227.その身は誰のもの ◆
『なぜ燃えないんだ?』
私は首を傾げてそう言った。
床に転がった「あれ」はずるりと身を起こして跪き、私に頭を下げる。
『宣言、火よこの場へ現れよ。こいつを燃やせ。』
魔力鑑定で私は正しく、父上と同じ火の属性が最適であると、ニクソン公爵家の後継者として文句のない結果を出したのに。
『サディアス様…魔法は、その、一般には十三歳から…』
『そんな事は知っている!お前は私が早くに使えないとなぜ決めつけるんだ!!』
『おやめを!』
ボソボソと話しかけてくる侍女が鬱陶しくて、テーブルにあったティーポットを投げつけた。頭を庇った腕にぶつかってガチャンと割れ、侍女の手が切れる。私に生意気な口を利くからだ。
『おい、汚い血を垂らすな!出て行け!』
『も、申し訳ございませ…』
『お前ぇえ!!』
侍女から目を離し、私を今最も苛立たせている「それ」に駆け寄る。
足首まで隠す長いローブ、フードには不気味な黒いベールが付いていて顔が見えない。私はベール越しにそれを蹴り飛ばしてやった。靴先に固い感触がして、それはくぐもった声を漏らして後ろへ倒れ込む。
『燃えろって言ってるんだよ、何で燃えない!?早く燃えろ!』
『…ッ、ぅ…!……ぐ…!』
『宣言!火よこいつを燃やせ!燃やせ!!』
『………っ…』
ベールごと口元を押さえたそれを何度も何度も踏みつけた。途中で変な音がしても気にしない。私がこれをどう扱おうと、誰も止めはしないのだから。
『はぁ、はぁ……もういい!立て。』
私の命令は絶対だった。
がくがくと馬鹿みたいなみっともない動きで立ち上がったそれの髪を、フード越しにぐしゃっと掴んで引っ張り歩く。二つ隣の部屋に暖炉があったはずだ。
『そこのお前、薪を持ってこい。燃やすから』
『薪ですね、畏まりました。』
廊下にいた使用人に命じると、そいつはすぐに踵を返した。それでいい。
燃やすつもりだったものが燃えないのは不快だ。
私は部屋に入り、大きな暖炉の中にそれを突き飛ばした。頭でもぶつけたのかゴンと音がする。
『薪をお持ちしまし……さ、サディアス様。燃やすとは…』
『これを燃やすに決まってる。』
どうしてか青ざめた使用人の手から薪をひったくり、楽しみに思いながら縮こまったそれに薪をぶつけたら、跳ね返ってこちら側へ落ちた。ちゃんと持っておけという意味を込め、薪を乗せてから足蹴にしておく。
長袖から覗く細い指が薪を抱えた。
『それでいいんだよ』
私は笑顔で褒めてやり、正解の証に靴裏でその指を薪に擦りつけておく。振り返ると、使用人が数名こちらを見ていた。
『火種は?それか、誰か魔法でもいい。』
返事がない事に苛立つ。
床を一度だけ踏み鳴らすと、大人のくせして全員がびくりと肩を揺らした。
『で…できません。』
『逆らうのか。そこに直れ』
『違います!』
仕置きをするべく近付こうとしたら、逆らった男の使用人が悲鳴のように声を上げた。
『そ、それを殺すかは旦那様がお決めになる事にございます!ゆえに、できないのです!』
なら、納得した。
これは父上が私に付けたものだ。治せる範囲ならまだしも、死ぬかもしれない事はできない。所有者の許可なく破壊してはいけない、という事だ。
なんだ、つまらない。
暖炉の中で薪を抱えたままのそれを置いて、私は母上を探しに部屋を出た。
まだ幼い弟と庭にでも出ている事だろう。弟がぐずると五月蝿いし母上と話せなくて苛々するが、そうしたらまた代わりにあれを殴ればいい。
がこ、と薪を放る音がして、よろめいているのか、不規則な足音が追いかけてくる。
どの辺りで追いつかせようか、私は計算を始めた。
振り返った瞬間に殴ると、あれはよく飛ぶのだ。
それがいると苛立ちを溜め込む必要がないし、軽い運動にもなる。
ただ、物陰だろうと何だろうと、絶対にそれに手を出してはいけない場所もあった。
王城だ。
狡い大人達の誰がどこから見ているかわからない世界。
父上の傷にならぬよう、適度に人格者として振舞わなければならなかった。使用人が相手でも、よほど相手に非がなければ暴力は無しだ。
私はまだあまり行く機会がなかったが、自分の魔力鑑定を経てとうとう王子殿下と会う事になった。二年後には必ずどちらかの従者として就く事になる……そう、父上から言われている。
公爵家に生まれた男児として、王子の従者ほど完璧な道はない。
任じられた時点で勝ちも同然だろう、信頼を得れば将来も約束されている。上手くやってみせる。父上の期待通りの人生を歩くために。
正装に身を包んだ私の後ろで、「それ」もまた一端の従者めいた小綺麗なローブを纏っていたのは、ひどく滑稽だった。
父上が「見る必要がない」とベールで隠した顔は、さぞや醜いのだろう。当然王子殿下にも見せられない。姿が視界に入ると手を上げそうになるので、私は視界に入るなと言いつけてそれを連れ歩いた。
城は危険な場所でもある。いざという時に盾を使えなくてはいけない。
『顔を上げていいよ。』
幼く柔らかい声に従って、頭を上げる。
五歳になった双子の王子殿下は、事前に聞いた通りの外見だった。
金髪碧眼が第一王子、ウィルフレッド殿下。
人好きのする、子供らしくもお綺麗な笑顔だ。緊張と好奇心を隠せていない。
黒髪金眼が第二王子、アベル殿下。
血の気が多いのか既に剣を振り回していると聞く。私に対して愛想を撒くつもりはないようだ。
『お初にお目にかかります、第一王子殿下、第二王子殿下。ニクソン公爵家長男、サディアスと申します。』
どちらの従者になっても良いようにしなければ。
室内には一番隊だろう騎士が控えている。着席を促されて座ると、第一王子殿下はちらりと私の後ろを見やった。
『よければ、そちらの子もすわるといい。』
正気だろうか。
などと思ってしまっては不敬だ。私は表情を変えずに軽く頭を下げる。
『お気遣い痛み入ります、殿下。しかしこれはどうか、いないものとして扱ってください。』
『……いないもの…?』
『それがこの者の仕事ですので。』
『仕事、そうか。あまり背が変わらないから、もしや弟かと思って……仕事で立っているならば、仕方ないな。』
第一王子とは穏やかに話も弾んだ。
しかし第二王子は…振った話にいくつか言葉を返してきたものの、明らかに私を観察していた。
不愉快な目だ。
そうは思ったがもちろん口には出さない。
会話に積極的なのは第一王子だが、精神的に成熟しているのは恐らく第二王子だろう。
話の中で適当に王子達を持ち上げながら、後で何をして気晴らしをするか考えた。夕食で毒でも食わせるか、階段から落とすなら何段目からが――いや。
父上が帰ってくるから、今日は駄目か。
夜中には思った通り、父上はまたあれを呼びつけたらしかった。
母上ともろくに過ごす事がないのに、屋敷に戻ると必ずあれを自室に呼ぶ。決まって夜中で、使用人の誰一人として中には入れさせない。
腹立たしい。
なぜあんなものが。私だって父上と話がしたいのに。
『旦那様、夜ごと何をされているのかしら』
『さぁ……私達にはわかりようがないわよ。あの子供の中身を知っているのは、旦那様だけですもの。』
『わざわざ闇のベールでお隠しだものね。サディアス様よりよほど長く過ごされて……あっ。』
『何よ。』
『あの子、女の子だったりして…』
『やめてよ!最近ようやく、サディアス様の仕打ちを見てられるようになったのに…』
父上がお考えになる事など、私には計り知れない。
ツイーディア王国の五公爵家の一角、ニクソン家を背負われている父上。国王陛下より法務の責任者を任された父上。
公爵の地位を継ぐに相応しい能力を持てと言う父上。それに応えるとたまに褒めてくださる父上。
私自身には興味が無い、父上。
『サディアス様…い、いつからそちらに…』
『父上を侮辱して楽しんでいたようだな。』
『ッ違います!彼女が勝手に』
『何言って、貴女だってこの前は――』
今日はこいつらで発散しよう。
自室の勉強机に向かいながら、私は昨夜の仕置きを思い出していた。
人間というものは、衣服がないだけでも精神的苦痛を覚えるらしい。確かに惨めだ。裸に剥いて乗馬鞭で叩かせただけで、あの女達はひどく泣き叫んだ。
物心ついて初めてまともに見た「女という物体」は、見るに堪えない醜さで。
母上も同じ女じゃないかと考え、吐き気がしたので考えるのをやめた。
『サディアス様、あれが戻りました。』
『父上は?』
私はそちらを見もせずに聞いた。
父上は朝食の席にはいらっしゃらなかった。
『次は五日後に来られるそうです。』
つまりもういない。
使用人が立ち去ってから、私はペンを置いて振り返った。
それはいつものように、息を殺して立っている。
『お前、朝食は食べたのか』
椅子の背に腕を乗せて聞くと、それは両手両膝を床について頭を下げた。食べたらしい。
私は今まで…なんとなく避けてきた質問を、なぜか、してしまった。
『父上の部屋で?』
それは頭を下げたまま動かなかった。
私は立ち上がり、望み通り仕置きをしてやろうと考える。
喋る事も顔を晒す事も許されていない、これ。
しかし見方を変えてみれば、これは「隠す事を許されている」のだ。
あの女達のように服を剥かれる事は無い。父上が必要ないと言うのだから。
この屋敷では誰も父上に逆らえない。
『……あぁ』
フードをかぶった頭を踏みつけて、床にグリグリと押し付けた。そのまま背中に勢いよく腰かける。ぐ、と声とも息ともつかない音が漏れた。
『お前を裸に剥いて、さぞ醜いだろう顔を笑って、皮膚に白いところの無いよう痛めつけ、間抜けな逆さ吊りでも晒してやれたら…』
どんなに胸がすくだろう。
そう考えて、しかし、できない話だ。父上に刃向かうつもりは無い。
『……そうしてやったら、お前は』
少しは私を苛立たせるのをやめるだろうか。
父上が来ない日にも、これは私の機嫌を損ねるのだ。
なぜか。
『………。』
私は腰を上げ、床に頭をつけたままのそれを見下ろした。
蹴り飛ばすのではなく、足裏で指示するように脇腹を押す。ごろ、と転がったそれは、蹴られる事を予想して体を丸めていた。
闇の魔法が使われているというベールは、揺らいでも決して中を見せない。
『お前。』
呼ぶと、蹴るのではなく別の命令が下ると察したのだろう。それはビクリと震え、後ずさって跪いた。
『謝れ』
喋れない事を知っていて命じた。
僅かに顔を上げるその行為は、私への疑問だろう。早くしろという合図に軽く床を踵で叩くと、それが唾を飲む音が聞こえた。
『醜い顔を晒して私に謝れと言ってるんだ。』
日焼けのない指がそろそろと床を這う。
まるで、理由はわかるだろうと語りかけるように緩慢な動きで、それは再び頭を下げた。
『今ここに父上はいないのにか?』
それは動かない。
私は顔を歪め、水差しの中身を浴びせかけた。私とそう変わらない大きさの体躯が縮こまる。いつもと同じようにそれで気晴らししながら、苛立ちはつのるばかりだった。
私は呼ぶのに、なぜお前は。
私は見ているのに、なぜお前は。
私が話しているのに、なぜお前は。
私が一緒にいてやってるのに、なぜお前は。
『父上の所有物のつもりか、烏滸がましい!』
何度叩いても蹴っても、どれほど罵倒しても、それは押し殺した呻き声を上げるばかりで。
私の命令は絶対なのに、それよりも父上を優先した。
名前すらないゴミが、父上の望む優秀な後継者である私を、父上よりずっと長く面倒を見てやっている私を——
私を、一番知っているのは、お前なのに。
『私に従わないなら、死ね!死んでしまえ!!』




