228.うちの殿下は鈍いらしい
ノーラはコールリッジ男爵の一人娘だ。
ウェーブがかった薄茶の髪を編み込んでハーフアップにまとめ、そばかすを薄くできないかと少し白粉をはたいたりして、ちょこんとした鼻に丸眼鏡を乗せている。朱色の瞳は綺麗というよりぼやっとした色合いだし、顔立ちも体型も地味な令嬢だった。
コールリッジ男爵邸の応接室で、そんな彼女の正面に座っている黒髪金眼の少年こそは、このツイーディア王国の第二王子、アベル・クラーク・レヴァイン殿下である。
――ほんと、これだけ見ると変な状況よねー……。
遠い目をして紅茶を啜りながら、ノーラは心の中でだけため息を吐いた。
アベルにはコーヒーが出されており、両脇には大量の紙束が置かれている。ノーラの父親が運営するユーリヤ商会からの調査報告書だ。
持ち出し厳禁の書類もあり、またアベルから唐突に質問が飛ぶ事もあるため、彼が読み終えるまではノーラもここから出られない。
ちなみに、応接室の隅には人の顔が彫り込まれた珍妙な壺が鎮座している。
父親がどこからか買ってきた土産の一つだが、落ち着かないので今は布をかぶせてあった。王子に披露して珍獣を見るような目で見られるのは御免なのである。
ノーラはかつて身代金目当てに誘拐された事があり、それを助けたのがアベルだった。
彼をいたく気に入ったノーラの父は、物流だけでなく情報収集にも一役買って、全面的にアベルに協力している。いわく、「彼だけは敵に回さない方がいい。逆に、味方だと利が余りある」と。それらしい事を言っているが、半分くらいはただの好奇心じゃないかとノーラは思っている。
「…何だ。」
報告書に目を落としたまま、アベルが聞いた。
ティーテーブルに頬杖をついたノーラが、無言で顔を眺めていたからだろう。
「いえ、相変わらずキレーなお顔だなぁって。」
「そうか。」
「美人は目の保養だって言うじゃないですか。あたし的には磨き上げられた筋肉も保養になると思うんですけど…あ、もちろんあのこうグッとやった腕の筋肉とかの話ですよ?腹筋なんて中々見れな……ん゛んっ、ゴホン。ほら、綺麗な空だとか花だとかも、つい見てしまうものですし。」
「あぁ。」
「肌も綺麗で羨ましいくらいなんですけど、お風呂の時とか化粧品使いますか?」
「知らない。」
さては使用人任せにしているな、と考えてノーラは小さく肩をすくめた。
そしてどうやら、完全に上の空で適当な返事をしているかと思えば、きちんと聞いてくれてはいるようだ。
「殿下。もしいつもと香りが違うとかあったら、ちょっとは気を付けた方がいいですよ。中には合わないヤツもあるかもですし。ご尊顔に何かあったら女の子達が泣いちゃいますから。」
「そうか。」
どうでもよさそうな返事に、相変わらずその辺興味がないんだな、と視線を空中に投げた。
狩猟の時は崖に飛び込んでまで助けたという《彼女》とは、その後どうなったのだろう。女神祭でも随分仲良さげだったと噂が流れていたものの、婚約どうこうという話までは聞こえてこない。
――来月にはシャロン様も一緒に学園かぁ……彼女なら誰も文句ないかもだけど、あたしが殿下と知り合いなのバレたらやばいだろうなぁ。
恋愛小説に出てきた、嫉妬に狂った令嬢達の所業を思い出す。
きっと現実ではそんな事起こらないと信じたいが、伯爵家の茶会に呼ばれただけで小言を言われるノーラにとって、アベルとの繋がりが知られる事は致命傷に等しかった。
「殿下、あたしが古馴染みなのはこれまで通り内緒にしといてくださいね…」
「名前は出してない。」
「そうそう、名前は……え?」
今、何と言ったのか。
頬杖をついた姿勢からピャッと背筋を伸ばし、ノーラは目を丸くしてアベルを見る。その驚きようを不思議に思ったのだろう、アベルも彼女を見た。
「まずかったのか?幼馴染の女がいるか聞かれたから、いると答えた。」
「うぇえ!おさななじみ!?」
「何で驚くんだ。俺とお前が会ったのは六歳の時だっただろう。」
「そりゃそうですけど!ほ、他には何か聞かれました?」
ノーラは少し青ざめた顔でおそるおそる聞く。
そんな彼女を不思議そうに眺めながら、アベルは思い返すように一度瞬いた。
「何歳で知り合ったか、名前で呼び合うかどうか…」
「な~んだ。呼びませんよね、殿下!」
「偽名の方は呼ぶだろう。」
「そうだった…」
ほっとしたのも束の間、ノーラはがくりと肩を落とした。偽名の事情まで説明したとは思えないので、相手はアベル第二王子殿下を名前呼びしていると考えたはずだ。
「それと、一緒に遊んだ事があるか…」
「あたしと殿下じゃ、仕事の話くらいですよね。」
「子爵邸で遊ばなかったか?」
「…あれをカウントしないでくださいよ!」
アベルが言っているのは、彼が保護してノーサム子爵邸に連れてきた兄弟の事だ。
養子になったばかりで所在なさげな彼らを慣れさせるため、アベルとノーラが一緒に遊んでやったのだ。何なら喫茶《都忘れ》の二人も一緒だった。
質問した側の意図をきちんと汲んで答えろとノーラは叫びたい。
「後は部屋に行った事があるか聞かれたな。」
「うっ、それは……余計な事話してないですよね。」
「…名前は言ってない。」
「何なら言ったんです?」
じとりと怪しむように見やれば、アベルは少し気まずそうに目をそらした。
「……たまにお前が寝ているから、俺が起こす事になる。」
「じッ、事実ですけども!」
とんでもない誤解が生まれている。絶対に。
ノーラはテーブルの上で拳を握り締め、耐えるようにしばし俯いた。狩猟の日にも女心がわかってないと感じたが、まさかこうまで鈍いとは。
「そんなにまずいか?名前は出していないし、言いふらす奴でもない。」
「ま、まずいですよ……だって、聞いてきたの女の子ですよね?」
「よくわかったな。」
「絶対誤解されましたよ。その方は、殿下と幼馴染が割とその…親密だと思ってるかも。」
「親密。」
「恋愛的な意味でです。」
こんな事をハッキリ言わせるんじゃないと心の中で毒づきながら、ノーラはため息混じりに言った。アベルは少し考えるように顎に手をあて、長い睫毛をゆったりと重ね合わせる。
「確かに驚いた様子だったが…」
「そりゃ驚くでしょう。」
「特に問題ない。」
「ありますって!ちゃんと誤解とかなくちゃ、その方は、殿下に脈が無いって思っちゃうかも――あ、脈のあるなしって言葉はですね、生きてるかどうかじゃなくって…」
「…それくらい知ってる。」
知っていたらしい。
どこまでわかってるんだかわからない人だなぁと、ノーラは呆れながら紅茶に手を伸ばした。
「彼女には婚約者がいるから、そこを気にしている可能性はない。」
「あれ?そうなんですか?」
意外に思って眉を上げる。
てっきり聞いてきたのはシャロン・アーチャー公爵令嬢だと思っていたのだ。しかしそれはそれで考えものだと、ノーラは紅茶を啜りながら渋い顔をする。
「その方……殿下が話すくらいだから、特別男性が好きってわけじゃないですよね。」
「…当たり前だ。」
アベルが不機嫌に眉を顰めた。
どうやらだいぶ彼の信頼を得ているらしいと、ノーラはまだ見ぬ令嬢の事を想像する。
――殿下の恋愛話が知りたいんだったら、もっと根掘り葉掘り聞きそうなものだけどなぁ。質問も「遊んだか」じゃなくて「二人で出掛けたか」とか、「プレゼントはどんな物を」とか。「部屋に行ったか」じゃなく、「密室で二人きりになったか」でしょ。何でそんな感じなのかなー……
「…もしかして…」
カチャ、と小さい音を立ててカップを置きながら、ノーラは呟いた。
アベルの視線は報告書に戻っている。
「家の都合で、望んでない婚約が決まっちゃったんじゃ…」
「本人同士が望んだ物だ。」
違ったらしい。
アベルが信頼する相手であり、婚約者がいるご令嬢が気にするのなら、その意味は。
答えはとても単純だったのかもしれないと、ノーラは微笑みを浮かべた。
「じゃあきっと…その方は、殿下にも幸せになってほしいんですね。」
「…そうかもしれないな。」
「とりあえず誤解はといてくださいよ?あたし本当、万が一にも骨肉の争いに巻き込まれたくないので!」
「わかった。」
素直な返事だったが、ノーラは「果たして本当にわかっているのか」と疑いの目を向けた。知らないところで話が大きくなっては困るので、時々確認が必要かもしれない。
王族らしく整った顔をじっと眺めながら、ため息を吐いた。
「シャロン様の事で悩んだら、相談してくださいね。」
「……いきなり何だ。」
「クローディア様は放っときましょうなんて言ってましたけど、今日の話を聞くと心配なんですよ。女の子の意見を聞いてみるべきだと思うんです。女心は複雑なん……そう言うならもっと女らしくしろって話はいいんで!」
「何も言ってないどころか、見てもないけど。」
「わかってます!」
ノーラは自分のために先に予防線を張っただけなのだ。
ティーポットから紅茶の二杯目を酒の如くトクトク注ぎ、カップに唇をつける。
扉は閉め切っていないとはいえ、王子殿下と二人きり。
普通の令嬢なら緊張してかちこちになり、見目の麗しさに顔を赤らめてもじもじするのだろう。
しかしノーラは人使いの荒いアベル殿下と知り合って六年あまり。完璧なご尊顔にもだいぶ慣れたし、元からイケメン細マッチョよりも男臭いゴリマッチョが好きなのだ。甘いときめきなどあろうはずもない。
「ま、あたしで良ければ話くらい聞きますから。」
「聞かせるような話はないよ。…噂を真に受けてるのか?」
「だって、シャロン様と仲が良いのは本当ですよね。」
「普通じゃないの。彼女となら、ウィルの方が余程仲が良いと思うけど。」
女神祭の夜会でシャロン・アーチャーは第二王子のパートナーを務めたが、その後は第一王子や公爵令息だけでなく、アクレイギア帝国の暴虐皇子とも踊ったという。
それでも噂の割合としてはアベルが圧倒的だ。
「じゃあ殿下は、シャロン様をお嫁さんにする気はないんですか?」
「っ、げほっ、馬鹿を言うな。ありえない」
ちょうどコーヒーを飲んだ瞬間だったらしく、アベルが軽く噎せた。ノーラは怪訝な顔で「えぇ?」と声を上げる。
――筆頭公爵家のご令嬢で、近付いたら良い匂いでもしそうな美少女で、噂が立つくらい仲が良くて、殿下を怖がらないどころか剣術まで嗜んでるんでしょ?そんな彼女を…
「ありえないとまで言います?」
「…彼女を貶したつもりはないよ。そもそも、僕が結婚したがってるように見えるのかな。」
「そりゃまぁ、見えませんけど。」
アベル第二王子殿下が「結婚したい」なんてため息をついた日には、王都は史上初の吹雪に見舞われるだろう。
そして噂を聞きつけた令嬢の波が押し寄せ、通りすがりのノーラは弾き飛ばされて壁に激突し、気絶した状態で雪に埋もれ、発見は遅れ…
「あたしの命もそれまでですね……。」
両腕で自分を抱きしめるようにして震えたノーラを無視し、アベルはページをめくった。報告書にはとある国との交易について書かれている。




