234.思い出はきちんと
「カンデラ山を覚えているか?」
部屋に戻って一息ついたところで、アベルが唐突に聞いてきた。
一瞬何の話かと思って瞬いたけれど、当然知っている。アーチャー公爵領の中でも、私にとって馴染み深い山だ。
だって、領地でのお屋敷のすぐ裏手にあるんだもの。
「えぇ、もちろん。」
「ウィルと見た女神像の事は?」
「…ウィル……?」
思い返そうとして無意識に眉が下がる。視線をちらりと横へ流して、何の事か思い当たった。
過去に一度だけ、ウィルは領地に来た事があるのだ。
私達はウィルが連れた使用人の方――今思えば、恐らく変装した騎士――をも巻き込んで、広い庭で隠れんぼをした。一緒に隠れ場所を探すうちに庭を出てしまい、山を彷徨って迷子になり…
あぁ、そうだわ。
暗い洞窟で私はウィルの手を引いて、戻ろうと言われたのに「大丈夫よ、きっと。」なんて言って。
……考えてみれば結構な大事件を起こしたのね、私。お忍びの王子殿下を遭難させたのだわ。
昔の自分に呆れながら、ため息を最小限に留めて片頬に手をあてた。アベルはどこまで知ったのだろう。
葉っぱが一枚ついた枝と葉っぱの芽が三つついた枝、どちらがより「良い感じの枝」か語り合った話、聞いてしまったかしら。
「覚えてないか?」
「えぇと…少し待ってね。カンデラ山で迷子になった時の話よね。」
「あぁ。」
女神像について聞かれたのだったと、私は過去の自分への複雑な思いを胸にしまった。しっかり記憶を辿ってみましょう。正式には見つかっていないのだから、《外》ではないはず。
集中できるように目を伏せて、暗闇を進んだ後の事を思い返す。
「洞窟の奥……確かに、女性の像があったわ。マントを…つけていたかしら…。」
聞かれるまですっかり忘れていた。
よく見ようと足を踏み出したら、私は下に空いていた穴を滑り落ちてしまったのだ。モグラが堀り進めたにしてはちょっと大きな穴を。
暗闇の中、白く浮かび上がっていたその石像は…
「右手に細長い物を…恐らくは、剣を持っていた、ような。」
先端は下向きではあったけれど、石像が手に持つ長い物と言えば剣だし、槍とは長さが違うから合っているはずだ。
そして、剣を持つ女性の像といえば――月の女神様。
「……石像は、一体だけだったのか?」
顎に軽く手をあてるようにして、アベルがちらりと私を見る。
ツイーディア王国における《女神像》とは、月の女神様と太陽の女神様が一対になっているものを指す。一人でおられる事は無い。
私は困り顔を自覚しながら「そうね」と呟いた。記憶に何かが引っかかっている。
「私、よく見ようとしたの。月の光はちょうど石像にあたっていたけれど、影になっている奥に、まだ何かあったような気がして…」
近付けばそれが見えるだろうと思って、私は石像のすぐそばまで歩くつもりだったのだ。実際には、数歩も行けなかったのだけれど。
太陽の女神様の像もあったかもしれないし、なかったかもしれない。
「必要なら、来週確認してみるわね。辿り着けるかわからないけれど…。」
「いや、無理に行かなくていい。その洞窟までの道は何か覚えているか?」
「泉を通ったり倒木を見た事は覚えているわ。それに、無理をするわけじゃないの。元から行く予定なのよ。」
「…何だと?」
予想外だったのだろう、アベルが瞬いた。
さっそく少しお役に立てるかしらと、私は嬉しくなりながら微笑みかける。
「去年行った時、入学までに必ずもう一度顔を見せると約束したの。本当なら今週から行く予定だったのだけど、事件のこともあって授業日程なんかをずらす必要があったから…。」
事情聴取にも時間を取られてしまったし、調整した結果向こうでの滞在予定がほぼ一週間分まるっと消える事になった。本当はゆっくりと滞在できるはずだったのに、楽しみにしてくれていた向こうの皆には申し訳ない。
そういえばなぜかお父様から、日程を再調整しないかとか、たまには街の宿に泊ま…流石にそれは安全面で…とか、もごもごと提案されたわね。これ以上予定から変更するのはちょっと、と断ってしまったけれど。
「貴方が探しているのなら、行く前に聞けてよかったわ。でも、どうしてあの像を?」
「ガブリエル・ウェイバリーの希望だ。」
「ギャビーさんが?そう…。」
久し振りに聞いた名前に思わず軽く目を見開いた。
各地の女神像を描いてきた彼が探しているなら納得と思いつつ、私は少しだけ困惑に眉を下げる。アベルは彼のファンではなかったはずだし、特段仲が良いとも聞いた事がない。何かあったのかしら。
「来週、俺とウェイバリーでそちらに行く予定になっている。」
「えっ?あ、貴方が直接来るの?」
驚いて聞き返した。
アベルが王都を出るというのは、城を抜け出すのとはわけが違う。確か、国王夫妻どちらかの許可は最低限必要なのではなかったかしら。
おまけに用件が山中で女神像を探すためだなんて、アベルではなく騎士の方が何名かつく方が自然だ。……ギャビーさんたら、今回は何があったのだろう。
「表向きはウェイバリーの付き人だ。屋敷の一部の人間は、公爵から俺だと聞いているだろうが……お前も、初めて見る他人だと思ってほしい。」
この人はこの人で、無茶を言うわね…。
眉が下がってしまいつつ、私はひとまず心を落ち着けようとカップを取った。
「だから、お父様が日程や泊まり先の変更を聞いてきたのね……。」
「ほぼ強制で許可を取ったからな。お前に変えてもらうしかないと思ったんだろう。」
すいと紅茶を口に含み、喉へと流す。
オークス公爵の件があったばかりだし、王子殿下が来るのなら、お父様としては一番安全な自分の屋敷を提供せざるをえないものね。
カップをソーサーに戻して、アベルを見上げた。変装とかするのかしら。
「ギャビーさんと私が知り合いなのは変わらないのだし、お父様が捜索を許可されたのだから、私も手伝うわね。」
「巻き込むつもりはなかったんだが…」
遠くを見るようにして、アベルはため息混じりに言った。来なくていいと言っても無駄だと、私の性格をわかっているのだろう。つい頬が緩む。
「巻き込まれたつもりはないわ。私がそうしたいからそうするの。」
「…わかった。ウィルも、入り口を見つけたのはお前だと言っていた。…頼りにしている。」
少しだけ困ったように眉を下げて、アベルが笑う。
頼りにしていると言われた事が嬉しくて、胸がじわりと温かくなった。同時にちょっと、自分の記憶に自信がなくなりそうだけれど。…がんばりましょう、私。
「最悪でも一週間以内には見つけないと、謹慎期間が終わる。」
ぱちりと瞬いた。
何でもない事のようにおっしゃったけれど、謹慎期間だと言ったのかしら、貴方は。
「…今……謹慎中なの?」
「あぁ。」
「どうしてまた…」
「城でボヤ騒ぎがあった事は知っているか?」
「えぇ、この屋敷からも煙が見えたもの。」
答えながら、今その話をする事と謹慎中である事を考えて、まさかと目を見開く。
「あれは俺の指示が原因だ。」
「そうだったの…?」
てっきり、アベルは事態の収拾に動いたのだと思っていた。
一体何があったのかしらと思いながら、彼の瞳をじっと見つめる。アベルはちらりと私を見て、ふいと目をそらした。
「先日、俺の幼馴染みについて話をしたな。」
「……えぇ、覚えているわ。」
これは関わりのある話なのか、話題を変えられたのかどちらだろう。ひとまず聞くことにしようと、私は意味もなく座り直した。
「あの後会う機会があって話したんだが、恐らくお前に誤解されているから解いておけと、そう言われた。」
「誤解?」
「俺と親密だと思われるとまずいらしい。《万が一にも骨肉の争いに巻き込まれたくない》…だそうだ。」
「……そう…。」
渋い顔にならないよう気をつけながらも、どう返したものか迷って眉が下がる。
カレンもアベルの鈍さには苦労していたけれど、幼馴染ともなればよく知っているのだろう。つい、顔もわからないご令嬢が、誤解を解いておくようアベルに説教しているところを思い浮かべた。
きっとアベルはその時も、よくわからないという顔をしていたのでしょうね…。
そんなに仲が良いならば、ゲームのシナリオで《貴女》はどこにいて、皇帝になってそしていなくなった彼を、どう思っていたのだろう。
「実際、誤解はしていたのか?」
アベルの声で意識を引き戻した。
いつの間にか伏し目がちになっていた瞳を彼に向けると、やっぱり、わからないという顔で小首を傾げている。ちょっと可愛らしい、なんて言ったらいけないかしら。
「そうね……侍女より先に寝室へ入るくらいだから、親しいのだろうとは思ったわ。」
「寝室?」
「その方の部屋に入って起こす事があると、言っていたでしょう?」
「あぁ…起こすと言っても、うたた寝の話だ。テーブルに突っ伏してる時がある。」
「……それは…ちょっぴり違う想像を、していたかもしれないわね。」
物事は正確に伝えてほしい。
ベッドで寝ているところを起こすのとはだいぶ違う話だ。
「令嬢が寝台で休んでいるところに、勝手に近付くような真似はしない。…この前は例外だ。」
アベルは苦い顔で付け足すと、紅茶をくいと飲み込む。
私があまりに起きないから心配してくれた結果、気絶してしまった時の事ね。そういえばアレについてはわかったのかと、彼は私に問いかけてくる。
アメジストのネックレス。
それに触った瞬間に、アベルは意識を落としてしまったのだそうで。可能なら原因が知りたいと言われていたのだ。
「あの日……まさに、お城から煙が上がった日だったわ。」
「そうだな。」
「貴方がいつもの時間に来ないからには、巻き込まれたか何かだと思って。だから私ちょっぴり…少し、結構その、心配になって。だいぶハラハラしてしまって…」
「…悪かった。」
アベルがバツの悪そうな顔で言う。
でもやっぱり、どうしてボヤ騒ぎになったのかは教えてくれないみたい。
「それで確か、手紙を読み返した後にここでお祈りをしたわ。」
「手紙?」
「前に一度くれたでしょう?」
「それは覚えているが、何でまだ持ってる。」
なぜそんな不思議そうな顔をしているのだろう。ネックレスをくれた時の二つ折りの封筒だって、思い出の一つとしてきちんととってあるのに。
「だって、お友達からの手紙だわ。」
「そういうものか。」
「えぇ、私にとっては。貴方は違うの?」
「お前の手紙はウィルが保管してる。」
私が出した時は、ウィルとアベル二人ともを宛名にしたのだ。この感じだともしかして、アベルだけに手紙を出したら、それは読んだ後に捨てられてしまうのかしら。
想像して少し悲しく思っていると、アベルは「気にするな」と言う。
「意外だっただけだ。ウィルの手紙ならまだしも、俺の手紙まで残ってると思わなかった。」
「…だめ、だった?」
「あれは問題ないが、今後もし見られるとまずい場合は、燃やすよう指示も書いておく。」
真剣な顔で何か言っている。
この人にとって手紙とは、極秘の情報共有である事が多いのかもしれない…。
「それで、何を祈った?」
「…貴方たちの無事を。どんな言葉で祈ったかは曖昧だけれど……」
私は視線を上げて、暗い夜空に浮かぶ星々を見つめた。
祈る相手は決まっている。
「女神様と、星々――歴代王家の皆様に。」




