので、私は意識して肩の力を抜く。
山登り、それも道なき道を行くものだから、長い髪はメリルが低い位置で縛ってまとめてくれた。草木にひっかけたらいけないものね。
頭には胡桃色の生地に黒いリボンを巻いたチロリアンハットをかぶって、前身頃にフリルのついたハビットシャツにベージュ色のジャケットを着ている。
真面目な捜索隊なのでもっとカッチリした色で、フリルもないシャツで良いのではと言ってみたけれど、「久し振りに来たのだから任せてほしい」と侍女の皆に言われてしまったのよね…。メリルも賛成らしくて一対五だった。
「シャロン様、ここは右でしょうか?左は下りになりますが…」
「はい、草むらを突っ切ります。」
「…承知致しました。」
「よくこんなトコ通ったな。一応お嬢様と王子だろ?」
「あの時は蝶が飛んでいたの。私が飛び込むものだから、ウィルは焦っていたわ。」
腰の帯剣ベルトにお父様達から贈って頂いた剣と鞘をつけ、手指を守るための革手袋も忘れていない。
足下はグレーのタータンチェック柄ズボンを履いて――私が去年崖から落ちた事を踏まえて、丈夫かつ伸縮性の良い生地でオーダーメイドしておいたらしい――膝下までの黒いブーツ。これで安心して草むらを突っ切れるというもの。
ただ、ヴィクターさんが先陣を切ってギャビーさんが豪快に続き、ダンが通った後にアベルが割り込んで先に通ったものだから、私が進む時にはすっかり道ができていた。
…ちょっと過保護ではないかしら。
「歩いた距離で地図と大体照合はしてしますが…どこを見ても似たような木々で、正直迷ってしまいそうですね。この辺りに覚えはありますか?」
「ボクはあっちだと思う。」
「そうですね、確かに向こうです。」
「……シャロン様。正直におっしゃって頂きたいのですが、気を遣っていませんか?」
「それが本当にあっちなんです……岩が三つ並んでいますよね。ウィルが、『うちの庭の池に似た形の石がある』と。」
「……、ありますね、確かに。」
男性陣も乗馬の時に似たジャケットやベスト、ブーツといった格好だけれど、ギャビーさんはベストを着ないで擦り切れた薄手のコートを前開きで着ている。
昨日のゆったりしたセーターだとあちこち引っ掛けるでしょうから、あれよりは良いものの…防御力的な意味で、大丈夫なのかしらと心配にはなった。
ヴィクターさんはもちろん、アベルもしれっと帯剣している。外目から柄の造形がわからないよう布を巻いて、鞘もほんの一回り大きな袋に入れていた。そこも魔法でごまかせるだろうけど、常人の魔力量を考えると、細工で事足りるならそれが一番だものね。茶髪の上からは昨日と同じキャスケットをかぶっていた。
ダンは寒くないのかジャケット無しで、腰のベルトは左右にガントレットが一つずつ収納されたケースがついている。
「この崖は低いとはいえ…当時のお二人では、登るには無理があると思いますが。」
「まぁ!すっかり忘れていましたが、思い出しました。この崖、肩車をしたら上へ行けないかと考えて、ふふ。言ってみただけなのに、ウィルにすごい勢いで拒否されてしまって。少し面白かっ…」
「………。」
「こ…ここは左です、ヴィクターさん。合っていればその先に、ヤマボウシの木々があるはずです。」
先日もちょっぴりウィルをからかってしまって、「あまり振り回すな」なんてアベルに注意されたところだ。
じとりとこちらを見る視線に気付かないフリをしながら、私はにこやかに皆を促した。三月では実を楽しむ事はできないけれど、ウィルが未知の物体を見るような目をしつつパクンと食べた事は覚えている。
「四年ちょっと前とはいえ、我ながら記憶があるものですね。」
「助かります。貴女様がいらっしゃらなければ、見つけ出すまでどれほどかかるか…」
「まだ入り口を見つけたわけではありませんから、感謝して頂くには早いですよ。」
「ねぇ、倒木ってあれかな、シャロン?壊れてるけど。」
「はい!よかった、まだあって……」
「…これ、岩に潰された木っていう方が正しくね?」
当時、倒木の傍で休憩した私達はリスを見つけてしばし駆け回った。大回りして結局ここへ戻ってきて、再び上を目指したのだ。
今回はもちろんさっさと上を目指す。
ここまでくると、ギャビーさんの口数が減った気がした。さすがに疲れてきたのだろう。私も鍛えていなければとっくに座り込んでいたはずだ。
「ここが……シャロン様とウィルフレッド様が言っていた、泉ですね。」
必要な箇所だけ見えるよう折りたたんだ地図を見て、ヴィクターさんが言う。
日は高く昇り、頂点を少し過ぎていた。
私が疑問を押し隠して「はい」と答えると、ダンが背負っていた荷物を下ろす。ギャビーさんも「つかれたー!」と伸びをして泉のすぐ傍に寝転んだ。
「順調です。昼食にしましょう。」
「えぇ、そうですね。」
「さすがにハラ減ったな。おいギャビー、そこ絶対に落ちるなよ。」
「落ちないとも。ボクは泳ぐのはそんなに好きじゃないからね。」
「………。」
アベルも帽子を脱いで、喋らないまでも一つ息を吐いたようだった。まだ見慣れない茶色の髪を風が揺らしている。
私は泉を見つめていた。
既視感――それは当たり前のこと。
私は以前、バーナビーだった頃のウィルとここへ来たのだから。
『――さん、ここはどこなのですか?』
つきりと頭が痛んで、皆に気付かれないようそっとこめかみに指先をあてる。
一瞬、何か…誰かを見た記憶が…
『カンデラって名前の山だよ。』
プツ、と。
前世で見た「テレビ」の接続が途絶えるように。
僅かに浮かんだ記憶が、わからなくなる。誰かの声を聞いた気もするのに。
瞬いて、首を傾げた。
こめかみにあてた指は、頬に手のひらをあてるためのように見せかけて。
何が頭をよぎったのか思い出せない……たぶん気のせいか、似たような夢でも見たのね。
私がこの泉に来たのは一度きりで、そこにはウィルと私の二人だけだったのだから。




