229.幼い冒険 ◆
「見事に謹慎処分を無視したな、お前……」
呆れ半分、感心半分といった面持ちでウィルフレッドが言う。
アベルは悪びれた風もなく「まぁね」と返し、向かいの椅子を兄に勧めた。
部屋で謹慎すると言って扉の前を騎士に見張らせ、バルコニーから抜け出して食事の時間までに戻ってくる。
言うのは簡単だが、城の警備網を把握する事は勿論、騎士団の誰を信じて誰に黙っておくか、移動手段も含めて実行難易度はかなり高い。
「誰かに行かせるのでは駄目だったのか?」
「量が多かったからね。運ぶと目立つし、途中で紛失でもされたら終わりだ。」
「わかるが……まぁいい。」
よくはないのだが、ウィルフレッドはそれ以上聞かずに着席した。今は本題が先だ。テーブルの上で軽く手を組み、アベルと目を合わせる。
「ウェイバリーから希望を聞いたよ。ここから南、やや西よりにあるカンデラ山だ。」
「…アーチャー公爵領か。」
意外にもよく考えられた希望だと、アベルは腕組みをした。
一般人が勝手をできる土地ではなく、王子二人の協力があれば行けるかもしれない場所。必要なのは特務大臣エリオット・アーチャー公爵への口利きだ。
「あぁ。ただ少し問題があって……肝心の女神像の場所がわからない…可能性がある。」
「どういう事?」
「公爵にも聞いてみたんだが、カンデラ山に女神像があるという話は、現地ではよく知られた《伝承》なのだそうだよ。」
「無いかもしれないんだね。」
ウィルフレッドは頷き、「ただなぁ」と難しい顔で首をひねる。
「俺は…見たような気がするんだ。」
「……何だって?」
「八歳くらいだったかな?シャロンが二週間ほど領地で過ごす事になって、俺は無理を言って少しだけ遊びに行ったんだ。」
「…知らないんだけど。」
「はは、そうでなければ困るよ。俺だって幼いなりに頑張って口止めをしたのだから。」
「……ふぅん。」
アベルは不服そうに片方の眉を吊り上げた。城どころか王都より外に出すなど危険が過ぎる。無事だったからよかったものの、当時の警護体制はきちんとしていたのだろうか。
ウィルフレッドは「さては羨ましくて拗ねているのか」などと見当違いな事を考えながら、話を続けた。
「そこで俺はシャロンと二人、半日ほど姿をくらませてね。」
まぁ道に迷ったんだけど、と軽く言うウィルフレッドとは裏腹に、アベルの目は冷たい。
「…護衛は何を?」
「皆で隠れんぼをしようという話で、庭の裏手が山に通じていたものだから…」
隠れ場所を探しに二人で入っていき、やがて隠れんぼの事は忘れ、山道の冒険に夢中になったというわけだった。
その山こそ、今回ギャビーが希望したカンデラ山である。
「皆には迷惑をかけてしまったが、あれは楽しかったな。泉の水を飲んだり、シャロンが食用だと教えてくれた木の実を食べたり、程よい長さの小枝を探して競ったり。」
「…へぇ。」
「そういうわけで道はまったくわからないんだが、女神像らしきものを見た覚えはある。」
視線をテーブルに落として顎に手をあて、ウィルフレッドは当時の事を話し始めた。
歩き疲れた二人は眠ってしまい、起きた時にはもう空は暗かった。
どちらから歩いてきたのかもわからず、ひとまず風をしのげる場所を探してみると、シャロンが蔦に覆われた斜面の途中に洞穴を見つけた。
『風はないけれど、くらくてあなたのお顔も見えないわね。』
二人共がよじ登れた時にはもう辺りは真っ暗で、シャロンがそんな事を言う。ウィルフレッドも彼女が見えないのは不安であったから、初めてシャロンの前で魔法を使った。
『まぁ、きれい!バーナビー、あなた光の魔法が使えるのね!』
ほのかな明かりに照らされたシャロンは土で少し汚れていて、しかしそんな事は気にならないくらい、目を輝かせていた。彼女が笑ってくれる事にウィルフレッドは安堵を覚え、同時にその明るさは自分を元気づけるためでもあるだろうと感じる。
二人はしばらく洞穴の入り口近くにいたけれど、やがて奥には何があるのかと気になった。
『行ってみましょう!深そうだったら戻ればいいわ。』
シャロンに手を引かれ、僅かな明かりを頼りに暗い洞穴をどれくらい歩いたのか。全てを飲み込みそうな闇に対して、ウィルフレッドが灯した灯りはあまりにも小さい。
怖気付いて「そろそろ戻ろうか」と言ってみたけれど、シャロンはけろりとしていた。
『大丈夫よ、きっと。』
そして――歪な円形を描く広い場所に出た。
数十メートルは高さがあるだろうか、遠い天井にぽっかりと空いた大きな穴から月明りが差し込んでいる。
中央でボウッと白く浮かぶ石像は女性に見えた。周囲は草が生い茂っているのか、吹き込む風がさわさわと音を立てている。シャロンが足を踏み出すと、さくり、草の音がした。
『女神様?』
『そうだね、きっと――…、シャロン?』
前へ進もうとした彼女の姿が消えていた。
焦ったのもつかの間、空洞に響くような声が下から聞こえてくる。
『きゃぁあああぁぁぁ……』
『シャロン!』
遠ざかって消えた声に慌てて手を伸ばすと、どうやらそこは穴が空いていたらしい。あっという間にウィルフレッドも滑り落ちた。
『宣言――』
集中が途切れて消えた光を取り戻し、視野を確保するべきか。
着地点が同じだろうシャロンを潰さないよう、風の魔法を使うべきか。
当時のウィルフレッドはまだ、魔法の同時発動ができなかった。
迷った数秒の間に空中へ放り出され、固い地面にぶつかってゴロゴロと転がる。
穴の出口から地面までの高さはそんなになかったのだろう、痛みはあっても怪我はせずに済んだ。
『いったた……あっ、宣言、光よこの場を照らせ!』
目が潰れないようじわりと、しかし充分に辺りを見回せる程度に明るくする。身体が痛む事よりもまずはシャロンの安否が心配だった。
名前を呼びながら必死に目をこらすと、数メートル先に座り込むシャロンを見つけた。すぐに立ち上がって駆け寄り、小さな肩に手を添える。
『よかった、怪我はない?』
『バーナビー、ごめんなさい。わ、私……』
『…シャロン?』
彼女は泣いていた。
落下の恐怖で、抑えていた不安が顔を出したのだろう。しゃくりあげながら、泣き止もうと懸命にハンカチを目元にあてている。
ウィルフレッドは硬直した。シャロンが泣くところなど見た事がなかったのだ。
『私が、こんなところまで引っ張って来たから、迷っ、て…しまったのに。私がちゃんと、足下を見なかったから…ごめ、なさい。怪我を…したでしょう。』
『しっしてないよ!俺は大丈夫、全然痛くないし平気だ。』
『い、痛いって、言ってたわ…』
『…聞き違いだよ。』
どうしたらいいのか。
迷子になっている事より、シャロンが泣いている事にウィルフレッドは途方に暮れた。「大丈夫」と語りかけながら背中を擦ってやり、何かないのかと辺りを見回す。
先程とはまた別の洞穴のようだ。
光の魔法に照らされた天井はほんの数メートルほどの高さで、遠くにはぼんやりと出口も見えている。ひとまず、脱出不可能な空洞に落ちたわけではないらしい。
ただ当然ながら人の気配はない上に、シャロンを慰められるような物もない。すすり泣く彼女を見下ろし、ウィルフレッドはふと、自分の魔法を「きれい」と言ってくれた事を思い出した。
『泣かないで、シャロン。顔を上げて』
涙に濡れた瞳は見る者の胸を締め付けるほど悲しいのに、ひどく美しい。
こちらを見上げたシャロンに優しく微笑みかけ、ウィルフレッドは一度光の魔法を消した。改めて宣言を唱えると、小さな光の球がふわりふわりと飛び回り、通った後にはきらきらと光の粒子が残る。
まるで物語に出てくる妖精のようなそれはだんだんと数を増やし、幻想的な光景に目を奪われたシャロンはいつの間にか泣き止んでいた。
『すごい……とても…とてもきれいだわ。』
『落ち着いた?』
『…えぇ。ありがとう。』
ようやく微笑み返してくれたシャロンに、ウィルフレッドは顔を綻ばせる。空中を舞う光を瞳に映す彼女を改めて見下ろし、フリルシャツの左腕が少し裂けている事に気が付いた。
『シャロン、怪我を?』
『あ…そうね、落ちた時に……でも、かすり傷よ。』
『見せて。……血が出てるじゃないか。』
肌が切れたのはほんのちょっぴりだけで、血も既に止まっていた。
それでも万一にも傷が残ってはいけないと、ウィルフレッドは「これくらいなら俺でも治せるから」と笑いかけ、治癒の魔法を施した――瞬間。
『っ――…。』
『シャロン?』
疲れが溜まっていたのだろう。
息を呑むようにぴくりと身体を震わせ、シャロンは眠ってしまった。
「…その後俺達は無事に発見されたのだけど、二人して風邪を引いていたよ。俺は軽いもので、すぐ治って王都へ戻されたけどね。」
「……そう。」
アベルは渋い顔で相槌を打った。
恐らくシャロンは眠ったのではなく、ウィルフレッドの治癒による激痛で失神したのだろう。
「女神像までの道は覚えてないんだね?」
念を押して聞くと、ウィルフレッドは眉間に皺を寄せてぎゅっと目を閉じた。
「そうだな……俺を励まそうと笑うシャロンが可愛かった事は覚えてるんだが…」
「わかった、もういい。」
今は惚気を聞く時間ではない。
真剣な顔で「もちろん彼女は今も最高に素敵だ」と続ける兄を無視して、アベルは顎に軽く手をあてる。
もしシャロンがウィルフレッドの情報とは違う何かを覚えていたら、二人の話を繋いで見えてくるものもあるかもしれない。
「俺は時々、いっそ彼女は太陽の女神の生まれ変わりなのではと思う事が…聞いてるのか、アベル。」
「うん。しかし彼女、もう少し警戒心を持たせた方がいいんじゃないの。」
「どういう事だ?」
「男相手でも、失礼になるからって許し過ぎるでしょ。帝国のジークハルトが良い例だ。」
女神祭最終日の夜会での出来事だ。
ジークハルトはシャロンとのダンスの最中、周囲を煽るように近付いてみせた。その後彼女の肩に手を置き、頭に頬を乗せるようにしてべったりとくっついていた事までは、ウィルフレッドは知らない話だが。
チェスターがシャロンの手に口付けを落とそうとした時にも、彼女はされるがままになっていた。
「ちゃんと言っておきなよ。」
「俺がか?」
きょとんと目を丸くするウィルフレッドに、アベルは内心眉を顰める。
いい加減、婚約の事は知っているんだとハッキリ言ってやるべきなのだろうか。できれば自分から報告してほしかったと思いつつ、アベルは小さく唇を開けようとした。
「でも、そうだな。」
ウィルフレッドが言葉を続け、深刻な顔で目を伏せる。
「彼女の身に何かあったらと思うと……あぁ、実は揃いで何か持てる物をと探していたんだ。女性の意見も聞きながら。お前が前に、装飾品を贈ってはどうかと言っていただろう?」
「あぁ…いいんじゃない。」
アベルは頷きながら、以前ウィルフレッドの部屋を訪ねた時の事を思い出す。
侍女が数人、ウィルフレッドの机を後ろから覗き込むようにしていた。あの時は何をしているか考える余裕はなかったが、まさに相談中だったのだろう。
たとえ婚約の公表がなくとも、第一王子と揃いの物を持つ令嬢に手出しする馬鹿は少ないはずだ。
「俺達と揃いでは、彼女の周りに過剰な圧をかけるのではと懸念もしたんだが――」
「何で僕を入れるんだ」
「えっ?」
「何で、そこに、僕を、入れるんだ。」
よく聞こえるようにしっかりと強調して言うと、ウィルフレッドは驚いたように瞬き、寂しそうに眉尻をしゅんと下げた。アベルがぎくりとして困惑に顔を歪める。
「…駄目なのか?俺は、お前とシャロンがいてくれたら心強いと……」
「……だ、駄目ではないけど――」
でも、駄目だろう。
そう続けようとしたものの、ウィルフレッドが顔を輝かせて「よかった!」と言う方が早かった。
「しかしお前とシャロンに贈るとなると、どれくらいの質の何をどんなデザインで作るか非常に迷ってしまってね。候補は三百八十二点まで絞ったんだが、ウェイバリーの件が落ち着いたらお前の意見も是非…」
「ウィル、一旦忘れよう。」
真顔できっぱりと言い放ち、アベルは話を戻す事にした。
ガブリエル・ウェイバリーをどこへ行かせるとしても、監視役が必要になる。




