235.知らないままでいて
「関連がわからないな。」
アベルがぽつりと言った。
私は深い眠りに落ちて、アベルは気絶してしまったこと。私が眠る前に祈った内容。強いて言うならアベルに関連した祈りではあったけれど、断じて彼の気絶を願ったりはしていない。
「では、原因は別にあるのかしら。」
「…ネックレス自体は、店の主が触っても、お前に渡す前に俺が触れても、何も起きていなかった。異常はあの時だけだ。」
「無事を祈ったのに……。」
「そもそも、お前はなぜそこで眠ったと思う?」
「私?」
思わず聞き返してしまった。
でも言われてみれば確かに、あれだけ心配でハラハラして祈ったのに、そこでぱったりと眠るものだろうか。
「よほど眠かったのなら、関係ないんだろうが…。」
「……いいえ。もう寝ようと決めた時ではあったけれど、祈る途中で寝てしまうほどではなかったような…」
考えてもわからない。
女神様にお祈りする事は、毎日ではないけれど、これまで何度もしてきた事だ。本当にそこに原因があるのなら、私の魔力やスキルが関わっている可能性があるけれど。
「考えるより、今ちょっと祈ってみましょうか?」
なかなか良い提案だと思ったけど、アベルは眉間にぐっと力を込めた。
どうしたの、という気持ちをこめて軽く首を傾げてみる。
「それでまたお前が起きなかったら……ややこしい事になる。」
「では大人しく布団をかぶってやってみましょう。結局は自然に起きたのだから、もし私が寝てしまったら放置して大丈夫よ。」
「しかし…」
「心配だったら、ふふ。刺してでも起こして?」
「ふざけるな」
くすりと笑って言った私を睨みつけて、アベルは怖い顔で言った。
低まった声に一瞬驚く。
…立場が変わったらそんなにすぐに怒るような事、なんじゃない。まったく。
私は呆れた気持ちになりながら、少しだけ眉を下げて微笑んだ。額縁に手をついてベッドの上で膝立ちになり、反対の手をそっと伸ばす。何だとでも言いたげに、アベルの顰めた眉がぴくりと動いた。
「そう言うのなら二度と、私に貴方を刺せだなんて言わないで。」
自分が思うよりも落ち着いた声だった。
指先でほんの少しだけ、彼の黒髪を撫でる。頭の上のほうは不敬でしょうから、耳の後ろあたりだけ。大事に思っている事が伝わればそれでいい。
アベルはどうしてか、驚いた顔で数秒固まった。自分が言った事を今思い出したのかしら。気付いていなかった?
「ね?」
わかるでしょうと頭を傾けて、私は微笑んだまま手を戻した。
ぱち、と瞬いたアベルが、困惑の表情で瞳をちらりと彷徨わせる。
「…悪かった。あの時は少し、動転していた。」
「そうだろうとは思ったけれど、言われた時は驚いたのよ。」
言いながらベッドの上を移動して、サイドテーブルへと近付いた。一番上の引き出しからネックレスを取り出し、よいしょと布団の中に潜り込む。
見ると、アベルは難しい顔で考え込んでいた。
不機嫌ではないみたいだけど、今からやる実験結果を予想しているのかしら。ぽふ、と枕に頭を乗せると、なんだか笑いがこみ上げてくる。
「ふふ。第二王子殿下の前で堂々と寝転ぶなんて、なんだか可笑しいわね。」
「……やるなら早くやれ。」
「はい、仰せのままに。」
もし本当に眠って朝を迎えたらメリルが私の厚着っぷりに驚くでしょうけれど、ちょっと寒かった、で通しましょう。
ネックレスを手のひらに包んで両手を組み、目を閉じた。
――月の女神様、太陽の女神様。星々となって見守ってくださる、歴代王家の皆様……どうか今を生きる星が無事でありますように。
「………、何も起きないわ?」
ぱっちりと目を開いて呟いた。
一応ネックレスに魔力を流すよう意識したものの、眠気はこないし意識はハッキリしているし、なんにも変わらない。よいしょと上半身を起こすと、アベルが紅茶を飲み干すところだった。帰るのかしら。ネックレスを引き出しに戻して、もそもそと額縁の傍へ移動する。
「再現性は無いか…」
カップをソーサーに戻して、アベルは外を見ながら言った。
試したのは私なのだからこちらを見てほしい…と少し思うけれど、幼い子供が言う事のような気がして、口には出さない。
「とりあえず、祈る時は気を付けた方がいい。」
「…わかったわ。」
祈りを込めて魔力を流すとスキルが発動する事は、以前の実験でわかっているものね。私は身体強化の時のように、無意識に魔力を流してしまう事があるのだから、祈ること自体を警戒するべきだ。
アベルの言う事は正しい。
……正しいのはわかったし不満も無いから、なぜずっと外を見ているのか聞きたい。
「そういえばね?お母様に聞いたのだけど、私は王妃教育を受けているらしいわ。」
「…今更何を言ってる。」
「知っていたの?」
「むしろ、お前が学ばなくてどうするんだ。」
アベルの声には呆れが混ざっていた。私は公爵令嬢だものね。
いつかカレンに教える日がくるかしらと想像しながら、そうね、と呟く。
「私、頑張って勉強するわ。将来のためにも。」
「…あぁ。」
アベルは遠い地平線に目をやっている。いつもと違う景色なんて無いのに。
貴方の瞳がここよりずっと遠くを見つめる時、私は不安になる事が多かった。
どこかへ消えてしまいそうで、いなくなってしまいそうで。
けれど今は……今は、何を考えているのだろう。
少し沈黙が流れてから、絨毯の上にあるアベルの手に、自分の手を重ねた。ぴく、と指が動いて、ようやく瞳がこちらに向く。部屋に浮かぶ灯火の光が、金色の中でゆらりと揺れた。
「…何だ。」
「外、なにか見えるの?」
「別に何も。」
「そう?」
しれっと手を引き抜こうとなさるので、ぎゅ、と握って止める。
二秒ほど間を置いて、再度止める事になる。アベルが少し困ったように眉を顰め、目をそらした。
「……貴方、何か誤魔化し」
「そういえば聞きたい事があったんだけど、」
絶対に誤魔化してる人の遮り方だわ、それは!
「待っ――」
「アロイスという男を知らないかな。」
えっ。
「――……ぁ…」
一瞬、頭の中が真っ白になってしまった。
驚いた顔をしているだろう私を、アベルが予想外だったという目で見て、険しい表情になる。
「……知ってるな?」
唇を閉ざしてそろりと離そうした私の手を、今度はアベルが握った。
すぐに話さない事が気に障ったのか、冷たく目を細めて私を見下ろしている。
アロイス。
もし私が思い浮かべた人物がそうなら、知っていると言うわけにはいかない。だってゲームの登場人物として知っているだけで、今世では会った事も見た事も聞いた事だってないのだから。
彼は学園編の途中で主人公であるカレンと出会い、未来編でも時折出てきて助言をくれるお助けキャラだ。
軽いノリとその神出鬼没さ、長い黒髪に目の窺えない猫面をしているという外見の怪しさから、いずれ裏切るのではとほとんどのプレイヤーに警戒されていた。
でも彼の忠告を無視すると基本的にバッドエンドなので、最終的には「アロイス?あぁ、良い奴だったよ…」「結局どこの誰だったんだ」「顔が出てないサブキャラ怪しくない?」などという感想コメントで溢れていた。正体予想のスレッドも立っていたわね…読んでおけばよかったかしら。
ただ…この世界に生まれて知識を得た私だから、わかる事がある。
アロイスの武器は《刀》。
それは死者に通じるという神秘の国、《君影国》で主に使われる武器であって、他国出身者の使い手はいないわけじゃないけれど、少ない。
あと、彼は後ろ髪の一部でくるりとお団子を作っているのだけれど、そこに挿した銀色の簪はスズランの花の飾りがついていて――この世界では、スズランは《君影草》と呼ばれる。
恐らくアロイスは君影国の出身者だ。
それを私は知っている。知っているけれど、とても言えない!!アベルは君影国のお姫様から何か聞いたのかしら、その可能性を考えて回答を用意しておくべきだった?いえ、まさか私に聞いてくると思わないじゃない!
アロイスは探されている?どうして?
「シャロン。」
「っ……知らない…」
ぐい、と私の手を引くアベルに見据えられたまま、困り果てて弱く首を横に振った。もう意味がないと知りながら。
彼は余計に眉根を寄せる。
「なぜ知らないのかな。」
「…だって、し、知らないものは…わからないもの……」
私は前世の記憶を持っていて、ここは物語の世界。
貴方はウィルが死んだ未来で皇帝になったの。
そしてたくさん戦をした後でカレンと誰かに倒される事を望んで、そうして一人いなくなったの。正体を知らずにクリスを死なせてしまったの。苦しまないでほしいからってカレンを殺して、ウィルを庇ってサディアスの槍を受けて、貴方は《私》の目の前で、微笑んで死んでいったの。
アロイスはそんな悲しい物語の、脇役の一人。
言えるわけがない。
知っているはずがないの、今の私は。
「……お願い、アベル」
じわりと涙が浮かんだ。
アベルがぎょっとして目を見開く。
「知らないのよ……。」
チェスターは可能性の未来を聞いても、深く聞かないでいてくれるけれど。
貴方はきっと、考えてしまう。
その頭脳が真実に辿り着いてしまうかもしれない僅かな可能性を私は、恐れている。
皇帝になんてなりたくなかった貴方。
お願いだからどうか、その可能性があった事を知らないままでいて。
「……わかったから泣くな。なぜ…何で、泣くんだ。予想できるか…」
アベルがしかめっ面で反対の手を伸ばし、指の背で私の頬を拭った。いつの間に涙が零れていたのだろう。困らせてしまうから、堪えていたつもりだったのに。
申し訳なくてますます眉が下がる。
「ごめんなさい…」
「待て、わかったからそれは、その顔はやめろ。」
困惑した声で言って、アベルは何か思い至ったように私の手を両手で包んだ。どうしてだろうと彼を見上げた私と、目が合う。
「…別に怒ってはいない。安心していい。」
優しく握られた手が温かかった。
その温もりに、以前この場所で言ったことを思い出す。
『貴方がこうして傍にいてくれると嬉しいし、手を繋いだらすごく安心するわ。』
助けになりたいと伝えておきながら私は、貴方に言えない事があるのに。
嘘つきと軽蔑されても仕方ないのに。
なのに、貴方は。
「っ…ありが、とう……アベル…」
「礼を言いながらさらに泣くな。何でそうなるんだ。」
「あ、安心したら、余計に…」
「は?意味が分からない――違う、怒ってるわけじゃない。頼む、泣きやめ。どうしたらいい?」
できれば私も泣き止みたい。
こんなに泣き虫ではないはずなのに、貴方の事を思うとどうしても涙が出てしまう。くすんと鼻をすすった。
「図々しいお願いなのだけど…手を、貸してくれる?」
拒めないだろうことをわかっていて、私は自由な方の手でアベルの右手をそっと引き寄せる。されるがままの温かい手のひらに、頬をすり寄せた。
「我儘でごめんなさい。ひどい顔だろうから、どうか見ないで…。」
優しい貴方の力になりたいと、その気持ちは本当なのに。
どうしたらいいだろう。頭がうまく回らない。
「一つ、確認したい。」
俯きがちになった私にアベルが声をかける。見ないでと言ったせいか、少し別の方を向いてくれているようだった。
私は顔を上げずに小さく頷く。頬に手をあてたままだから、それだけで伝わるはずだ。
「黙っていろと脅されているわけではないな?」
「誰にも、脅されてないわ。」
「…わかった。」
オークス公爵夫妻の暗殺事件についても、私は《先読み》のスキル持ちに聞いたと言って、それが誰かという答えのない回答を拒んだ。
胸が苦しくなる。
何か、何かせめて、言える事はないだろうか。アロイスを探している理由によっては、黙っている場合ではないのかもしれない。
どこまでなら言っても大丈夫?どこまでなら貴方は、辿り着かずにいてくれる?
「……どうして、その人を探しているの?」
「お前だから言うが、君影の姫が探している。」
「…お姫様が…」
「兄だそうだ。」
思わず目を見開く。
お姫様の兄という事は、アロイスは君影国の王子にあたる人?そんな方がどうしてツイーディア王国をうろついているの。
「俺は彼女に恩がある。手を貸すと約束した」
「…そう、なのね。」
「既に各地の詰所に貼り紙を出している。…だから、お前を脅してまで聞き出す気はない。」
ある程度義理は果たしたと、そういう事なのだろう。
私が「アベルに脅された」なんて認識する方が、様々な意味でリスクが高い。けれど私だって、できるなら貴方に不信感を持たれたくない。
一生懸命考えて、口を開いた。
「私…知らないの。知らない、けれど……想像するだけなら、できるかもしれないわ。」




