238.前途多難
ようやく家庭教師からの課題を終え、クリス・アーチャーは椅子に座ったまま大きく伸びをした。
父譲りの銀髪は肩につかない長さでふわりと揺れ、もうじき六歳を迎えるとはいえ、銀の瞳には未だ幼い輝きが残る。一人の青年が静かに入室すると、クリスは嬉しそうに笑いかけた。
「ちゃんと終わったよ、ダン!」
「お~、よく頑張ったじゃねぇか。」
使用人らしくピシリと背筋を伸ばしていた青年は、部屋の扉を閉めるや否や姿勢を崩してニヤリと口元を歪める。
灰色の短髪に吊り上がった眉、迫力のある三白眼と百八十センチ近い身長。
見るからに悪そうな笑顔も相まって不良感満載の彼は、ダン・ラドフォード。クリスの姉であるシャロンの護衛も務める使用人の一人だが、クリスにとっては年の離れた兄のようなものだ。
「お客様はどんな人たちだったの?ぼく、夕食の時にごあいさつするんだ。」
「お嬢が言ってたろ、例の画家だって。」
「でもお部屋は三つでしょ?」
「騎士が一人来てたのと、画家の付き人ってのがいた。騎士はあれだよ、第一王子が来る時に門のトコで待ってる緑髪の奴だ。」
「ヴィクターさん!」
クリスが両手をぱちんと合わせて言うと、ダンが「それだ」とばかり頷いて指をさす。
部屋の隅でやり取りを見ていたクリスの専属侍女、亜麻色のお団子髪をしたチェルシーがおろおろと視線を彷徨わせたが、「クリス様を指さしてはいけません」と口を挟む事はできなかった。
「付き人さんは、男の人?」
「あ?あぁ。男っつっても、お嬢と同い年ぐらいじゃねぇか。喋れねぇって話だ。」
「同い年くらい…」
キュッと眉根を寄せ、クリスは深刻な顔で繰り返す。
その反応に、ダンはぱちりと瞬いてからクリスの柔らかい髪をくしゃくしゃに混ぜた。
「同い年の男なんざ、学園に行きゃわんさかいるだろ。」
「学園はバーナビ…ウィルでんかと、アベルでんかがけんせいしてくれるもん。その付き人さん……姉上は優しいから、うっかりオトコゴコロをくすぐるかのうせいがあるよ。」
「おい。コイツに何読ませてんだ」
「わ私ですか!?」
まさか自分に話が飛ぶとは思わず、チェルシーは一気に混乱した脳でアワアワと記憶を辿る。
教科書に偉人の自叙伝、お気に入りの冒険譚にそんな恋愛要素があっただろうか?
「母上が言ってた。すきになっちゃう人はいっぱいいるでしょうねって。」
「…それ、お前の反応面白がってたんじゃ」
「ぼくはね、ダン!義兄上はアベルでんかだと思ってたんだよ。だって、かっこよくてつよくて、皆を守ってくれる王子様で……姉上にはちがうって言われちゃったけど、でも、だからっていまさら……そのへんの人に姉上はやれません!」
「燃えてんなぁ…」
まだ画家の付き人を見てすらいないというのに、クリスは小さな拳を握り締めている。
乱した髪を適当に直してやりながら、ダンはからりと笑った。
「じゃ、お前が牽制しときゃいいじゃねぇか。」
「……ぼくが?」
「晩飯ん時に会うんだし、怪しいと思ったら下手な気は起こすなって言っとけよ。坊だってお嬢の弟で次期公爵サマなんだから、相手がよほど馬鹿じゃなきゃ、言われて無視はしないだろ。」
「そっか…ぼくが……。うん、ありがとう、ダン!」
銀色の瞳をきらきらさせ、クリスはもう半刻もないその時に向けて決意を固める。
ダンは付き人の顔を思い出してみたが、イマイチぱっとしない、どこにでもいそうな顔だ。売れている画家とはいえ、庶民の付き人なら問題ないのだろうが姿勢も悪い。
――あの王子の偽名と同じ名前で、第一王子の護衛がわざわざ来てるってのが微妙にキナ臭ぇが……全ッ然顔がちげーもんな。ま、お嬢が何も言わねぇうちはほっといていいだろ。坊も好きにすりゃいいし。
今更シャロンがあの付き人のような男に入れ込むとは思えないが、相手側がシャロンを好きになるかもと言うクリスを全否定する必要もない。
まぁ頑張れ、と適当な応援をして、ダンは仕事に戻っていった。
「アベル様」
ギャビーの付き人アンソニーの部屋で、護衛騎士ヴィクター・ヘイウッドは声をかける。
机の前に置かれた椅子に座っている少年は、少し癖のある黒髪に金色の瞳をしていた。
完璧と称された父親の美貌を継いだ目鼻立ちは整い、長い脚を優雅に組んでいる。ヴィクターが呼んだ通り、そこにいるのはツイーディア王国第二王子、アベル・クラーク・レヴァインその人だった。
「じきに夕食との事です。」
「君がウェイバリーを連れ出す頃には僕も行く。ノックはしなくていい、足音でわかる。」
「…は。」
緊張した面持ちで了承しながら、ヴィクターの瞳はちらりと室内を探る。
アベルの顔立ちを先程まで変えていた者が同行しているはずだが、今ここにはいないのか、あるいは家具や収納に隠れているのか、その姿は見えなかった。
まさか己の姿を魔法で隠すような愚行はしていないだろう。
顔立ちを変えて見せるには非常に高度な光と闇の魔法の併用が必須であり、長時間ともなれば魔力の消耗も激しいのだから。
――ウェイバリーの口の堅さを見るためとはいえ、本当に無茶をなさる。
確かに、試す舞台としてアーチャー公爵家は最適な相手だった。
シャロンはギャビーと以前から知り合いであり、口を滑らせやすい対象と言える。しかし万一話してしまったとしても、彼女はきちんと口を噤むだろう。
ギャビーは、シャロンがアベルの偽名を知っている事を知らない。
付き人のアンソニーがアベルだと隠せるか見る事で、引いては口の堅さ、サディアスの魔力暴走の事を黙っていられるだけの頭があるか確認しようというのだ。
まさか王家との約束を破りはしないだろうと簡単に信じるには、ギャビーは普段の言動が奔放過ぎた。
もちろん、今回言わなかったとしても監視はつく。
ウィルフレッドが学園へ行く間、ヴィクターがその役目に就く事になっていた。
事情を知っていて王子達の信頼も篤く、加えて騎士団に入る前は一年ほど一人旅をした経験があるため、女神像を求めてフラつくだろうギャビーにもついていける。
――旅をしたせいでセシリアの同期になったと思ってたが…役に立つ時も来たな。いや、あの画家の面倒をこれからも見るとなると、結局は前途多難でしかないか。
「ヘイウッド」
「はい。」
アベルに呼ばれ、ヴィクターは気を引き締める。
騎士団長ともよく通じているこの王子は、有能さは素晴らしいが底が知れない。今回連れているのは恐らく諜報に長けた三番隊の騎士か、あるいは噂に聞く私兵なのだろう。
「今夜の内に一度彼女と打ち合わせを。此度の目的については、公爵から聞いてある程度記憶を辿ってくれているはずだ。」
「承知致しました。ウェイバリー殿も同席という認識でよろしいですか?」
「あぁ。彼の記憶力は確かだ。見た物を再現できる手腕といい、地図をよく見せておくのが僕達のためでもある。」
アベルとヴィクターがついていてまさか遭難はしないだろうが、ギャビーが勝手に走り出したらその限りではない。シャロンも色々と事件に遭いやすい令嬢である。
最悪、地図すら失う事態になってもギャビーに描かせればよいという事だ。
どうか何も起きませんようにと祈りながら、ヴィクターは承知の言葉と共に頭を下げた。
「それと浴室の使用順だが、僕が最後でいい。」
「はっ?」
予想外もしていなかった言葉に反射的に聞き返す。アベルは平然と、さも当然のように言葉を続けた。
「付き人だからね。君とウェイバリーのどちらが先かは好きに決めなよ。」
「ご冗談を。殿下に残り湯をお使い頂くわけには参りません。」
金色の瞳がヴィクターを見て、数秒、相手が譲らないかと互いに探る。
アベルは音のないため息を吐いた。
「売れているとはいえ庶民の画家、その付き人、君は第一王子の護衛騎士だ。わかりきった順番だと思うけどね。護衛対象としてウェイバリーを優先したいなら、それもわかるけど。」
「そこの順番こそどうでもいい事です。殿下、リビーが知ったら俺はただで済みませんよ。」
「知るわけないでしょ、いないんだから。別に言わないし。」
「考え直しましょう、畏れ多い事です。」
屋敷の使用人全員がアベルの正体を知っているわけではない。
態度に出てしまう者がいれば意味がないからだ。そして庶民の付き人が、王子の護衛騎士より優先というのは変な話だ。
ヴィクターもそれはわかっている。アベルの眉が不服そうに歪んだ事も気付いているが、残り湯はさすがに度の過ぎた不敬だった。
――終わる度に湯を変えて清掃してもらうか?いや、俺とウェイバリーの分まで公爵家に手間をかける必要はないし、何より水を引いて沸かす間かなり殿下を待たせてしまう。それとも《温度変化》持ちか、強力な火の魔法を使える使用人がいれば時間短縮は……付き人の時だけ湯を変えると言うのも、主旨に反しているし……ぐっ……!
「……確認して参ります。閣下が既に、何か指示をされているかもしれません。」
「もう時間だ、ウェイバリーに声をかけてきなよ。」
「…は。」
ヴィクターは渋々といった顔で退室した。
ちょうど使用人が三人を呼びにやってきたようだったので、そのまま廊下で待つようお願いし、二つ隣の部屋にいるギャビーを連れ出す。
足音でわかるという言葉通り、ノックをせずとも《付き人のアンソニー》が扉を開けて姿を現した。やや猫背で目立たない顔、ダンマリと寡黙そうな表情。どう見ても、売れっ子画家や王子の護衛騎士より優先されそうな風体ではない。
ヴィクターは佇まいすら変えるアベルの演技力を恨んだ。それとも、これも《見せかけ》なのか。そこはもうアベルと魔法を使った本人にしかわからない。
――せめて、絵の勉強でついてきた貴族子息という事にでもしておけば…。
「護衛騎士くん、部屋にあったナントカって店のクッキー食べた?あれすごい美味しいね!」
「…それは何よりで……。」
心の中で「あんたは呑気でいいよな」とぼやきながら、ヴィクターは真面目な顔で返した。
本当はギャビーを見張るならあの高級家具だらけの室内で睨みつけていたいし、そうでなければアベルの部屋の前に立って護衛を務めるべきなのだ。
ヴィクターの心労は尽きない。
「つい全部食べちゃったよ。部屋に戻ったら元通りになってたりしないかなぁ。」
「ふふっ、お気に召したのならよかったです。」
穏やかな声にそちらを見ると、階段を降りた先の廊下でシャロンが微笑んでいる。使用人が軽く礼をして案内を続け、彼女も三人に加わって歩き始めた。
「湯浴みに行かれる間にでも、また補充をさせますね。」
「本当かい?それは嬉しいなぁ!」
「…湯浴みといえば、シャロン様――」
言いかけたヴィクターの踵にアベルの爪先がコンと当たった。
誰か見ていたとしても、たまたまぶつかったようにしか見えなかっただろう。しかしその意図は明らかに口止めだ。「彼女に聞く事ではない」と。
ヴィクターはアベルに目を向けないよう気を付け、苦い顔で口を閉じる。
一拍、言葉を待ったシャロンは僅かに首を傾げて促したが、続かない事を察するとにこりとして両手の指先を合わせた。
「湯浴みでしたら、浴室は私や弟が使うものとは別でご用意があります。ただ、お待たせしてしまうのも何ですので、もしよろしければどなたか三階をお使いください。」
「大きい家は色んな部屋が沢山あるよねぇ。ボクにはよくわからないけど。」
「といっても、流石に他の浴室よりは小さいのですが……お一人で使われる分には問題ないかと。えぇと…ヴィクターさんは、ギャビーさんの護衛ですものね。」
「はい。離れるわけにいきませんので、彼が使うとよいでしょう。」
アベルをちらりと目で示してヴィクターがしっかりと頷く。
シャロンは「そうですね」と微笑み返した。
「お声が出ないのですから猶更、ゆっくりお使い頂くのが良いですね。屋敷の者にも、片付けは急がないよう申し伝えておきます。」
「お気遣いありがとうございます、シャロン様。」
「……。」
会話は決定権のあるシャロンとヴィクターの間でされている。
結論が出たところで、アベルはただ了解の証に頷きとも頭を下げたともとれる動きをした。公爵家の浴室を一人で使う事に恐縮し、礼がぎこちなくなってしまったようにも見える。
「では、どうぞ中へお入りください。弟を紹介します」
開かれた両扉を前に、シャロンはそう言って微笑んだ。




