226.全ては命令で
「申し訳ありません」
普段の態度とはまるで似ても似つかない。
消え入るような声、頼りなく揺れる瞳、少し曲がった背中も、蒼白な顔も。母親にひどい事をされたというあの日より余程、彼は怯えていた。
「どのような処罰も受け入れます…どうか、アベル様をご説得ください。」
「まずは座ってくれ。今にも倒れそうだ」
「私の事など…」
「座らないのなら何も聞かないよ。」
「………失礼、致します……。」
いつも冷静で淡々と物事を進めていたあのサディアスが、座るというだけの所作すらおぼつかずにいる。彼はよろめくように椅子に近付き、半端に引いてぎこちなく座った。姿勢の維持にほとんど気を配れていないのだろう。
サディアスが来た時点で、護衛騎士のヴィクターとセシリアには廊下へ出てもらった。暴走を起こした後とあって、ヴィクターは渋い顔をしたけれど。
侍女も二人分の紅茶を注いだら静かに礼をして退室する。扉が閉じてから、彼は話の続きを口にした。
「あの方は……今の貴方様ならば、聞いてくださいます。」
「そうだな。」
「ウェイバリーを襲ったのは紛れもなく私の失態です。アベル様は関係ない」
ガブリエル・ウェイバリー。
稀代の天才画家…誰が相手でもそうなのだろうあっけらかんとした態度で、父上や母上を前にしてもまるで物怖じしなかった。
炎が迫ろうと自分の髪が焼けようと、逃げる事なく。掴みどころがなく気分屋で、いっそとても純真な人だと言えるかもしれない。有名であるがゆえに下手に捕えられず、かと言って口止めできるのか疑問が残る。厄介な相手だ。
彼はたまたま控室の前を通りかかったサディアスを招き入れた――正確には、本人の意思を聞かずに連れ込んだ上で施錠した。
扉の内鍵を守りはしなかったそうなので、監禁とは言えないだろう。まして力ずくなら圧倒的にサディアスが有利だ。
そこでウェイバリーが放った一言が、火をつけた。
『君はサディアス・ニクソンじゃないだろう?』
「なぜ…アベル様の命令だった事になっているのですか。」
「俺はそのような指示をしないし、万一したら、君は止めるだろう?」
黒縁眼鏡の奥で目を見開き、サディアスは青ざめた顔で俺を見つめている。
紅茶の香りが漂っていた。
「第二王子派筆頭であるニクソン公爵の息子で、俺に対して絶対的な忠誠を見せてきたわけでもない。君がアベルの命令で動いても、誰も不思議に思わないよ。」
「…貴方は…アベル様を悪く言う事には、反対だったはずです。」
「君は協力していた。あいつが民の命を奪った、とか……少々事実と異なる内容を、幾度か市井に巡らせていたはずだ。それに比べれば今回はマシじゃないのか。命令通り、君はウェイバリーに怪我はさせなかった。」
サディアスの肩が強張る。
恐らく膝の上で拳を握っているのだろう。顔色は悪いままだ。
「君も知っての通り、彼が呼ばれたのは肖像画のためだ。付き添いの画商は随分と心配してね、防音の魔法を張った上で通訳の真似事をする徹底ぶりだった。」
「…あの画家は、権力に頭を垂れません。」
「あぁ、君の言う通りだ。俺は気にしていなかったけど、アベルは読唇して何を言ったか見ていたそうだ。言い当てられて画商は真っ青になっていた……」
もちろん、何度も念を押して防音の魔法と通訳を絶対条件にした画商に、何の落ち度もない。
それで良いと招いたのはこちらなのだから。
俺はアベルと画商の男が面会した時の事を思い出した。
『ひっ、ひぃい…!』
恐怖に顔を引き攣らせる画商と違い、アベルには余裕があった。
愉悦を感じているかのように弧を描いた目で、剣ではなく抜き身のナイフで手遊びをしながら。
『それと、何だったかな?……あぁ、そうだ』
ローテーブルの上に片足をガンと振り下ろし、アベルは冷笑する。
『僕は、笑顔の練習をした方がいいんだったね?』
『ちちち違うんです!そ、それはその!決してそういう意味では』
『そういう意味?』
『お、お助けを…命だけは…あいつ、悪気があるわけじゃないんです!どうか、どうか命は、ッ!』
ナイフの先端を向けられ、画商の喉がヒュッと鳴った。
俺は座った椅子ごと姿を魔法で隠したまま、二人のやり取りを眺めている。
『畏れ多くも国王陛下と王妃殿下を侮辱し、王子である僕達を貶した。――あぁ、わかってるよ。君は色々と気を配ってくれたね。』
アベルは目を細めて微笑んだ。
人を下に見る事に慣れ、それが当然だと言わんばかりの目だった。声はどこか酔わせるような響きで、意思の弱い者はフラフラとついて行ってしまいそうだ。
つ、と後を引くように足を下げてソファに座り直し、尊大に脚を組む。目線や仕草のタイミングまで魅せ方を完璧に心得た所作に見えた。まるでオペラに登場する悪役だな……俺の弟は、たとえ役者になっても大成するんじゃないだろうか。
『ちょっと部屋を明るくしてあげたんだ。どうして自分で髪を切ったのかは、知らないけど?』
『ぁあ…かるく…っ!?』
『今日のところは大人しく帰るがいい、フラヴィオ・テート。ガブリエル・ウェイバリーは必ず、傷もなくお前のもとに戻るだろう。』
『お…お咎めは……』
『欲しいなら、躾をくれてやるが?』
そんな悪の帝王みたいな顔、一体どこで覚えてきたんだ。シャロンには絶対に見せるんじゃないぞ。
画商はか細い悲鳴を上げて震えあがっている。
『それから、くだらない嘘や冗談を撒かないように。僕の耳に入ったら、王家至上主義の連中に今日の事を話してしまうかもね。』
『いいい言いません、虚偽など…その、ギ…ギャビーが、あいつがちゃんとかかき帰ってくるなら!』
目に見えるほどだらだらと汗を掻き目は泳ぎ呼吸を乱しながら、それでも画商は、フラヴィオ・テートは言いきった。
アベルがほんの一瞬、素の顔で笑う。
頭を下げていた彼には、見えなかっただろうけれど。
これで、サディアスの魔力暴走を知らないこの男にとって、《第二王子が命じて部屋を焼かせた》事が真実となった。
元は不敬が理由、アベル本人からやや物騒な口止めもされている。酒か何かで口を滑らせたとしても、話すのは自分が知る真実のみだろう。
「…それでなぜ、私を処分しないのです。」
手を伸ばさない彼に代わって、俺はシュガーポットから角砂糖を一つ取り出した。白く、均整の取れた四角に成型されたそれを、サディアスの紅茶に落とし入れる。
整っていた形が崩れ、しかし溶け切らずに残った。
「今回の件で私を消す事もできたはずです。そうすれば父もただでは済まない…労力なく押さえ込めた。オークス公爵家が揺らいだ、今だからこそ……貴方がたは、私を庇うべきではなかった。」
ティースプーンを持つ事もなく、サディアスは疲れ切った声で言う。
俺は自分のカップを傾けて紅茶を飲み、意識してゆっくりとソーサーに戻した。
「サディアス、君は何か記憶違いをしているようだ。」
「記憶違い…?」
「君に命じた際、少しやり過ぎても構わないと言ったのはアベルだっただろう?」
「ウィルフレッド様!…本気で言っておられるのですか。」
「君はアベルの命令を無かった事にして、公爵に虚偽の報告をする気か?」
「…そ、れは」
サディアスは目に見えて混乱していた。
俺がこんな話をするとは思いもしなかったのだろう。そもそも、今の彼の頭が普段と同じように回っているとは、とても思えないが。
それでも君は理解したはずだ。
俺だけの意見ではなくアベルの意見でもあると。魔力の暴走など起きなかった…ニクソン公爵に報告するなら、正しく言ってくれなければ困る。
「飲みなさい、サディアス。冷めてしまう」
普段の君ならもっと上手く立ち回っていた。
《サディアス・ニクソンではない》。
その言葉は君にとってどれほど重いものなのか……俺を見る目が怯えているのは、どこまで調べたか気にしているのだろう。
「君が自棄になっている事くらい、俺が見たってわかるよ。」
「……申し訳、ありません。」
サディアスは視線を落とし、緩慢な動作で紅茶のカップを手に取った。
砂糖を混ぜる事すらしていない。俺は彼がいかにも気の進まない顔で少し飲み、カップを戻すまでを見届けてから口を開いた。
「君のせいにして消せという話だけど、デメリットが多過ぎるので却下だ。これまでの仕事ぶりを評価しているし、この程度でニクソン公爵家の嫡男が消えては困る。我が国の芸術分野を担う者として、ウェイバリーを失うつもりもない。」
「…彼は何を言いましたか。」
「どんな会話をしたかは全て聞いている。自分が気に障る事を言ったから怒らせたのだろうと、君やアベルに対する罰は望まなかったよ。」
もっとも、望まれたとして罰が叶うとも思えないが。
あくまでアベルの指示だったとする俺の言葉に、サディアスは視線を落としたまま眉根を寄せた。
「なかなか、火に囲まれる事などないからね。本人は気にしていないようだったが、忘れた方がいいだろうと思って、褒美に色をつけておく事にした。」
「……金を欲しがる男では、なかったと思います。」
「その通りだ。立入禁止区域に設置された女神像を見る事を、一部許可する。」
「まさか、王家の?」
「はは、さすがにそれは許されないよ。彼には候補があるようだったから、まずは希望を聞いている。」
穏やかに笑って返し、また一口、少しだけぬるくなった紅茶を飲む。
俺が緊張していてはサディアスも今以上に気が抜けないだろう。いつもなら君はもっと俺の考えを、扱いを、心得ているはずだ。
「ウェイバリーには見張りをつけるし、君にはこれまで通り、俺の従者でいてもらう。」
「…貴方は、私を信用していないはずです。」
「そんな台詞を俺本人に言うあたり、本当に自棄になっているよ。自分でもわかるだろう」
「……いけませんか。」
反抗心の滲む声に少しだけ、いつもの調子が戻りつつあるかと考えた。
「悪くはないが、引きずられても困る。罰が欲しいなら、消えたいという君の願いを叶えない事も罰だ。罪だと思うなら、消えるのは償ってからにしなさい。それだけの働きをしたと思った時、まだ消えたいなら改めて話を聞こう。」
アベルは今、騎士団と話している。
本当なら真っ先にあいつと話したかっただろう君は、俺のところに来るしかなかった。
「サディアス」
今回の判断が正しいのか、間違っているのか。
本当はもっと上手く調整できるのではと迷っている。でも今の彼の前で揺れる姿は見せられない。小さな不安を隠して堂々と振舞い、真っ直ぐに見据えた。
「その名が何を示すものであろうと、この六年近く俺の従者でいてくれたのは君だ。部屋を一つ駄目にしたくらいで捨てるほど安くはない。」
ジョシュア・ニクソン公爵の髪と瞳の色を、そのまま受け継いだ君。
サディアス・ニクソンではないと言われた君。
その言葉に怯えた君。
真面目な君が全て投げ出したいと思うくらい、ウェイバリーの言葉は突き刺さったのだろう。心を揺らしたのだろう。追い詰めたのだろう。暴走を起こすほどに。
俺がもし優しい人だったなら、君を逃がしてやったんだろうか。
公爵からも誰からも隠れられるように、死んだ事にでもして、何の責任も負わなくていい場所へ。
けど俺は、君の力が惜しいから。
「これからも俺達を支えてくれないだろうか。」
問いの形式で命令する。
サディアスは唇を引き結び、苦しげな顔で頭を下げた。




