233.覚えておく
こつこつ、と窓をノックする音がして、私は読んでいた本から顔を上げた。
ガラスの向こう、星空を背景にアベルがこちらを見下ろしている。闇に溶け込んでしまいそうな濃紺のコートを着込んだ彼は、私が窓を開けると静かに額縁へ降り立った。
「こんばんは、アベル。」
「あぁ。こんばんは」
声が少し疲れている。今日来るという連絡もなかったし、やはり色々と忙しいのだろう。
アベルが座って部屋に暖房用の小さな火を灯す間、私はサイドテーブルから小さなトレイを持ってきた。額縁に敷いたふわふわの絨毯の上に置いて、ポットから紅茶を注ぐ。
「結局報せられなくて悪かった。」
「気にしないで。何も負担はないもの。」
強いて言うなら、毎夜紅茶を二杯分お願いするものだから、メリルが「毎晩夜更かしですか…」と心配しているくらいだ。
先日と同じように置いておいたクッションは、アベルが当然のように背もたれに使ってくれている。それが少し、嬉しかった。
「こういう時はつくづく《使い魔》持ちが羨ましいな……ジークはカラスを飼い慣らしていたけど。」
「そうだったわね…元気かしら、二号さん。」
夜会のバルコニーで見たカラスの姿を思い浮かべながら、角砂糖を一つだけアベルのカップに入れた。くるりとティースプーンで混ぜ溶かし、ソーサーごと彼の方へ少し近付けておく。
私の分はミルク入りだ。アベルは「ありがとう」と言ってからカップに指をかけた。
「とりあえず…改めて、君の口からバサム山の一件を教えてほしい。騎士に報告しなかった事もあるだろう。」
「そうね、少し長くなってしまうけど…」
少なくともアベルのスキルで助けられた事は騎士の方には言っていない。
私は自分の視点からどんな戦いだったのかを語った。
途中、アベルに貰ったナイフを自分用とは分けて持っていたために、リビーさんを攻撃しようとした敵を止める事ができたという話も忘れずにする。
そして、恐ろしいスキルを持っていた少年の言動も。
戦いが終わったと思いきや最後に雪崩がきて――立ち尽くすしかできなかった事も。
「パーシヴァル・オークスのスキルは《螺旋》だ。」
アベルはそう言いながら、私にも見えるように片手を窓の外に出す。
軽く広げた手のひらの上で水が小さく渦を巻いた。
「わかると思うが、これは規模が大きく、回転のスピードが早いほどに魔力を消費する。」
いかにも簡単に例を見せてくれているけれど、私などはそもそも渦を作るコントロールができない。くるりと一度だけ巻いて水を飛ばすのと、ぐるぐる継続して回し続けるのではまったく話が違う。
アベルが軽く手を払うと、水は消えてしまった。
「公爵はスキルがあるから容易い。お前が見た通り、雪崩を打ち消してみせるくらいには。」
代わりに直線的な魔法の発動は苦手のようだけどね、とアベルが呟く。
一瞬で剣を抜いてみせた動きといい、やはりチェスターのお父様はとてもお強いのだわ。
「それでも、あの少年のスキルで手出しもできず、命を落としそうだったのだから……本当に恐ろしい事ね。」
少し眉を顰めて言う。
彼とその仲間を逃がしてしまった事、正体すらわからない事が懸念として残ってしまった。捜査状況はどうなのか気になるけれど、流石にそこまで教えてはもらえないかしら。
そう思いながらアベルを見上げると、険しい表情で私を見つめていた。
「俺は今回、見誤った。」
どうしたのと聞くより早く、彼が呟く。
「お前達に出番が回る事はまずないと思って送り出した。王都が襲われ、嫌な予感がしても…そちらに増援を出せとは言わなかった。……万に一つはお前を失う可能性があると、わかっていたのに。」
「…あんなスキルがあるなんて事前にわかりようがなかったし、王都を守る方が大事だったでしょう。当然の判断だと思うわ。」
多くの民がいるだけでなく、国王夫妻と二人の王子が揃っているのだ。魔獣が迫っている状況で、下手に戦力を削れない。
「私もチェスターも、言ってしまえば閣下達も。この王都一つとは代えられないのだから。」
「そうだな。しかしお前を失ったらウィルは……」
言葉を途切れさせて、アベルは目を細める。
私がいなくなればウィルがとても悲しい思いをすると、そういう事だろうか。この前お礼を言った時に眉を顰めたのも、礼を言う必要がないと言ったのも、自分が見誤ったせいで私が危険な目に遭っただなんて、考えていたから?
……そんなの、
「貴方が自分を責める事ではないわ。」
「…そうか。」
同意も否定もせずに、アベルは金色の瞳を私から外す。
私の意見を知るだけで同意はしない、そんな態度をこれまで何度見ただろう。
「アベル」
ベッドの上に膝立ちになって、私は彼の手に自分の手を重ねた。
目線の高さが近付いてアベルがこちらを見る。しっかりと目を合わせて、重ねた手を握った。
「私が望んだ事を、勝手に自分のせいにしないで。」
金色の瞳が丸くなる。
ぐっと目に力を入れて少し睨むようにしたせいか、あるいは言い方に驚いたのか。
あの山へ行ったのは、私が望み、沢山の人の協力があって実現した事だった。騎士を動かせる立場にあるからといって、アベル一人が責任を感じる必要はない。まして、言い出した私に。
「貴方、神様じゃないのよ。何もかもわかるわけないでしょう。」
「――…。」
呆然とこちらを見つめる瞳に、私の色が映り込んでいる。つい前のめりになってしまったみたい。つ、と目をそらされて、薄く開いた唇にきっと、次の瞬間には「とりあえず離れろ」なんて言われるのだろうと思って――
「あっ……」
アベルが何か言う前に、私はサッと青ざめて彼の手を離した。
とすんとベッドに座り込んで自分の両頬に手をあてる。何か覚えのある言葉だと思ったら!
――い、今の「神様じゃない」って……アベルの正規エンドで、カレンが言うはずの台詞だわ!?
やってしまった!!
気付くのが遅いわ、私!前世の記憶がうっかり思考に紛れて、台詞を奪ってしまったの?なんてこと、もしカレンがアベルのルートに入ったらどうしたらいいの。
いえ、絶対にウィルは殺させないし、戦争の未来は回避したいからあの台詞自体もう出てこないかもしれないけれど、あぁ!ごめんなさいカレン!
「…どうした。」
「あ、えぇと今のは…」
カレンの受け売りだと言うべき?
まだ彼女はその言葉を使ってないのに?
しどろもどろになってわたわたさせていた手を、アベルが掴んだ。泳いでいた目が自然と彼に吸い寄せられる。
「いい。お前の気が済むなら、これくらい。」
ちがっ、接触を控えようという話を破った事を気にしたわけではなくて…!
だ、第一ここには私達の事を勘違いする人なんていないから、元からそこは良いのでは、それより今は私が考えて言った事になっている言葉を、えぇと……。
心苦しさが募る私の手を捕えたまま、アベルは絨毯の上に手を下ろした。
「わからなければいけないと……思っていたかもしれない。…驕りだな、それは。」
独り言のように呟いて、アベルは目を伏せた。
少しは…重荷を減らせたのだろうか。さすがはカレンの台詞と思いながら、私は言葉を選んだ。
「…貴方はとても優秀で、色んな事ができるわ。力を持つ者として、王子として、求められる結果も果たしたい責任もあるのでしょう。もちろん、それは立派な事よ。」
両手で彼の手を包むようにすると、金色の瞳がこちらに向く。
心が伝わるように、柔らかく微笑んで言葉を続けた。
「けれどどうか、抱え過ぎる事のないように。貴方を支えたいと思う人が、力になると言ってくれる人が沢山いるのだから。私とウィルも、チェスター達やお父様、騎士の方々……それに、ふふ。帝国のジークハルト殿下も?」
「…お前の、ジークに対する警戒の無さは何なんだ。」
「流れる噂よりは、悪い人ではなかったでしょう?ちょっと自由だけれど――あぁ、そうだわ!」
庭の花がようやくしっかり咲いたのだった。
今見てもらう方が良いだろうと、私は再び腰を上げる。
「ね、アベル。少しだけ庭に降りてもいいかしら。」
「……咲いたのか?」
「えぇ、貴方と一緒に見たいの。」
「わかった。」
了承がとれて、いそいそとティーセットをサイドテーブルに避難させた。私がうっかり蹴ってしまうといけない。
靴を取ってくるわねと言うつもりで振り返ると、星空を背景に立ち上がったアベルがこちらへ手を差し出した。深く考えずに手を乗せ、促されるまま立ち上がる。そのまま軽く手を引かれて、瞬いた。
「?どうした。早く上がれ」
「え?えぇ…」
不思議そうに言われてしまい、私は額縁へ上がる。まだ靴を履いていないのだけれど、と首を傾げる間もなく背中と膝裏に腕を回され、あっさりと抱えられてしまった。
もはや流れでアベルの首の後ろに私も腕を回しつつ、自分の部屋の窓が遠ざかるのを眺める途中でハッとした。
――この人、私が庭で地面に降りる事を想定してないのだわ!少しだけ、なんて言わない方が良かったかしら。
アベルは風の魔法でふわりと着地し、光の魔法で周囲を照らしながら以前案内した花壇へ歩き出す。
今からまた往復してもらうのも申し訳ないから、靴は諦めましょう。
光で屋敷の皆が気付いてしまわないかしらと見やれば、外側に闇の魔法をかけているとアベルが言った。広範囲の風景を通常通りに見せかけるのは至難の業だけれど、今は明るさをごまかせば済むのでさしたる手間もないらしい。
…アベルは魔力量が規格外だから、手間に関しては聞いたまま信じていいか微妙なところだ。
「よく咲いているでしょう?」
地面からは五十センチほど高さがあるだろうか。
一センチにも満たない小さな花弁が五枚集まって花冠を作り、一つ一つの茎がいくつも青い花束を持っているかのようにたくさん咲いている。
花壇の前で立ち止まったアベルは、私を抱えたまま言った。
「ツイーディアじゃない事はわかる。」
「ふふ」
五枚の青い花弁を持つという点では同じでも、こちらは花弁の形が丸っこいし、ツイーディアはもっと淡い色だものね。中心部には黄色い輪があって、外側へ向けて短く白い線のような模様がある。
「この花はね、勿忘草というの。」
「……変わった名だ。」
「元になった逸話があるそうよ。名前のままに、花言葉は……《私を忘れないで》。」
顔は花の方へ向けたまま、アベルの瞳がこちらを見やる。
それはやっぱり流し目になるので気を付けてほしいと思いながら、ようやく花を見せられた喜びを胸に、私は顔をほころばせた。
「ね?貴方を想う人達の事を忘れずに。自分のせいだなんて一人で抱え過ぎたら駄目よ。あ…さっきの、神様じゃないというのは、受け売りなのだけど。」
「…別に、忘れない。」
「存在だけの話じゃないわ。貴方が守ってくれるように、私だって助けになりたいと思っているの。その気持ちまで全部、貴方がつらい時にこそ思い出してほしい。」
まだ力不足かもしれないけれど、何かはできる事があるかもしれない。
一人で抱えないでほしかった。
自分ばかりを責めないでほしかった。
アベルのためを思うようでいて、私の我儘かもしれなくて、でも。
そっと片手を伸ばしても、彼はちらりと見ただけで抵抗しなかった。
頬に触れると、促したままこちらを向いてくれる。近い距離で目が合う。
「少しでもいいから、一緒に背負わせて。貴方が抱えるものはきっと、とても重たいから。」
私に話せない事もあるだろうから、少しでもと望みを口にした。
金色の瞳が私をじっと見つめている。ちょっとは伝わったのかしら。
「――…覚えておく。」
考え込むようにゆったりと瞬いて、アベルはそう言った。
私は嬉しさについ微笑んで、僅かに首を傾げてみせる。
「忘れない?」
「あぁ、忘れない。お前と…この花に誓って。」




